ツンデレ魔女を殺せ、と女神は言った。

著者:ミサキナギ イラスト:米白粕/電撃文庫

一章 オタクは推しに還元したいんだ、と俺は言った。

 面談室を出るなり、わたしは走った。

 他の生徒たちがとっくに帰宅した校舎に、わたしの足音と荒い呼吸音だけが響く。黄昏どきの廊下はもの哀しくて、ひどく疎外感を覚えた。

 わあっ、と遠くから賑やかな声がして、わたしは足を止めた。

 廊下の窓からは寮の広場にある巨大な女神像が見える。続いて楽器の演奏が始まった。年に一度のお祭り、女神降臨祭が行われているのだ。

「……」

 願いがあるのなら女神様に祈りなさい。人は皆そう言うけれど。

 もう何度も何度も祈ったのに、それでも叶わないときはどうすればよいのだろう。

 楽しげな音楽から逃れるように、わたしは窓の陰に蹲った。

 女神像に背を向けて両手を組む。

 目蓋を閉じれば、そこは一人きりの闇の中だ。

「──どうか、わたしにも───」

 初めて、自分自身に祈った。





 今日は厄日なのか。

 目覚めてすぐ、俺は思った。

 二月十四日だ。バレンタインデー。女子がチョコをくれる日。俺的には義理チョコのおこぼれに与れる日。

 そんな日に何故、俺は薄暗い森の地面に埋まっているのか──?

 自分でも信じがたいのだが、俺は今、直立した体勢で地中に埋まっている。頭だけが地表に出ている状態だ。視界に映るのは鬱蒼とした木々のみで、土の匂いが鼻をついている。

(ヤベえぞ……なんで俺、埋められてんだ!?)

 記憶を整理してみよう。

 放課後、俺は高校の教室で幼馴染にフラれた。手作りチョコをもらって本命だと喜んだら、ガチトーンで怒られたのだ。「あんたみたいなキモオタに本命あげないから。自意識過剰やめてほしいんだけど」

 ショックを受けた俺はトボトボと高校を後にした。どこをどう歩いたか自分でも覚えていない。工事現場の横を通ったとき、「危ないっ!」という声がした。上を見ると、降ってくる鉄パイプがあって、ゴッという音とともにそれは俺の頭にクリーンヒットした。

 そして、目覚めたら地面に埋まっている。

 ホワイ??

 状況が飛躍している。何故、鉄パイプに当たったら地面に埋まるのか。普通は病院のベッドで目覚めるもんじゃないのか。なんで俺は埋められて──。

(はっ、まさか……!)

 恐ろしい仮説が閃いてしまった。

 落下した鉄パイプで通行人が怪我をする。それは重大な事件だ。下手したらニュースになって工事現場の責任者のクビが飛ぶかもしれない。それを恐れて、彼らはこの事故をなかったことにするつもりではないか。

 怪我をした俺が存在しなければ、事故は明るみに出ない。フラれた男子高校生が失踪した話になるだけだ。

 冗談じゃないぞ、と俺は地面から這い出ようとした。

 しかしどういうわけか全身の関節が動かない。踏み固められた土のせいだろうか、力を込めても手足どころか指一本動かせないのだ。周囲を見渡そうにも首も回せない。

 頭上で鳥が鳴き、羽音が遠ざかっていった。

 木々の葉の隙間から見える空は群青色。もうすぐ夜なのだ。

 人間は水なしでも三日は生きられるんだっけか、と俺が考えていたときだった。

 ガサガサと茂みが揺れる音がする。

 パキ、と枝を踏む足音も。

(助かった! 誰か──)

 逸って声を上げようとしたが、すんでのところで思い止まる。

 もう日が暮れるのに、森に入ってくるのは誰だ──?

 工事現場の人間は俺が見つかると困る。人の寄り付かない場所を選んで埋めたに違いない。だとしたら、こっちに向かってくる足音は工事現場の奴らだ。彼らは俺の様子を見に来たのだろう。俺がまだ叫べるくらい体力があると知られれば、トドメを刺されるかもしれない。

 死んだフリだ。それでやり過ごそう。

 俺は目をつむり、息を殺した。

 足音は近付き、やがて俺の前で止まる。

「……はあ、やっと見つけたわ」

 ん?

 降ってきたソプラノの声に虚を衝かれた。男女平等が叫ばれる時代だ。工事現場に女性の作業員がいたっておかしくはない。俺が驚いたのは、その声が妙に幼かったからだ。

 そっと目を上げる。

(っ!?)

 さて、キミたちは銀髪美少女を実際に見たことがあるだろうか?

 俺はない。日本に生まれ、日本に育ち、アニメや漫画をこよなく愛する俺にとって、銀髪美少女とは二次元にのみ存在する虚構だった。

 一秒前までは。

 眩いまでの銀髪を風になびかせ、ローブ姿の少女が俺を見下ろしていた。

 小柄で、歳は中学生くらいに見える。切れ長の目に、透き通るような白い肌。現実離れした髪色でも違和感がないほど整った顔立ちだ。将来はとてつもない美人に成長するに違いない。またツンとした表情が俺のドストライクで、こんな子に「あ、あんたなんて好きじゃないんだから!」と言われた日には俺は安らかに死ねるだろう。

 ……って、死んだフリはどうしたんだよ!

 慌てて俺は目を閉じた。

 衣擦れがして、柔らかい手が俺の頭を包む。

(何だ? 一体何をするつもりだ!?)

 内心でビクつく俺。

 一瞬の溜めの後、少女は勢いよく俺を引っ張った。

「ふううううううううううんんっっ!!」

「おおおおおいストップストップっ!!」

 堪らず叫んだ。

 とんでもない子だ。俺を地面から引き抜こうとしたようだが、まさか頭を持って引っ張るとは。俺は大根じゃねえ。

「へ? 誰!?」と少女はキョロキョロしている。

 この状況で誰もないだろう。ここにいるのは俺と銀髪美少女だけだ。それとも彼女は俺がとっくに死んでいると思ったのか。

「俺はまだ生きている。頼む、俺を掘り出してくれ、銀髪ツン美少女!」

 死んだフリはやめだ。この少女は俺を葬りに来たのではない。引き抜こうとしたのだから俺を助けに来たのだ。

「ツン……? わたしのことを言ってるの!?」

「もちろん。銀髪でなおかつツンとしている美少女は、この場ではキミくらいだろう」

 少女がムッとした。俺としては「ツン」は誉め言葉だったんだが、彼女はそうは取らなかったようだ。

 険しい表情で彼女は周囲を見渡す。

「失礼なことを言うのは誰よ。隠れてないで姿を現しなさい!」

「初めから現れてるだろ。さっきキミは俺を引き抜こうとしたじゃないか」

 少女の視線が落ちた。

 まん丸い目が俺を捉える。ふう、やっと俺を認識してくれたか。これで一安心、と思った矢先、彼女の口が悲鳴の形になる。

「いやああああああっ、杖が喋ったあああああ──っ!!」

「おい待っ、なんで逃げる!? ちょ、置いてかないで! 助けてくださいお願いします銀髪ツン美少女様っ!」

「ひいいいん、様を付ければいいってもんじゃない……!」

 必死の呼びかけも虚しく、少女は銀髪を煌めかせ、彗星のごとく走り去っていった。

 後に残されたのは地面から頭だけ出した俺一人。

 木々のざわめきがした。

「厄日か……」

 助けに来てくれたと思ったら、逃げていってしまった。

 しかも彼女は奇妙なことを言っていなかったか?

 杖が喋った、と。



 大きなスコップを担いで銀髪ツン美少女は再び現れた。

 彼女が逃げ去ってからさほど時間は経っていない。空は群青色から濃紺色に変わり、星屑がちらほらと見え始めていた。

 ザク、ザクと少女は俺の周囲の土を掘ってくれる。

 己の姿が地中から現れ、俺は思わず間抜けな声を洩らした。

「どうなってるんだ、これは……」

 杖、だった。

 自分の身体を見下ろすと、ただ一本の棒がある。俺は杖になっていた。

 どうりで関節がぴくりとも動かないわけだ。首が回らないのも地面に埋まっていたからじゃなくて、首が回るようにできていないからだ。

「はは、棒に当たって俺は棒になったのか……この夢はいつ覚めるんだろうな?」

「何わけのわかんないこと言ってるのよ。はあ、まだ抜けないわね……」

 スコップを振るう少女は額に玉の汗を浮かべている。

 杖の俺は全長一メートルほどで、結構な深さまで掘らないといけない。夢の中とはいえ華奢な少女に重労働をさせ、自分は棒立ちでいるこの状況を非常に心苦しく思う。

「すまない。俺もできることなら手伝いたいんだが」

「杖のくせに手伝いたいですって?」

「掘り返してくれたキミは俺の恩人だ。何かお礼をさせてほしい」

「お礼?」

 少女は片眉を上げて俺を見た。すぐさま彼女は顔を背ける。

「べ、別に、あんたのためじゃないわ。見つけちゃったんだからしかたなくよ!」

「っ!?」

 聞いたか?

 今のは間違いなくツンデレ構文だった。

 ツンデレキャラ特有の素直じゃない台詞。

 毎朝、俺を起こしに来てくれる幼馴染も似たようなことを言っていた。「べ、別に、あんたのためじゃないわ。あんたが遅刻するとわたしが先生に怒られるんだからしかたなくよ!」

 ……思えば、この幼馴染の台詞に俺はまんまと騙されていたのだ。彼女がツンデレだと思い込んでしまった。

 ところで〝ツンデレ〟の定義をキミたちは正しく理解しているだろうか?

 本当は好意があるにもかかわらず、羞恥心などが邪魔をして本心とは反した冷たい言動を取ってしまう──それがツンデレだ。

 つまり、好意がなければそれはツンデレではない。ツンツンだ。どこまで行っても不毛な、決してデレには辿り着かない世界線だ。

 俺の幼馴染はツンデレではなく、ツンツンだった。ツンデレ推しの俺が幼馴染の属性をずっと勘違いしていた……このショックはデカい。この夢はきっと、傷心の俺の脳が創り出した妄想なのだろう。

「てことは、この子は俺の考えた最高のツンデレ? おおおおテンション上がってきたあああっ!!」

 ひゃあ、と少女が尻もちをついた。

「いきなり大声出さないでよ! びっくりするじゃない」

 彼女は鋭く俺を睨みつけてくる。そうだ、ツンデレとはこうでなくてはならない。

「いいぞ。強気な表情、キツい眼差し。痺れるほどに容赦のないツンだ」

「は、はあ……? なんであんた、息荒くして──」

「ツンデレの魅力とは何か? 一言で言うとギャップだ。強気な態度にもかかわらず、スカートの中が見えている。こういう隙にぐっとくるんじゃないか!」

「ふぁっ!?」

 座り込んだ拍子に彼女のローブがはだけていた。ローブの下には学校の制服みたいなのを着ていて、スカートの中は俺から丸見えだった。

 ほっそりしているが、適度な筋肉が付いた脚。白くすべすべして柔らかそうな太腿。さらにその奥には三角形の布までが──

「信じらんない。どこ見てるのよ、サイテー!」

 さっと立ち上がった彼女はスカートの裾を握り、顔を赤くしていた。恥ずかしさと怒りが絶妙にブレンドした表情がそそられる。

「俺も信じられない。まさかツンデレ少女のパンチラまで拝めるとは」

「ふあああ、パンっ!? ほんとにパンツまで見たの!?」

「幼さが宿る飾り気のないデザイン、無垢を象徴する純白、まさしくツンデレ少女の初心な内面を体現したかのような──」

「あああああパンツの詳細言わなくていいからっ! ふしだらな発言を今すぐやめて!」

 はあ、はあ、と少女は息を乱していた。

「……え、噓でしょ。……女神様、精霊を宿してくださったのは感謝いたします。ですが、こんなふしだらな精霊、あんまりです……!」

「俺も神に感謝しよう。こんな最高のツンデレに出会えたんだからな」

「あんた、さっきからわたしをつんでれ? とか言ってるけど、わたしにはステラ・ミレジアって名前があるの。二度とヘンな呼び方したら許さないんだから」

「ステラと言うんだな。会えて嬉しいぞ、ステラ」

「わたしはあんたに会って最悪な気分よ」

 プイと顔を背けるステラ。典型的なツンデレの仕草だ。ふふ、と思わず声が出る。

「何を笑ってるの……?」

「ステラの返答が理想的すぎて感動していた」

「感動って、わたしの言ったことちゃんと聞いてた? あんたが喜ぶようなことわたしは言ってないんだけど」

「俺はさっきから喜んでばかりなんだよなあ」

「話が嚙み合わないわね。いい? あんたみたいな破廉恥で、ふしだらで、いかがわしい奴に出会って、わたしは超絶不愉快だって言ってるの!」

「ふむ、ここまで罵られるとはな……」

 あっ、とステラが声を上げた。失言に気付いた顔だ。気まずそうに彼女はあたふたと両腕を振る。

「だ、だって、下着を見られたら誰だってそんな反応に──」

「素晴らしい!! やはりステラは俺の理想のツンデレと確信した!!」

 沈黙が下りた。

 ステラが両腕を持ち上げたまま固まる。

「…………へ?」

「いいんだ、キモオタでも破廉恥でも思う存分罵ってくれ。大事なのはその後だ。俺がいないとこでこっそりキミが顔を赤くしていたり、『あのバカ……!』とか独り言を言っていたりしたら完璧だ。ツンデレの照れ隠しとはかくあるべき──」

「待って待って早口で何言ってるの!? あんたの言葉が少しも理解できないんだけど!?」

「つまり、ステラに罵られるのは俺にとってはご褒美、というわけだ」

「なっ、なっ、何なのあんた──っ!?」

 卒倒しそうな勢いでステラは叫んだ。

 甲高い声が木立ちに反響する。

「何か、と問われたら俺はオタクだ。三度の飯よりツンデレが大好物で、ツンデレを愛でるのをライフワークとしている」

「おたく……? ヘンな名前。パンツ見るし、罵ったら喜ぶし、絶対あんた変態だわ!」

「変態いただきましたあっ! つくづくステラは俺を喜ばせるのが上手いな。天才か?」

「喜ばせてない! つくづくオタクとは話が嚙み合わないわよっ。うわーん、どうしてこんなわけのわかんない奴がわたしの杖に……」

 涙目になってステラはスコップを振るう。ザク、ザク、と周りの土が除かれていく。

 罵倒しても、ちゃんと俺を掘り返してはくれるらしい。そう、ツンデレな子は冷たく見えるが、実は優しいのだ。

「改めてお礼を言わせてくれ、ステラ。俺を助けてくれてありがとう」

「だから、しかたなくだってば! 自分のためだと勘違いするなんて、あんたバカじゃないの」

「そしてそのツンツンした台詞。最高だ! もっと言ってくれ」

「ああああんたが変態なの忘れてたあ! 変態を罵るには何て言えばいいの!?」

「うーん、困ってるとこも可愛いな。ステラの反応が可愛すぎる……」

「あんたねえ、おだてればいいとでも思ってるんでしょうけど──」

「おだてるだと? 俺は本気で言っているんだ。ステラは世界一可愛い!」

「う、うるさいっ。オタクに褒められてもちっとも嬉しくないんだから」

「顔が赤いぞ、ステラ。掘る力も弱まってるし。動揺してるのが丸わかりだ」

「ちちち違うわよ! これは疲れてきただけ。オタクの言葉なんかに反応してないっ」

「ん、そうか。なら遠慮なく言わせてくれ」

 ゴホン、と咳払いした俺は、森中に響き渡るような大声を出す。

「──ステラ、好きだっ!」

 時間が止まったみたいに彼女が静止した。

 スコップを地面に突き刺したまま固まってしまった少女に、俺は率直に気持ちをぶつける。

「キミは俺が求めていた最高の女の子だ! 一生、推させてくれ!」

 ボンっと音がした。

 ステラはそれはもう見事に真っ赤になっていた。パクパクと口を開閉させ、彼女は俺の首(にあたる部分)を摑む。

「……このっ……!」

 ズポっと俺は地面から引き抜かれた。おお、抜けた! と思ったのも束の間、ステラは俺を持ったままぶんぶんと腕を振り回し始める。ヤバいぞ、目が回る。

「い、いきなり何てこと言うのよ、バカああああああああ────っっ!!」

 全身から湯気を噴いたステラは、俺を力いっぱい放り投げていた。

「おおおおおおおおっ───!?」

 ツンデレ少女の羞恥心を侮るなかれ。

 投げられた俺は勢いよく虚空を翔けて天を目指す。

 宙で気付いたが、俺が埋まっていた森の傍にはレンガ造りの大きな洋館が建っていた。その入り口には篝火が焚かれ、甲冑を着た兵士たちが立っている。洋館の隣の小屋には幌付き馬車が停まっていて、馬の世話をしている人たちが見えた。間違いなく日本の風景じゃない。

 飛来することしばし、俺は森の端にある池にぼちゃん、と落ちた。



 ……ちょっと調子に乗りすぎたか。

 俺は水底で反省した。

 反省はしたが、後悔はしていない。夢で推しが現れたらテンションが上がるだろう? 好きだ、と愛を叫ぶだろう? 夢で我慢するなんてバカらしいじゃないか!

 とはいえ、現状を鑑みるに、俺は少々しくじったようだ。

 ステラに投げられた俺は今、池の底に沈んでいる。

 水に浸かったときは呼吸ができないと焦ったが、俺は杖だ。呼吸はいらなかった。息苦しさは感じないし、水が目に沁みることもない。

 問題はステラとはぐれてしまったことだ。

 俺は杖なので、自力で池から出られない。彼女が拾いに来てくれなければずっとこのままだ。

(うーん、ステラのツンデレ具合から考えて、ほとぼりが冷めなければ俺を探しに来てはくれないだろうなあ。俺がステラと再会できるのはいつになるやら……)

 ふっと黒い影が差した。

 視線を向けると、池の主みたいな巨大ナマズがいた。

 ナマズはブラックホールのような口を開けて水を吸い込む。俺も一緒に奴の口に吸いこまれていた。

「ええ……」

 がっくり展開だ。

 ツンデレ少女と出会ったと思ったら、ナマズに食われるのか。この夢はどうなってるんだ。しかもガジガジとナマズの歯が身体中に刺さって割と真剣に痛い。

「痛て痛て! ナマズに齧られる夢なんて早く覚めてくれえっ!」

 俺が堪らず叫んだときだった。

「わたしの杖を返しなさい──ッ!」

 銀の星が降ってきたのかと思った。

 ナマズの頭上から少女がローブをはためかせ、迫る。ステラは巨大ナマズの頭に着地するなり、手にしていたナイフをそこに突き立てた!

「グォアアアアアアアッ!」

 ナマズのくせして奴は怪獣みたいな声を上げた。頭をもたげて左右に勢いよく振る。俺は奴の口から吹っ飛び、岸辺に転がっていた。

 ステラもひらりとナマズの頭部から岸へ飛び移る。

「びっくりだ。予想より大分早かったな。こんなすぐ拾いに来てくれるなんて──」

「違うわよ! あんたを拾いに来たんじゃなくて、偶然、こっちのほうに用事があっただけなんだから」

 そう言いつつも、ステラはさっと俺を拾い、大事そうに抱える。

「果たしてその用事とは?」と訊こうとしたとき、彼女の背後で巨大な影が蠢いた。

「ステラ、後ろっ!」

 巨大ナマズが俺たちを捕食しようと口を開けていた。

「くっ」とステラは横に転がって回避する。しかし、勢いよく閉じたナマズの口は、ステラのローブを挟んでいた。

 即座に彼女はローブをナイフで裂いてナマズから逃れる。躊躇ない動作だ。

「もしやステラは戦い慣れてるのか……? 今の動き、普通ならできないぞ。少なくとも俺はできない」

「無駄話は後よ! 今はこいつから逃げるわ!」

 起き上がったステラは俺を手に、池から離れるべく駆け出す。

 再びナマズが咆哮した。俺たちをロックオンしたナマズは、ヒレを地面に叩きつけて飛びかかってきた。

「痛た────っっ!」

「オタクっ!?」

 ナマズは俺の頭に嚙みついていた。

 俺の叫び声にもナマズは動じず、杖をくわえたまま放そうとしない。

 ステラは俺を見捨てなかった。

「このっ、放せ! 放しなさい!」

 彼女は俺の足側を持って踏ん張っている。が、相手の重量はステラの何倍もあるのだ。綱引きでは分が悪い。

 ステラの足はズルズルと池に引きずられていく。それでも、うーん、と懸命に杖を引く彼女。このままでは二人ともナマズの餌食になるだけだ。

「無理するな、ステラ。俺を置いて逃げるんだ!」

 どうせ夢なのだ。ナマズに食われるくらい何だ。俺がカッコつけて言ったときだった。

「あんたを置いていく……? ふざけないで。あんたはわたしの杖なんだから……!」

 ステラの顔が泣き出しそうに歪んだ。

 思いがけない表情に俺がたじろいだのは一瞬。

 ついにステラが池に引きずり込まれた。

「ひゃあっ!」

「ステラ……!」

 このときを待っていたとばかりにナマズはぱっくり口を開ける。俺たちを丸吞みにするつもりなのだ。

 杖を持ったステラがナマズの口内に吸い込まれる──。

「させないっ!」

 ステラの瞳がギラリと光った。

 くるりと杖を持ち替え、槍みたいに構える。ステラはナマズの上顎にそれを突き刺した。

 ズブッと何かを突き破った感触がした。「グォアアアアアッ!」とナマズが悲鳴を上げるが、ステラの攻撃は止まらない。

「この杖はっ、わたしのっ、ものなんだから! 誰にも譲らないわよ──!」

 ステラはナマズの口内から、ズブッ、ズブッと周囲を何度も突いている。その度にナマズはバタついていたが、やがてぐったりとなった。

 すげえ……と俺は棒だけにぼーっとしていた。華奢で小柄だが、ステラは意外と身体能力が高いらしい。俺を遠くまで投げ飛ばしたり、巨大ナマズをKOしたり、なかなかできることではない。

 動かなくなったナマズの口内から、ステラはぴょん、と脱出する。

 ずぶ濡れになった少女は杖を携え、池から離れて森のほうへ戻っていた。静かな夜道に一人分の足音が響く。

「拾いに来てくれて助かった。もう会えないかと思ったぞ」

 ビクっ、と彼女の肩が跳ねた。

 俺は逆さまに持たれているため、ステラの顔が見えない。頭を上にしてくれたら見えるんだけどな。

「……言ったでしょ。偶然、池のほうに用事があったのよ」

「そうだったな。ところで、その用事は何だったんだ?」

「あんたに関係ないわ」

 突き放すようにステラは言った。

 ツンデレ推しの俺はピン、とくる。これは照れ隠しだ。本当はただ俺を拾いに来たのだが、それを言いたくなくて、ステラは用事があったことにしている。

「くうう、これぞツンデレ! 俺はステラのもので幸せだー!」

「バっ、バカじゃないの!? わたしはオタクなんて大嫌いなんだから」

「嫌いなら俺を放っておいてもよかったんだぞ」

 素直じゃないなあ、と俺はふふ、と笑う。珍しくステラは反論してこなかった。

「……あんた、怒ってないの?」

 怒る?

 俺は心の中で首を傾げてしまった。

「どうして俺が怒るんだ?」

「わたしが投げたせいで、あんた魔獣に食べられるとこだったのよ。魔獣は人を骨ごと食べるんだから、杖でも無事じゃ済まないわ」

「何だって!?」

 叫んだ俺に、ステラはふん、と鼻を鳴らす。

「今さら自分の置かれてた状況に気付いたの? ……わ、わざとあの池に投げたんじゃないのよ。わたしもまさかあそこまで飛ぶと思ってなくて──」

「そうじゃない、ステラ」

 どうやらステラは、俺が怒っているんじゃないか、と不安だったようだ。しかしそれは俺がステラの羞恥心を爆発させてしまったのが原因なので、俺が怒るのは筋違いである。

 怒るなら別のことだ。

「なんでそんな危険を冒して俺を拾いに来たんだ? 危ないじゃないか!」

 今になってぞっとした。本当にステラが無事でよかった。

「俺を助けに来て、ステラが食べられたらどうするつもりだったんだ!? どう考えてもステラの安全が最優先だろ」

「見くびらないで。あれくらいわたし一人でどうにかできるわ」

「ローブ破れてるぞ。服も濡れてるし」

「ちょうど着替えようと思ってたとこよ」

「助けてくれたのは嬉しいけど、俺はステラに怪我してほしくない。俺のために無茶しないでくれ」

「誰がオタクなんかのために無茶するのよ。勘違いも甚だしいわ!」

「わかったわかった。……ありがとな、ステラ」

「~~~~~っ、何もわかってないっ」

 癇癪を起こしたように杖を振るステラ。おかげで彼女の顔が見えた。

 夜でもわかるほど赤く染まった頰。恥ずかしそうに伏せた睫毛。……やっぱりツンデレは最高だ。

「ステラ、早く着替えるんだ。風邪を引くぞ」

「言われなくてもそのつもりよ。……ヘンな精霊」

 素っ気ない声。それでも彼女の手はぎゅっと俺を握っていた。



 ステラは大きな洋館に入った。

 玄関の大広間を抜けると、規則正しくドアが並ぶ長い廊下が現れる。一番奥の部屋にステラは入った。

 室内には二段ベッドが二つと学習机が四つあった。典型的な四人部屋だ。

「いい? これから着替えるけど、絶っ対に見ないでよ。絶対の絶対の絶対だからね!」

 腰に手を当ててステラは俺を見下ろした。

「そんな念を押されるとフリみたいなんだが。これ絶対見るパターンだろ」

「フリじゃないわよ! 見たら、これからずっとあんたを変態と呼ぶから」

「それじゃご褒美だ」

 美少女に「この変態っ!」と罵られて喜ばない男がいるだろうか? ステラはまだ男という生き物を知らないようだ。

 ステラははっとした顔になる。

「忘れてた、あんた本物の変態だった!」

「俺に着替えを見られたくないなら、ベッドの中にでも入れるといい。杖の俺は自力で布団から出られない」

「そうね」と、ステラは素直に俺をベッドの中に押し込んだ。

 柔らかい布地に包まれる。これがステラのベッドか……スーハースーハー、ここは天国か? とてもよい匂いがする。杖だけど嗅覚がちゃんとあってよかった。

 少ししてステラが布団を捲った。

「終わったわよ」

 ステラは私服になっていた。飾り気のない衣服だが、それがかえってステラの素材のよさを際立たせている。ささやかな膨らみのある胸元にスカートから覗く生脚。ナマズとの戦闘で乱れた髪も整えてある。

 彼女は新しいローブをクローゼットから出して羽織った。

「あーあ、動いたからお腹減ったわ。広場で何食べよっかなー」

「待ってくれ、ステラ」

「何?」

「そろそろ俺は現実に帰りたいんだが……」

 ステラに言うことじゃないとわかっていても、俺は言わずにはいられなかった。実のところ少し焦っている。

 この夢は妙にリアルなのだ。まったく覚める気配がない。普通、ナマズのくだりで目覚めるだろ?

「現実って……あんたまさか、まだ夢の中にいるつもりなの?」

「この世界が夢だという決定的な理由を言おうか」

 はあ、とステラは胡乱げになる。

「まず俺の身体が杖だということ」

「精霊が杖に宿るのは至って普通のことよ」

「次に日本語で会話が通じていること!」

 どうだ、と俺は心の中で胸を張った。

 景色を見る限り、ここは日本じゃない。それなのに何故か俺の日本語は通じ、ステラは日本語を喋っている。これが都合のよい世界=夢じゃなくて何なのか。

「ニホンゴ……?」とステラは首を傾げた。

「わたしが話してるのはオラヴィナ語だけど」

「はい?」

「全知全能なる女神様は精霊と人が意思疎通できるようにしたと聖典には書かれているわ。大気は自動的に言語を、それぞれが理解できるよう変換しているのよ」

 何だそれ……自動翻訳機が付いているようなもんじゃないか。やはりこの世界は都合がよすぎる!

「オタクの現実逃避はこれで終わり?」

 呆れ顔でステラは俺を見下ろしてくる。

 現実逃避。そうだ、この夢は俺の現実逃避だ。よほど俺は幼馴染の件がショックだったらしい。こんな理想のツンデレ少女を創り出してしまったんだからな。

 そろそろ現実に帰ろう。この子と別れるのは惜しいが、俺の脳が創った妄想ならまたいつか夢で会えるだろう。今度は俺も人間の姿で頼む。

 さて、夢から覚めるにはどうしたらよいか──?

「ステラ、俺を叩いてくれないか」

 ひっとステラが顔を引きつらせた。汚いものを見る目になる。

「変態……」

 違う。夢から覚めるには痛みを与える。その方法をもう一度試したいだけなのだ。俺は今、自分で自分の頭を壁にぶつけることもできないんだからな。

 ところが、彼女はすっかり引いてしまったようだ。変質者を警戒するみたいに微妙に距離を置かれている。

(止むを得まい。ここはまたステラの羞恥心を爆発させるしかないな)

 俺は意を決して言った。

「ステラのベッドはいい匂いがするな。ずっとここにいたいくらいだ」

「なっ……!」

 慌ててステラはベッドから杖を取ると、真っ赤な顔で俺を睨みつける。

「誰がわたしのベッドを嗅いでいいって言ったのよ、このド変態っ!」

「普通にしてたら嗅げちゃったんだよなあ」

「杖のくせになんで匂いが嗅げるのよ……! あんたの鼻の穴はどこにあるの!? 今すぐ塞ぐから教えなさいっ」

「想像以上にツンな台詞キタ──! さすがステラ、オタクの期待を裏切らないな」

「くうう、あんたを喜ばせたいわけじゃないのにー!」

 悔しいのかステラは地団太を踏んでいる。

「まあ、それは無理な話だな」

「は?」

「ステラにどんなに罵られても俺は喜ぶ自信がある。何故ならステラは、俺が心から大好きなツンデレだからだ」

 ボッとステラの顔が燃えた。

 羞恥心が彼女の許容量を超えたのがわかった。わなわなと震えたステラは、俺を持っている腕をブン、と振りかぶる。

「この、バカバカバカ────っっ!!」

 狙い通りだ。

 ステラは俺を力いっぱい投げつけた。よし、これで壁に当たる! と思いきや、俺は薄く開いた窓からダイブしていた。

(あれ? まあ、いっか……)

 ステラが「しまった」という顔をしていたが、俺は真っ逆さまに落ち、頭から石畳に激突した。



 一度やってダメなものは何度やってもダメなのだ。

 意識を取り戻すと、俺は銀髪美少女に膝枕されていた。

 場所はステラの部屋があった洋館の脇である。ベンチに座ったステラは星空をバックに俺を心配そうに見つめていた。俺の後頭部には太腿の絶妙な柔らかさがあって、彼女は俺の頭を撫でてくれている。なんて幸せなんだ!

 ずっとこうしていたい欲求を抑えて俺は声を出した。

「……ステラ」

 びくっとしてステラの手が止まる。

 俺が意識を取り戻したのに気付き、彼女は慌てて俺から手を離した。不安顔を引っ込めて仏頂面を作る。

「あんたのせいで先生に𠮟られたんだけど」

「何て?」

「命にも等しい杖を窓から投げるとは何事かって」

「大袈裟だな。『命にも等しい』とは」

「普通は杖を自分自身のように大切にするものよ」

「そんな風習、初耳だ。……悪かったな。もう二度とあんなアホなお願いはしないよ」

 そう、俺は現実に帰れなかった。今も俺は身動きが取れない杖だ。痛みで意識を失ったにもかかわらず俺の夢は覚めなかったのだ。

 つまり、これは夢ではない。

「ここはどこなんだ?」

「どこって……アントーサ聖女学園の寮よ」

「この国の名は? 今は何年の何月何日だ?」

「オラヴィナ王国。女神様に祝福された大陸の西国よ。今は女神暦一〇二三年、風の月四十五日。……いきなりどうしたの?」

 手があったら俺は頭を抱えていただろう。

 ダメだ、俺の一般常識が通じない。

 これはあれか、と俺はオタクの知識を総動員した。

 異世界転生、なのだろうか。

 日本で鉄パイプに当たった俺は、異世界で杖として転生した。なるほど、棒に当たったから異世界でも棒になった、と。……なんでだよ!

 神様がいるなら全力で抗議したい。

 何故、杖になるのか。その理論でいくと、トラックにはねられた奴は荷車に転生することになるぞ。

 それに、異世界転生ときたら特別なスキルが与えられるのが定番だ。それももらった覚えがない。俺が気付いてないだけで、実はすごい能力があるのか?

「ステータス、オープン!」

「え、何?」

「何でもない……」

 ステータスは出てこなかった。ステラに嘲笑われなくてよかった。

「オタクも起きたことだし、広場に行くわよ。もうお腹ペコペコよ」

「そうか……」

「べ、別にあんたが起きるのを待ってたんじゃないんだからね。一緒に夕食を摂ろうなんて思ってないんだから!」

「そうか……」

「……」

「……」

「……ねえ、なんか落ち込んでる?」

「はあ、そりゃな……チートなしでモノに転生って、ハズレすぎだろ……」

「変態って呼んであげようか?」

「今じゃなくて俺がもっと元気なときに頼む」

 わかってほしい。元人間だった俺はこの状況に打ちのめされているのだ。

 転生したのがまさかの杖で、自力で一切動けない。豚でも蜘蛛でもスライムでもよかった。せめて生物であれば自分で移動くらいはできたのに、杖だと誰かに運ばれるしかない。

 池に落ちたときに痛感したが、自発的に動けないのはかなりのストレスだ。それがこの先ずっと続く──しかも杖だから寿命はない。下手したら何千年もこのままだ。

 ……急に元の世界が恋しくなってきた。

「つかぬことを訊くが、この世界には神様っているのか?」

「女神様のことを言ってるの?」

 そういえばさっきも女神とか言っていたな。

「その女神様ってのは、どんな神様だ?」

「女神様は全知全能の御方よ。世界を光で照らして、大地と海を作り、人間に火を与え、風を循環させたわ。天の神座にいて、人々の安寧を見守ってくださる。神様って言ったら女神様しかいないわ」

 ステラの声には深い信仰心が滲み出ていた。

 女神が唯一の神なのか。自動翻訳機を導入したりしてるんだから、きっと何でもできる神様に違いない。

 訴える相手は決まりだ。

「ステラ、女神に会うにはどうしたらいい?」

 は? とステラは驚いた。

「女神様に会う? どうして?」

「落ち着いて聞いてほしい。俺は異世界から来たんだ」

「異世界って何……?」

「本来、交わるはずのない世界のことだよ。ステラが行けないくらいめちゃくちゃ遠い国から来たとでも思ってくれればいい。杖になる前、俺は日本という国で高校生をやっていたんだ」

「こうこうせい……あんたの言ってることがよくわからないんだけど」

「俺の中身は十七歳の学生ってことだ」

「えっ、じゃあオタクは精霊じゃないの?」

「精霊がどういうものか知らんが、俺は人間だ。異世界で十七年人間をやってきたのに、頭を打ったら、何故かこの杖に入ってたんだよ」

「そんな……」

 そう言ったきり、ステラは絶句してしまう。それだけ俺の話が荒唐無稽だったのだろう。

「教えてくれ、ステラ。杖に人間の魂が入った事例はあるのか? この世界でそれは普通のことなのか?」

「ない、と思うわ……」

「だったら俺は女神に訴えようと思う。転生したら杖だった、はあまりに理不尽だとな。杖ってのは何もできないんだぞ。地面に埋まっていたときだって、ナマズに襲われたときだって、俺は身動き一つできなかった。なんで俺が見知らぬ世界に飛ばされて、こんな不自由な生き方を強いられないといけないんだ? 陰キャのオタクにだって十七年間積み上げてきた人生があったんだ。それをいきなり奪われて、異世界で杖になれだなんてヒドすぎるだろ!」

 きっと何か手違いがあったのだ。

 異世界に来たのも、杖になったのも、神様のミスに違いない。

「お詫びにチートスキルをよこせなんて言わない。俺を元の世界の日常に戻してくれ。それが俺の望みだ」

 ビョウ、と夜風が吹いて、ステラのローブがはためいた。

 一段と冷え込んできたようだった。彼女の唇が微かに震えている。……ほらな。これだから杖だと困るんだ。俺は彼女のローブを押さえてあげることすらできないんだぞ。

 ステラは自分でローブをかき抱いた。「……そう」と静かに言う。それから彼女は杖をぐるんぐるんと大きく振り回し始めた。

「あーあ、どうりでおかしいと思った。喋る杖なんて前代未聞だもの」

「この世界でも杖は喋らないんだな」

「クラスメートの杖が喋ったことはないわ。わたし、てっきり精霊王みたいなすごい精霊が宿ったのかと勘違いしちゃったじゃない」

 ぐるんぐるん。

 足側を持って振り回される俺。回転する視界ではステラの表情も見えない。

「うっぷ、ステラもう振らないでくれ。俺は酔いやすい体質なんだ。吐きそう……」

「杖なんだから吐くわけないでしょ」

 そうなのだが、気持ち悪いものは気持ち悪いのだ。勘弁してほしい。

「見える? 女神像よ」

 いつの間にか広場の入り口に来ていた。ステラは俺を突き出す。

 屋台が並ぶ賑やかな空間が目の前に広がっていた。一番奥には巨大な石像がそびえている。

 ローブを纏い、神々しい杖を持った大人の女性。その表情は慈愛に満ちている。いかにも女神っぽい。

「あんたが女神様に会えるよう、わたしが協力してあげる」

 そう言ってステラは笑った。



「ツイてるわね。今日は女神降臨祭なのよ」

 俺を手にしたステラは、屋台のランプの群れを眺めて言った。

「女神降臨祭?」

「年に一度、女神様がわたしたち人間の願いを聞いてくださる日よ」

「何でも願いが叶うのか?」

「そんなわけないでしょ。女神様は平和と安寧を愛する御方よ。公序良俗に反した願いや私欲に満ちた願いは叶えてくださらないわ。あとは、女神様の御心に添わなかった願いも……女神像の足元に短冊があるのがわかる?」

 最後、ステラの口調がどことなく歯切れ悪く感じたが、俺は女神像に視線を向けた。像の足元は無数の紙片で覆われている。

「ああ。なんか紙が束になってるな」

「降臨祭の日には女神像に女神様が宿るとされているの。そのとき像に触れたものは神座、女神様が住まわれる場所に届く。だから、わたしたちは願いを書いた短冊をああやって女神像に捧げているわけ」

「ステラも短冊に願いを書いたのか?」

「もちろん」

「何を願ったんだ?」

「わたしの願いより、今はあんたの願いよ」

 ステラは指先で俺の頭をつつく。

「あんたが女神様に願いを叶えてもらうには、あんた自身が降臨祭の最中に女神像に触れるしかないわ」

「俺の分の短冊をステラが書けばいいのでは?」

「短冊は一人一枚しか与えられない決まりよ。杖のあんたに短冊はないわ」

「他の紙で代用したらダメなのか?」

「ダメに決まってるでしょ! あんたねえ、短冊は女神様の奇蹟によって作られたのよ。降臨祭が終わると同時に、願いを書いた短冊は女神様の元へ飛んでいくの。普通の紙に書いたって、女神様の恩恵を受けられるわけないでしょ」

 𠮟られてしまった。

 女神信者のステラ的に、俺の提案は論外だったようだ。

「自分で短冊を書けない以上、あんたは今日中に像に触れて神座に昇り、女神様に直訴するしかないよ。元の世界に戻してくださいってね」

「よし、女神像を触りに行こう!」

 人間なら勇んで足を踏み出すところだが、俺は杖だ。期待を込めて持ち主のステラを見るしかない。

 肝心の彼女は動かなかった。

「よく見なさいよ。女神像に簡単に触れられると思う?」

 俺は改めて広場を見た。

 女神像は甲冑を着た兵士に囲まれていた。たくさんの人が広場にいるが、像に近付く者はいない。

「降臨祭の最中は国軍の兵士がああして女神像を守っているの。みだりに像に触れたり、短冊をいじられたりしないようにするためよ」

「神に直訴できるなら人々が押しかけてもおかしくないもんなあ」

「だからわたしたちはまずあの兵士たちをどう対処するか考えないといけないわ」

 兵士の数は約二十人。

 こっちはステラ一人と杖が一本……。

「待て待て。兵士を出し抜かないといけないのはわかったが、ステラが俺に付き合うことはないよな……?」

 マズい傾向だ。杖の身だからついステラに頼ってしまう。

 俺は元の世界に戻りたいから女神に会いたい。

 だけど、ステラが俺に協力する理由はない。国軍を敵に回すのはリスクだ。そのリスクに見合うメリットが彼女にはない。

「俺に協力してくれるのはありがたいんだが、ステラにも自分の立場ってものが──」

「か、勘違いしないでよね! わたしが協力するのは、早くあんたに杖から出てってもらわないと困るからよ」

 ステラは腰に手を当てていた。

「困ってる、のか……?」

「当たり前でしょ。あんたが杖にいるせいで精霊王が宿れないの」

「精霊王……なんかさっきも聞いたな」

「最高位の精霊よ。わたしの杖には変態のオタクじゃなくて、偉大な精霊王が宿る予定だったんだから!」

「すまない。俺が杖に入ってしまったばかりに……」

「わ、わかればいいのよ。このままあんたに杖にいられると困るから協力してあげるって言ってるの。……別にオタクが人間になれなくて可哀想とか思ってないし」

「俺に同情してくれるんだな。ステラは優しいな」

「だから同情なんかしてないってば!」

 プイ、と顔を背けるステラ。その頰が赤い。

 ツンデレ推しのオタクをナメてもらっちゃ困るな。ツンデレの照れ隠しくらい俺はお見通しなんだぜ。

 とはいえ、ステラが困ってるのも事実なんだろう。杖にオタクが宿っていたら俺も嫌だ。絶対に精霊王のほうがいい。

「ついでだから、わたしもあんたと一緒に女神像に触れるわ。女神様に直接お会いして、わたしも願いを叶えてもらうの。それがいいわ」

 名案を思いついたようにステラは言っている。

「ステラの願いは何なんだ?」

「……だから、精霊王がわたしの杖に宿るように、よ」

 俺にはその願いがどれくらい価値のあるものかわからない。けれど、彼女にとっては大事な願いなのだろう。

「じゃあ、二人で女神に願いを叶えてもらおう」

 ステラは頷いた。

 杖を握る手に力がこもったのを俺は感じていた。



 警備の兵士たちを出し抜き、女神像に触れる。

 俺たちの方針は決まったが、決まったのは方針だけだった。

「これだけ人がいたら兵士を出し抜くどころじゃないわ。像に触れるのは、少なくともお祭りが終わってからね。今のうちに腹ごしらえしないと」

 ステラに抱えられた俺は屋台の間を歩いていた。

 屋台からは肉を焼く香ばしい匂いや飴菓子の甘い匂いが漂ってくる。異世界といえども料理は俺の元いた世界とさほど変わらないようだ。広場の奥には篝火が焚かれたステージがあり、そこではお揃いの衣装を着た少女たちが荘厳な歌を合唱している。

 ステージの向こうにそびえるのは女神像だ。巨大な像は広場を見下ろし微笑んでいる。あまりに完璧な微笑は作り物めいていて胡散臭い……と思ってしまうのは俺だけだろうか。

「なあ、ステラ。なんでここには女子しかいないんだ?」

 さっきから通行人は皆、ステラと同じようなローブを纏い、杖を携えた女性である。女神像も杖を持っているし、この世界では杖を持つのが一般的なのかもしれない。

「ここはアントーサ聖女学園よ。全寮制の女子校なんだから男子禁制に決まってるでしょ」

「それでほとんどが十代の女子なのか」

「今日は降臨祭だから屋台のおじさんがいるけど、本来なら男がいたら大騒ぎよ。兵士も目の色を変えて飛んでくるわ」

「まさか女子校に潜入していたとは。杖になった甲斐があったな」

「……あんた、なんでウキウキしてるの?」

「そりゃ女子校に男一人ってハーレム展開の定番──痛てっ、痛い!」

「バカ! この変態!」とステラは俺を地面の石畳に打ちつけている。しまった、ステラの機嫌を損ねてしまった!

「いくらヒロインに囲まれても俺の本命はステラだ! ステラを差し置いて他の子とイチャついたりはしないぞ。ツンデレに勝る属性なし!」

「は、はあ!? わたしはオタクなんかとイチャつきたくないんだけど」

 さらに打つ力が強くなった。ゴンゴンと頭が痛い。暴力的な照れ隠しも俺は嫌いじゃないぞ。暴力に走るくらい照れてるってことだからな。可愛いじゃないか。

「こらっ!」と不意に横から声がした。

 年配の女性が怖い顔でこっちに近付いてくる。

「杖を粗末にするとは何事ですか。杖は貴女の命を預けるものです。それで地を叩くなど、女神様がご覧になったらどう思われるか──」

 先生らしき女性はクドクドとステラに説教を始める。俺を窓から落としたときもこんな調子で怒られたのだろう。ステラは神妙な顔でそれを聞いていた。

「まったく、これだから貴女は嫌われるのですよ」

 先生が発した一言に、ぴくりとステラが反応する。

(嫌われる……?)

 ゴホンと咳払いをし、先生は去っていった。ステラは唇を嚙んで俯いている。

「ステラ、今のは──」

「食べ物を買うから少し黙ってて」

 ステラは俺を紐で吊るして背負った。長蛇の列ができている屋台へ向かう。

 この世界でも杖は喋らないらしい。俺たちが会話していたらステラがヘンに思われてしまう。

 俺は黙って、ただの杖になった。

 ステラが並んですぐ、前にいた女子がおもむろに振り向いた。彼女はぎょっとして、そそくさと屋台の列を離れていく。次々と他の生徒もそれに倣った。

(何だ……? この子たち、ステラを避けてる……?)

 疑問に思っている間にステラは屋台の先頭に来ていた。長蛇の列はあっさりと消えていた。彼女たちはステラを遠巻きにしてヒソヒソと会話している。

 嫌な空気だな、と思った。

 ステラも気付いているはずだが、それを気にする素振りはない。ツンと真っ直ぐ前を向いた彼女は、屋台のおじさんにケバブみたいな料理を注文している。おじさんはステラに陽気に話しかけてきた。

「お嬢ちゃん、随分小さいなあ。本当にここの生徒なのかい?」

「むっ……一年生です」

「はっは、これから成長期だな。いっぱい食べないとな」

 これはサービスだ、と言っておじさんは肉を追加で盛ってくれる。

 ステラはぶんぶんと両手を振った。

「こ、こんなたくさん、頼んでないです……!」

「いいから、いいから」とおじさんはステラに山盛りのケバブを差し出す。視線をグルグルさせて躊躇していたステラは結局、

「……し、しかたないですね。もらっておきます」

 不承不承といった声を出した。

 が、声とは裏腹に彼女の口元はだらしなく緩んでいる。ケバブを見る目も輝いていた。

 屋台のおじさんはいい笑顔になる。

「お嬢ちゃんに女神様のご加護があらんことを」

(グッジョブ、おじさん! いつかツンデレについて語り合おう)

 紙袋に包まれたケバブを手にステラは屋台を離れる。

 広場にはフードコートみたいにテーブルやイスが並んでいた。ステラが空いていた席にかけた途端、近くのテーブルにいた生徒たちが一斉に立つ。どうやら席を移動するらしい。

(あからさますぎるだろ……。ま、周囲に人がいないほうが俺はステラと話せるから助かるんだけどな)

 好都合とばかりに俺が声を出そうとしたとき、

「おーほっほっほ、誰かと思ったら嫌われステラじゃない」

 わざとらしい高笑いが響いた。

 皆がステラを避けてぽっかりと空いた空間。そこにいかにも勝気そうな赤髪の少女がやってきていた。歳はステラと同じくらいだが、やたら華美な恰好をしている。パーティー会場にいるみたいなドレスに派手なアクセサリー。さらには煌びやかな扇子まで手にしていた。おまえは悪役令嬢か?

「広場に何しに来たのかしら? まさか嫌われステラの分際で降臨祭を祝いに来たわけじゃないでしょう?」

 上から目線で言う赤髪の少女。その後方には、少し地味なドレスを着た三人の少女がいて同調してくる。

「食事だけして帰るんじゃない? ぷぷぷ」

「聖法が使えない……アントーサの恥晒し……」

「……その通りだと思います」

(マジでテンプレみたいな悪役令嬢とその取り巻きだな……)

 ステラは口を引き結んで彼女たちを見つめていた。背中にいる俺にもステラの緊張が伝わってくる。頑張れ、と俺は心の中でエールを送った。俺は何があってもステラの味方だ。

 ステラの視線が癇に障ったのか、悪役令嬢が言う。

「何よ、何か文句があるの、嫌われステラ?」

 ステラは応えない。四人をじっと睨むだけだ。

 悪役令嬢はふん、と鼻を鳴らした。

「早く部屋に戻りなさい。神聖な降臨祭にあなたの席はないわ。あなたがそこにいるだけで皆が迷惑してるのよ」

 気取った仕草で彼女は杖を出す。

「火の精霊よ、崇高なる女神の名の下に契約を果たしなさい。──《火よ、在れ》」

 ゴウ、と音がして、悪役令嬢の杖の先に炎が纏わりついた。

(何だ、あれは……!?)

 気付けばテニスボールくらいの火の玉がいくつも赤髪の傍に浮いている。現代科学では説明できない事象だ。魔法か? この世界には魔法があるのか!?

 俺のテンションが上がるのとは裏腹に、状況は危機的になっていた。

 悪役令嬢は獰猛な笑みを浮かべ、杖を振り下ろす。

「さあ、嫌われ者は失せなさい──っ!」

 火の玉すべてがステラに襲いかかった。

「っ!」

 ステラはイスを蹴って立ち上がる。その際、ポケットから小袋を出して四人に投げつけた。ボンッと音がして白い粉が舞う。

「なっ、ゲホッ、ゴホッ……これは小麦粉!?」

「幼稚なことをケホッ、するじゃない。ぷぷぷ」

「ゴホゴホ、聖法で勝負しない……卑怯者……」

「……その通りクシュン、だと思います」

 ステラは一目散に逃げていた。追ってきた火の玉が足元で弾ける。何事かと他の生徒がこっちを振り向くが、誰もステラを助けようとしない。先生もだ。杖の扱いを注意するなら、この状況もどうにかするべきじゃないのか?

 はあ、はあ、とステラの苦しげな息遣いが傍でしていた。

 もういいだろう、と思った俺は声を出す。

「ステラ、追っ手はいなくなったようだぞ」

 彼女の足が止まった。

 広場の隅、屋台の灯もステージの音楽も届かない暗がりでステラは息を整える。

「……ここで食事するわよ」

「おう」

 ツンデレ少女が隣にいれば、どこで何を食べたって美味しいに決まってる。



「なんで俺は杖なんだ───っ!」

 俺は天に向かって吼えた。

 広場の端っこ。植え込みの傍の階段に腰かけたステラはケバブを頰張り、俺を見る。

「ふへ? いきなりどうしたの?」

 俺は階段に立てかけられている。そうしているとステラと横並びに座っているみたいだが、あくまで俺は杖である。

 当然、食事はできない。空腹感もなかった。

「マジで恨むぞ、女神……。異世界転生してツンデレ少女とお祭りデートなんて完璧なシチュエーションを用意しておきながら、俺は杖! これじゃ一緒に異世界の食べ物を楽しむこともできないじゃないか!」

「デート!?」とステラは素っ頓狂な声を上げた。

「ちちち違うもんっ! こんなのデートじゃ──あれ? 男の人と二人でいるってことはデート……? ど、どうしよう、デートって何すればいいの!?」

「くうううっ、せっかくツンデレと一緒にいるのに『はあ? あんたお金も持ってないの? しかたないから分けてあげるわよ』からの『……ぁ、あーん(照)』の機会を根本から奪うとは。神に人の心はないのか!?」

「……ぁ、あーん」

 ベタ、と一切れの肉が俺の頰にくっ付いた。

 赤くなったステラは、俺にソースまみれの肉をグリグリと押しつけてくる。

「こ、これでいいでしょ。バッカみたい」

「ステラが優しすぎて神」

 肉を頰に貼りつけたまま、俺は横にいるステラを見た。

 彼女は紙袋に顔を埋めてケバブを頰張っている。時折、チラっとこっちを窺ってくる様は初々しくいじらしい。これはもう完全にデートだな。

「なあ、ステラ。この世界には魔法があるのか?」

「んっ、魔法!?」

 ぎょっとした顔でステラは叫ぶ。触れてはいけないものに触れたような反応だ。

「さっき、赤髪の子が炎を出してたじゃないか。あれは魔法じゃないのか……?」

「そんなわけないでしょ。魔法は魔女が使う呪われた技よ。クインザは意地悪だけど、世界を滅ぼすような魔女じゃないわ」

 ふーむ、魔法の概念が俺のいた世界とは異なるようだ。

「なら、あれは何と言う?」

「聖法よ。あんた、聖法も知らないの……?」

「俺の世界に聖法なんてものはなかったなあ」

「聖法は精霊の力を借りて行う奇蹟よ。大気中には光、火、水、風、土、五種類の精霊が漂っているの。わたしたち人は精霊にお願いして、力を使わせてもらうのよ」

「それがさっきの火の玉か」

「クインザの杖には高位の火の精霊が宿ってるから、火の聖法が得意なのよ」

 聖法は俺が知っている魔法と言い換えてもいいだろう。

 杖には属性を持った精霊が入るのが一般的らしい。

 それでステラは俺が杖にいると困るのか。納得した。ステラが杖に精霊王を宿したい、というのも杖にいる精霊が大事だからなのだろう。

「もう一つ、質問させてくれ。〝嫌われステラ〟って何だ?」

 悪役令嬢はステラをそう呼んだ。先生もステラを「嫌われている」と言った。真偽のほどはともかく、その呼び名には何か理由があるはずなのだ。

 ステラの食べる手は止まっていた。

 遠くを睨む少女。視線の先ではたくさんの生徒たちが降臨祭を楽しんでいる。

「二度とそれに触れないで。不愉快だわ」

「何故だ? 俺は知りたい! どうしてステラがあんな扱いを受けているのか。一体、誰がステラを嫌っているのか」

「しつこい。触れないでって言ったでしょ」

「なんでその話題を避けるんだ? 何か事情があるなら教えてほしい。他の世界から来た俺なら偏見なくステラの話を聞くことができる」

「話したくないってば。なんであんたにいちいち説明しないといけないのよ」

「だって、〝嫌われステラ〟なんてヒドいじゃないか! 俺はステラを助けたくて──」

 コロン、と俺は階段を転がって植え込みに落ちた。杖が自然に転がるわけがない。ステラが俺を蹴ったのだ。

 植栽のわずかな隙間から俺は少女を見る。

「ステラ……?」

 彼女は食べ終えた紙袋を握り潰し、立ち上がっていた。

「もういい。あんたに付き合うのは終わり。運が良ければ誰かが見つけてくれるわよ、じゃあね」

 拒絶するような眼差しで見下ろされ、俺はしくじったと思った。

 今回のステラは本気だ。ツンデレじゃない。ステラに捨て置かれたら俺は終わりだ。喋る杖なんて奇妙なものを他の人が拾ってくれる保証もない。

 植栽に寝転んだ俺は懸命に声を上げる。

「待てステラ。俺を置き去りにしたって何も解決しないぞ」

「少なくとも二度とあんたと話さなくて済むわ」

「頼む、怒らないで事情を教えてくれ」

「うるさいっ! あんたに関係ないでしょ」

 吐き捨てるように言ってステラは駆け出していた。

 遠ざかる銀髪。動けない俺は彼女を追うこともできない。もどかしさに内心で歯嚙みする。だから杖の身体なんて嫌なんだ。

「関係あるに決まってるだろ。──ステラは俺の『推し』なんだっ!!」

 俺の絶叫が響いた。

 ステラの足は止まっていた。振り向いた彼女は「おし……?」と訝しむ。

「オタクは推しに生かされているんだ! 推しのために生きていると言っても過言ではない。日々の活力を与えてくれる推しには幸せになってもらいたいし、笑顔でいてもらいたい。推しの幸せこそがオタクの幸せであり、オタクは推しのためなら頑張れる生き物なんだよ!」

 ステラは目を白黒させていた。「推し」も「オタク」も彼女の語彙にはないんだろう。それでも俺は早口で続ける。

「推しに悩みがあるなら俺は解決したい。推しが笑顔でいられるために何かしたい。俺は最初に言ったはずだ。一生推させてくれ、と。そのときから俺はステラ推しだ。だけど、ステラは俺を掘り起こしたり、この世界のことを教えてくれたりしているが、俺はステラのために何もできていないんだ! オタクとして俺は情けない。オタクは推しに還元したいんだ。ステラのために俺に何かさせてくれよ……!」

 独りよがりな懇願だ。だけど、俺の熱意は彼女に届いたようだった。

 足音が近付いてきてステラは俺を見下ろす。

「バッカじゃないの」

 満天の星をバックにステラは言った。

 植栽から拾われた俺は、再び階段に置かれる。横に座ったステラは膝を抱えた。

「はー、わたしのために何かしたいとか、ほんとバカ……」

「オタクは大概バカなんだよ」

「肉付けて真面目な声出すのやめて」

 ポイ、とステラは俺の頰に付いていた肉を放った。ハンカチで俺を拭きながら彼女は重い口を開く。

「ここはアントーサ聖女学園。優れた聖女を育成するオラヴィナ有数の名門校よ。わたしはここの生徒なんだけど、一度も聖法が使えたことがないの」

「聖女?」

「聖法を修めた女性は聖女って呼ばれるのよ。ほんとにあんた何も知らないのね」

「だから初歩的なところから教えてくれると助かる」

「人は杖を持って正しく祝詞を唱えれば、誰でも──年齢も身分も性別も関係なく聖法を使うことができる。個人で威力に差はあるけどね」

「でもステラは聖法が使えない……?」

「そうよ」

「原因はわかっているのか?」

「精霊がわたしを嫌ってるからだって」

「……は?」

「驚くことじゃないわ。聖法は精霊にお願いして奇蹟を起こしてもらうのよ。精霊に嫌われたら杖に精霊は宿らないし、聖法も成功しないわ」

 精霊に嫌われてるから、嫌われステラだと?

 ステラを嫌うとは精霊は一体どんな趣味をしているんだ? 是非とも精霊を集めて、俺にステラの魅力についてプレゼンさせてほしい。推しの布教はオタクの使命だ。

「じゃあ、屋台で前にいた子たちが次々といなくなっていたのは──」

「わたしが傍にいると精霊が逃げて、自分たちも聖法が使えなくなると思ってるのよ。そんなわけないじゃない。わたしが相手の杖に触れていれば別だけど」

 ステラは目を泳がせた。モジモジと手指をいじる。

「……だから、あんたが初めてなの」

 初めて。その言葉に俺も緊張する。

「あ、あんたがわたしの杖に入ってくれた初めての精霊よ」

「すまない……精霊じゃなくて本当にすまない……」

「はあ、あんたで聖法が使えたらいいのにね」

 ステラは俺を手に立つ。

 ダンスのステップを踏むように少女は回った。ローブの裾が広がり、彼女の長い銀髪が柔らかく舞う。

「光の精霊よ、崇高なる女神の名の下に契約を果たしなさい。──《光よ、在れ》」

 詠唱だ。

 さっきの悪役令嬢と違って何も変化は起こらない。

 ステラの周囲には重苦しい夜の闇が漂っているだけだ。それでも真摯に詠唱は続く。

「願いなさい、されば与えられる。たとえ真夜中の洞窟にいても汝の道は眩く照らされる。《光よ、在れ》……どうして皆には応えてくれるのにわたしには応えてくれないの。光の精霊、お願い出てきて《光よ、在れ》……」

 今やステラは泣き声になっていた。杖に額をつけて、身体を震わせ、祈るように詠唱を繰り返している。

(おい、光の精霊とやら)

 だんだんと俺は腹が立ってきた。

 ステラが泣きそうになりながらお願いしているのに、無視するとはどういう了見だ? ツンデレのお願いがどれだけ貴重か、まったく理解できていないようだ。

 いいか、ツンデレ少女はまず、自分からお願いなんかしてこない。

 何故なら彼女たちはとことん素直になれない性格で、たとえ要望があってもそれを口にはしないからだ。特に相手への好意が透けて見えるお願いは絶対に避ける。好意を相手に知られるのは彼女たちにとって死ぬほど恥ずかしいからだ。

 だが今、ステラはお願いしている!

 これはツンデレの鉄壁な羞恥心が破れた奇跡的瞬間なのだ。

(普段ツンとしている子が涙目でお願いしてくる。このシチュエーションにぐっと来ない奴はいないよな!? なんでそれを無視できるんだよ。ちょっと光を浮かべるだけだろうが。ステラがこんなに一生懸命お願いしてるんだから、それくらい叶えてやろうぜ、光の精霊さんよお!)

 そう思ったときだった。

 俺の視界が灼ける。

「え、あ……!」

 俺たちの間に豆電球みたいな光が浮いていた。

 少女の顔が光に照らされ、輝く。

 ステラが口を大きく開けたときには、豆電球はすうっと消えてなくなっていた。

「…………今の、見た?」

「ああ、見た」

「聖法が使えた……! ねえ、初めて! わたし、聖法が使えた!」

 ステラはキラキラした笑顔ではしゃぎ始める。俺を掲げ、クルクルと回る喜びようだ。

(光の精霊……やればできるじゃないか。ツンデレ少女の笑顔は最高だろ? おまえは俺の同志と認めよう)

「やったわ、オタクのおかげで聖法が──」

 そこでステラは我に返ったように口を噤んだ。笑顔を収めた彼女はツンとしたいつもの表情になる。

「どうした? 遠慮なく喜んでいいんだぞ。俺はツンデレのツンがたまらなく好きだが、デレた笑顔はもっと好きだ」

「誰もあんたの趣味は聞いてないわよ! べ、別に、この程度で満足してちゃいけないわよね、と思って」

 はしゃいでしまったのが恥ずかしかったみたいだ。紅潮した頰をステラは押さえる。

「さっきの光、まるで豆粒だったわ。あんな小さい光しか出ないって、あんたやっぱり大した精霊じゃないのね」

「そもそも精霊じゃないからな」

「わたしに聖法を使わせてくれたのは感謝してるけど、オタクじゃわたしの精霊は務まらないわ。だって、わたしは〈女神の杖〉を目指してるんだもの」

「オプ……何だって?」

「国軍第一聖女部隊〈女神の杖〉よ。国軍最強と言われるエリート精鋭部隊で、厳しい入隊試験を突破した本当に優秀な聖女しか入れないんだから。わたしにはオタクみたいな弱い精霊じゃなくて、精霊王が必要なの」

 精霊王がいれば、きっとステラを避ける生徒はいなくなる。

 女神に会って、俺は人間になり、ステラは精霊王を宿す。大円団だ。

 ポツ、ポツ、と広場に光が灯り始めた。

 それに気付いたステラが首を回す。

「お祭りも終盤ね。降臨祭の最後は、皆で聖法の光を灯して女神様に祈るのよ」

 瞬く間に広場は光でいっぱいになる。壮大なイルミネーションを見ているみたいだ。

「俺たちも光を出すか?」

「……あんたの出した光なんかすぐ消えちゃうんだから意味ないでしょ。無駄なことしないで、せいぜい綺麗な景色でも眺めてなさいよ」

 それもそうだな、と俺はステラの言葉に甘えることにした。

 夜の広場を埋め尽くした光の群れ。それをじっと見つめる少女の横顔に、俺は見とれた。光を反射して煌めく銀髪に、目元に影を落とす長い睫毛。今まで見た景色の中で一番綺麗だと思った。

 ビュオオオ、と強い風が吹き、ステラが髪を押さえる。

 同時にわあっ、と広場で歓声が上がった。何やらステージ付近が騒がしい。

「この風……もしかしてゲストにハミュエル様が来てる!?」

「誰が来ているって?」

「〈女神の杖〉のハミュエル隊長よ! 国で一、二を争う実力を持った聖女だって言われてるわ。なんてったって風の精霊王を宿しているのよ」

 ステラの口ぶりは興奮している。よほど憧れているらしい。

「ゲストなんて来るんだな」

「ハミュエル様はアントーサの卒業生だもの。大きなイベントがあるときはたまに来てくれるのよ」

「近くに見に行くか?」

 ううん、とステラは首を振った。

「ここにいても見えるわ、風の精霊王は」

 ステラは天を仰ぐ。

 俺も空を見た。

 星屑がちりばめられた夜空。そこに急速に白い雲が湧き出し、集まっていく。

(これは……)

 凄まじい勢いで流れる雲は夜空をキャンバスにして明確な形を作る。長い体軀、大きな鱗、鋭い牙と爪。空いっぱいにドラゴンが現れていた。

 ドッと心臓が早鐘を打つような錯覚がした。

 あまりの迫力に言葉を失う。

 ドラゴンは手を伸ばせば届きそうな低空を翔けていた。数多の光が灯る広場をドラゴンは悠々と旋回する。風が鳴り、ステラのローブが音をたててはためいた。

「本来、精霊は目に見えないけど、高位の精霊はああやって自らの姿を現すことができるのよ。これはイベント用のパフォーマンスだけど、国の危機が訪れればこの風がすべての敵を吹き飛ばすんだから」

 ステラはうっとりとドラゴンを見つめている。

(なるほど、これが精霊王か……ステラが憧れるのもわかるな……)

 竜を形作った雲。鳴り止まない風。さっきの悪役令嬢の火の玉が子供騙しみたいだ。

 天翔けるドラゴンは最終的に女神像を守るように蜷局を巻き、その姿を消した。

 広場は盛大な拍手に包まれる。ステラも夢中になって手を叩いていた。



 正念場がやってきた。

 植え込みの陰でステラと俺は最後の打ち合わせをする。

「いい? タイムリミットは日付が変わるまでよ。時計塔の鐘が鳴ったら、降臨祭は終わり。女神像から女神様はいなくなるわ。それまでにわたしたちは像に触れないといけない」

 ステラの視線を追って、俺は時計塔に目を遣る。

 時計が元の世界と同じ読み方であれば、時刻は二十三時半といったところか。

「一瞬でも触れればいいんだな?」

「そうよ。それだけで女神様のいる神座に昇れるわ」

 ステラはそっと顔を覗かせて広場を見る。

 あれだけあった屋台やテーブルは一つ残らずなくなっていた。今、広場にあるのは巨大な女神像と、その周囲を守る十人ばかりの兵士だけである。

 もうすぐ役目が終わるからか、兵士たちは気が緩んでいるようだ。欠伸をしたり、夜食の串焼きを食べていたり、緊張感はない。

 風の精霊王のパフォーマンスで祭りはお開きとなった。

 生徒や屋台の人は広場から出て行くよう促され、ステラはその指示に大人しく従った。一度寮の部屋に戻って支度をした俺たちは、再びこっそり広場にやってきたわけだ。

 ステラは今、足首まである黒いローブに全身を包んでいる。目深にフードをかぶり、長い銀髪は一つに結んでローブの中に隠し、鼻から下は布で覆う徹底ぶりだ。

「行くわよ」

「おう」

 俺を背負ったステラは広場へ飛び出した。

 祭りの後の、がらんとした広場。そこに突如として現れた黒ローブの人物は兵士たちの目を引いた。

「何者だ!?」

 鋭い声がかけられる。

 全寮制女子校だからか派遣されている兵士も全員、女性だ。皆、一様に甲冑を纏い、杖を持っている。

 ステラは応えず走った。打ち合わせ通り、女神像には近付かずに広場を横切る。

「ローブの者、止まりなさい! 動くと撃つ!」

 ステラはぴたりと足を止めた。兵士のほうをチラと見る。

 怪しい人物が指示に従ったことで、杖を構えていた兵士たちは少し緊張を緩めたようだ。

「寮の消灯時間は過ぎている。フードを取って、学年クラス名前を言いなさい」

 ステラは今度は従わなかった。フードを目深にかぶったまま無言で立ち尽くす。

 兵士の表情が厳しくなった。

「繰り返す。フードを取って身分を明らかにしなさい。従わない場合はこの場で拘束する」

 数人の兵士が近付いてくる。

 頃合いを見計らって俺は叫んだ。

「ちっ、こんなとこで捕まってたまるかよ!」

 少女のものとは思えない低い声。

 兵士たちに戦慄が走った。

「男っ!?」

 ステラの顔は布で隠されている。フードのせいで長い髪も細い首も見えない。ステラの体形的にローブをすっぽりかぶれば、性別はわからないのだ。

 それを部屋で指摘したら、ステラは地団駄を踏んで怒っていたが。

「アントーサに男の侵入を許すとは……!」

「直ちに捕まえろ!」

 兵士が殺気立つ。

 ステラの言っていた通りだ。

『今日は降臨祭だから屋台のおじさんがいるけど、本来なら男がいたら大騒ぎよ。兵士も目の色を変えて飛んでくるわ』

 兵士は男の侵入者の確保を最優先にしたようだ。甲冑を鳴らして駆けてくる。

 ステラは既に走り出していた。広場の出口を目指す。

「待て! 《土よ、在れ》──ブハッ!」

 詠唱する兵士の顔面。そこにステラは小麦粉の小袋を投げつけた。兵士はむせ、聖法は発動しない。

「はははっ、ざまあみろっ!」

 声は俺の担当だ。女神像の警備なんて忘れるくらい煽ってやるぜ。

「ノロマな兵士ども、俺を捕まえられるもんなら捕まえてみやがれ!」

「貴様っ……!」

 俺が煽っている間にもステラは次々と小麦粉袋を投げつけ、兵士たちの詠唱を封じていく。兵士たちがことごとく粉まみれになったところでステラは逃げ出す。

「賊め、逃がすか……!」

 小麦粉を拭った兵士が続々と杖を振るった。

「光の精霊よ、《光よ、在れ》!」

「土の精霊よ、《土よ、在れ》!」

「火の精霊よ、《火よ、在れ》!」

 聖法のオンパレードだ。

 夜中にもかかわらずステラの姿はスポットライトを浴びたみたいに照らされ、火の玉や土の塊が弾丸のように襲ってきていた。

「ステラっ!」

「わかってる」

 危機感を覚えた俺が小声で呼ぶが、ステラは落ち着き払っていた。

 少女は広場の植え込みに飛び込む。木の幹に炎や土がぶつかる音がした。植え込みの木を盾にステラは身を屈めて走る。甲冑の兵士たちはステラに追いつけず、攻撃を当てることもできない。

 いいぞ、と俺は心の中でガッツポーズした。

 見立て通りだ。ナマズと戦ったときにも思ったが、ステラは運動神経がよい。聖女相手に聖法なしで渡り合っている。きっと今までステラは己の身体一つで困難を乗り越えてきたのだろう。

 苛立ったのは兵士たちだ。

「くっ、ちょこまかと……!」

「このままでは逃げられる。広場を封鎖する」

 カン、と杖が石畳を打つ音がした。

 一人の兵士が杖を両手で握り、唱える。

「しかし奇蹟により作られた城壁は幾千万の魔獣でも破ることはできなかった。《土よ、在れ》!」

 突如、ステラの目の前に城壁のような壁が現れた。

 高い壁は広場の出入り口を塞ぎ、ステラの行く手を阻んでいる。

(これが聖法……!)

 立ちはだかった壁を俺は呆然と見上げた。ステラも困惑したのか足を止めている。

「これで逃げられまい。追い詰めたぞ、侵入者」

 後ろからは兵士たちがじりじりと距離を詰めてきていた。

(どうする? どうするどうする考えろ俺……!)

 俺たちの計画はステラが広場から脱出しないと失敗なのだ。俺が焦っていたときだった。耳元を吐息がくすぐる。

「大きな声で唱えて」

 ステラが杖に口を寄せて囁いていた。

 俺はすぐさま従う。

「──第三の封印を解き放て!」

 ステラに言われた通りに叫ぶと、兵士たちがギョッとして動きを止めた。

「殺す者は災いである。盗む者は災いである。犯す者は災いである。魔女に与する者には天罰が下される。魔法を求める者には灼熱の地獄が訪れる。神を謀る者には永遠の責め苦が科せられる──」

「この詠唱はマズい……!」

「洪水が来るぞ。短冊を守れ!」

 どうやらステラが教えてくれている文言はよほど威力の高い聖法の詠唱らしい。兵士たちはそれぞれ聖法で防御を固めていく。瞬く間にステラと兵士たちの間にも土壁が作られた。

 俺は聖法使いになった気分で声を張り上げる。

「天から降った血の海により七つの大陸が沈み、魔女は流された。《水よ、在れ》ッ!」

 詠唱が終わった。

 しん、と辺りは静まり返っている。洪水どころか一滴の水も生まれてはいない。

 不審に思った兵士たちが土の壁から顔を覗かせる。

「なっ!?」

 彼女たちが目にしたのは、城壁を乗り越えるステラだった。兵士たちが防御のため土壁に隠れた隙に、ステラはナイフを使って広場を塞ぐ壁をよじ登っていたのだ。ステラの身体能力があるからこそできた芸当だ。

「アディオス」

 俺が不敵に台詞を投げ、ステラは壁の向こう側へ着地する。

「くそっ、嵌められた!」

「追え、追え!」

 兵たちが土壁を消して追いかけてくるが、遅い。ステラは広場を脱出していた。

 広場を出てすぐの角を曲がり、ステラはフードを取った。口元の布を植え込みに捨て、豊かな銀髪を解く。

 これでステラはどこからどう見ても女の子だ。

 物々しい足音がして、角から出てきた兵士とステラが出合い頭にぶつかった。

「ひゃっ!」

「捕まえたぞっ!」

 尻もちをつくステラ。

 兵士たちが一斉に彼女に杖を突きつける。

 虚空に浮かんだ光球が少女の姿を浮かび上がらせた。

「ん? 女子……?」

 兵士たちの顔に困惑が浮かぶ。

 石畳に尻もちをついているのは長い銀髪の少女だ。ローブを着ているが、それはこの世界ではごく一般的な衣服である。

「こんな時間に何をやっている?」

「す、すみません。大事な髪留めを落としたみたいで、探していました……」

 少女の高い声。男でないのは誰の目にも明らかだった。

 兵士たちはざわつく。

「侵入者はどこに行った!?」

「キミ、学年と名前は?」

「一年、ステラ・ミレジアです」

 ステラ!? と兵士たちの何人かが身をわずかに引いた。

 どうやら嫌われステラの名は兵士にまで知られているらしい。本当にふざけた話だ。

「怪しい黒ローブの人物を見なかったか?」

「えっと、フードをかぶった人なら走って寮のほうに行きましたけど……?」

「寮だって!? マズい!」

「早く捕まえるぞ。国軍の威信に関わる!」

「キミも早く部屋に戻りなさい!」

 兵士たちはステラを置き、慌ただしく駆けていく。

 その後ろ姿を見送り、ステラと俺は顔を見合わせた。



 時刻は二十三時五十分──。

 ステラは走って広場に戻る。

「やったわね、女神像に触れるなら今のうちよ」

 邪魔な兵士たちはいなくなった。彼女たちは今頃、寮の付近で存在しない怪しい男を捜していることだろう。

 俺たちは大勝利したのだ。

 広場では女神像がぽつんとそびえていた。

 巨大な石像は微笑んで俺たちを見下ろしている。

 像に近付くにつれ、女神の足元に置かれた大量の紙が目に入った。複雑な黒い紋様が描かれた短冊だ。俺がその紋様に見入っていると、

「──なるほど。上手くやったものだ」

 空から声が降ってきた。

「誰っ!?」とステラは顔を上げる。

 杖に跨った女性が宙に浮いていた。

 夜に映える琥珀色の髪。磨き上げられた甲冑がよく似合う凜々しい美人だ。彼女のローブが翻り、その背にある金の刺繡が見えた。──神々しい杖のマーク。

「〈女神の杖〉……ハミュエル様……」

 ステラの口から掠れた声が洩れた。

 第一聖女部隊隊長ハミュエル。風の精霊王を宿した、国で一、二を争う実力の聖女。

 立ち尽くすステラの前に、ハミュエルはふわりと降り立った。

 ステラよりも頭一つ以上高い長身だ。ハミュエルはステラに優しく微笑む。

「部屋に戻りなさい、有望な学生よ」

 ステラが震えた。

「キミの狙いはわかっている。女神様を一目見るため、石像に触れに来たんだろう? 私も学生時代、降臨祭の夜に寮を抜け出したことがある。どうしても女神様に拝謁したくてな」

 ハミュエルの目には懐かしむような色が浮かんでいた。

「その試みは決して成功しなかった。警備の兵もザルではない。さっきキミが兵士たちを追い払えたのは、私が控えていると知っていたからだ。でなければ、女神像を放置して賊を追いかけはしない」

 唇を嚙み締めたステラに、ハミュエルは諭すように続ける。

「女神様に拝謁したければ励むがいい。キミの信仰心を女神様は見ておられる」

 ぎゅっとステラが杖を握った。

 ここまでか……と俺は思った。最強の聖女を前にしたらステラも退くしかない。

「……嫌です」

(え?)

 ステラの言葉に驚いたのは俺だけではなくハミュエルもだった。

「今、何と……?」

「嫌です。わたしはどうしても直接、女神様にお願いしたいのです。全知全能、慈悲深き女神様に、わたしの願いを直訴しに行きます!」

(何を言っているんだ、ステラ……!)

 発言は相手を見てしたほうがいい。風の精霊王を一緒に見たじゃないか。ハミュエルとまともにぶつかったらダメだ。

 だが、俺の焦りとは関係なく二人の会話は進んでいく。

「正気とは思えないな。女神像に触れるには私を倒さなければならない。それをわかっていながらキミは退かない、と?」

「天におわす女神様にお会いするのです。どんな障害も覚悟の上です」

「──面白い。私相手に怖気づかない学生がいるとは」

 ハミュエルは手慣れた仕草で杖を回した。彼女の瞳が鋭く光る。

「オラヴィナ国軍、第一聖女部隊隊長エリーゼ・ハミュエル。相手になろう」

(どうすんだよ、この状況っ!!)

 今にも決闘が始まりそうだ。

 ハミュエルは不敵にステラを見つめているし、ステラもすっかりやる気の表情になっている。このままじゃいけない。そう思った俺は声を発する。

「冷静に考えろ! 相手は最強の聖女だぞ。一度、撤退するんだ!」

「そんな時間はないわ。あとわずかで降臨祭は終わるのよ。退いたらそこで終わりよ」

 ハミュエルが眉をひそめた。

「……キミは腹話術ができるのか?」

「そうです。臆病なわたしがこうして話しかけてくるんです」

 臆病じゃない。慎重だ!

 ツッコみたかったが、声には出さなかった。一人で会話してるなんてステラが可哀想な子みたいじゃないか……。

 時計塔の針が動く。時刻は五十八分になってしまった。

 撤退したら時間切れで終了。進んでも相手は最強の聖女。

(どっちを選んでもアウトじゃねえか……!)

 ゴールの女神像まであと少しだってのに、俺たちは届かない。

 何かを決意したようにステラは大きく深呼吸した。杖を高く掲げ、詠唱する。

「風の精霊よ。女神の吐息、万物を風化させる大気よ」

 なんと、とハミュエルが声を洩らした。驚きとも呆れとも取れる口調で言う。

「私の杖に風の精霊王が宿っていると知りながら、風の聖法を使うのか……? キミの風に私の風が吹き負けるとでも?」

 ステラが風の聖法を使おうとしているのがハミュエルは信じられないようだ。呆気に取られた彼女が詠唱を口にすることはない。

(何を考えている、ステラ……?)

 さっきの兵士相手にはったりをかましたのとは状況が違う。

 今度こそ本当に聖法を使おうとしているのか? ──いや、考えられない。ステラは自分の聖法が使い物にならないと自覚しているはずだ。だから、彼女は兵士に聖法を使わなかった。小麦粉やナイフを使い、はったりと身体能力でその場を切り抜けた。

 なら何故、今ステラは詠唱している?

「敬虔な者は幸いである。精霊はその人たちのものである。女神の威光は永遠に世界を覆い、永劫の平和をもたらす──」

 ぶん、とステラは大きく腕を回す。不意に俺はステラの意図を悟った。悟ってしまった。

「ダメだ、やめろステラ」

 こんな結末、俺は望んでいない。

 俺たちは二人で女神像に触れようと決めたのに。

「ねえ、教えて。『推し』って何?」

 唐突なステラの問いかけ。何故今そんな質問を? と思いつつもオタクの俺は咄嗟に答えてしまう。

「推しとは、永遠の愛を捧げる存ざ──」

「あああああバカバカやっぱ聞かなきゃよかったあああ───っ!!」

 ステラの腕に羞恥心という力が加わる。

 まんまと乗せられたと気付いたときには手遅れだった。

 詠唱はブラフ。ステラは元より聖法を発動させる気はなかった。風の聖法にしたのは、ハミュエルを油断させ、先制攻撃をさせないため。

 そうして、俺だけを女神像へ送り届けるため。

「風よ、天まで運べ! この勝利と栄光を女神に捧げる。《風よ、在れ》!」

 彼女は渾身の力で杖をぶん投げていた。杖の俺にそれを止める術はない。

「ステラアアァァァァァァ─────ッ!!」

 女神像へ一直線に飛んだ俺は悔しさのあまり叫んでいた。


***


 嫌われステラ。そう呼ばれ始めたのはいつのことだっただろう。

 孤児院で開かれた降臨祭のささやかなパーティー。初めて杖を持って、みんなで祝詞を唱えた日。わたしだけが光を出せなくて真っ暗だった。

 それから何度も詠唱してみたけど、わたしはやっぱり聖法が使えなかった。

「おかしいわね」とシスターたちは口々に言った。「人は皆、女神様に愛されているから聖法を使えるはずなのに」

 なら、聖法が使えないわたしは何なのだろう。

 精霊はわたしを嫌って杖に宿らない。聖法が使えないわたしを人も嫌った。女神様に願っても、わたしの願いだけは聞き入れられない。

 真っ暗だ。

 精霊も人間も女神様も、この世界のすべてがわたしを嫌っているのだ。

 そう諦めていた。彼が現れるまでは。

「──ステラ、好きだっ!」

 初めて光を見た気がした。

 どれほどわたしが嬉しかったか、きっと彼はわかっていない。

 わからなくていい。わたしは彼の望みを叶えて彼の好意に報いるだけだ。


 恥ずかしさに任せてわたしは杖を投げた。

「ステラアアァァァァァァ─────ッ!!」

 叫び声を上げ、杖は一直線に女神像へ向かっている。わたしの思惑通りだ。

「なっ!?」とハミュエル様が驚いて頭上を見た。

 杖を投げる。それは常識外れな行為だ。聖法の発動に必須な杖を手放すなんて、聖女としてあるまじきこと。

 さすがのハミュエル様でもわたしの行動は読めなかったみたいだ。戸惑った彼女は呆ける。だけどそれは一瞬のことで、すぐに彼女は我に返った。

 降臨祭の女神像には何ものも触れさせてはいけない。たとえ杖でも、だ。

「聖なる風は隼のごとく──!」

 ハミュエル様の聖法が発動すれば、杖は風によって落とされてしまう。

 わたしは杖を投げるなり駆けていた。ハミュエル様は杖を手放した無力なわたしに注意など払っていない。腕を伸ばして彼女の立派な杖を摑む。

 瞬間、ハミュエル様がギョッとしたのがわかった。

 初めて自分の最悪な体質に感謝した。わたしが杖に触れている間は聖法は発動できない。

「聖法は使わせない。最強の聖女だろうと、これで〝嫌われ〟てもらうわ!」

 カンッ、と杖が女神像に当たった音がした。

 同時にガランゴロンと時計台の鐘が鳴り響く。女神降臨祭が終わったのだ。

 わたしもハミュエル様も膠着したまま鐘の音を聞いていた。真夜中の冷えた風が二人のローブをはためかせる。

「〝嫌われ〟……そうか。キミがあのステラか」

 どこか納得したように言われ、わたしは身体を震わせた。

 わたしの蔑称が、憧れのハミュエル様の耳にまで入っていたのはショックだった。おそらく先生たちから聞いたんだろう。

「しっ、失礼しました……」

 慌ててわたしは杖から手を放した。

(ああああわたし、ハミュエル様相手になんてことを……! いくら必死だったからって、こんなの絶対怒られるわ。もおお、わたしのバカバカバカッ……!)

 今になってじわじわと押し寄せてくる後悔。𠮟責を覚悟してうなだれていると、

「私から一本取るとは、誇るがいい」

 予想もしない優しい声が降ってきて、わたしは顔を上げた。

「膨大な聖力はあるのに、聖法を発動できない生徒。キミの特殊体質は聞いたことがある。私がキミのためにできるのは祈ることだけだ」

 ハミュエル様は不憫そうに目を細めていた。自分を憐れむ人はこれまでもいたけれど、見下すことなく純粋に憐れまれたのは初めてだった。嫌な感じがしない。

 ハミュエル様は杖を持ち上げると、その先をわたしの額に当てた。

「っ!」

 それは祝福の動作。

 驚いているわたしに構わず、ハミュエル様は静かに唱えた。

「汝に女神様のご加護がありますように」

 言葉が出なかった。

 祝福は誰でも受けられるものではない。〈女神の杖〉から祝福を受ける──それに羨望を抱く学生がどれほどいるだろうか。卒業式では学園長が首席生徒に祝福を授けているけれど、これはそれ以上だ。なんといっても、祝福してくれた人は憧れのハミュエル様なのだ。

 ハミュエル様は祝福を終えると、広場を後にするべく去っていく。

 降臨祭は終わった。女神像の警備は必要なくなったのだ。

 額に手を当ててハミュエル様を見送っていたわたしは、はっとした。石畳に転がっている杖を見つけ、拾い上げる。

「どうよ、わたしの作戦。カンペキだったでしょ? どうしてあんたを投げたのかって? だって、順番的にあんたの望みのほうが先でしょ。まずはあんたが杖から出て行かないと精霊王も宿れないんだから、しかたなくよ。今度はあんたがわたしを女神像に届けなさいよね。……ねえ、聞いてるの?」

 杖は答えない。

 さっきまでうるさいくらいに語りかけてきた早口は、いつまで経っても聞こえてはこなかった。

 黙したままの杖にわたしは悟る。

 もうこの杖には何も宿っていないのだ、と。

「…………ふっ、ふぇっ、またわたしっ、一人になっちゃった……ふええええええぇぇぇ!」

 みっともない嗚咽が洩れる。止めようと思っても止まらない。

 濡れた頰に夜風が吹きつけ、冷えきっていくのをわたしは感じていた。


***


 ステラに投げられ、カンッ、と女神像にぶつかった瞬間、俺の意識はぐわっと引っ張られた。視界は気持ち悪く歪み、咄嗟に目を閉じる。

 目を開けると、俺はだだっ広い空間の床に座り込んでいた。

(ここは、どこだ……?)

 俺は首を回した。首が回ったのだ!

「おおお、身体が動くっ!」

 杖になっていたのはたった数時間のはずだが、解放感が半端ない。俺は人間になっていた。服装も制服の学ランで、転生前と何も変わっていない。

 周囲を見渡すと、円形の壁には様々な映像が映っていた。壁一面にたくさんのモニターが貼られているみたいだ。

 映像の中にはステラの姿もあった。ハミュエルと対峙した彼女は何かを話している。

(これはリアルタイム映像なのか……?)

「よくぞ妾の神座を訪れました、異世界の人間よ」

 はっと顔を戻すと、正面の階段から大人の女性が下りてきていた。

 女神だ。石像の姿そのままで、燦然と輝くローブを纏い、大きな杖を手にしている。胡散臭い微笑み方まで同じだった。

「ここに来たからには、何か願いがあるのでしょう。この世界を司る妾が貴方の願いを叶えましょう」

 癇に障る猫なで声だ。表情といい声音といい、いかにも腹黒っぽかったが、俺は言った。

「俺を元の世界に戻してください!」

 途端に女神の顔が曇る。

「その願いは、神である妾の力をもってしても叶えられません」

「なんで──」

 思わず立ち上がった俺は、ジャラと何かが鳴るのを聞いた。

(何だ、これ……?)

 いつの間にか俺の両手首と両足首には真っ黒い鎖が巻きついていた。解こうとしても解けない。鎖はずるりと長く、床に這っている。

「その鎖は強力な魔法です。貴方の魂は邪悪な魔女の力で杖に縛られているのです」

「邪悪な魔女の力……?」

「そうです。貴方の魂は本来なら、この世界に来るものではありませんでした。ですが、邪悪な魔女は恐ろしい力をもって貴方の魂を縛り、この世界に引きずり込んだのです」

 女神は申し訳なさそうな顔になる。

「この世界を統べる神として魔女の凶行を止められなかったこと、深くお詫びします。妾はこうして女神像の目を介して世界を見守っていますが、あの魔女の魔法に気付いたときにはもう手遅れでした」

 女神は両手を広げて壁を示す。

 壁にある無数の映像。これは女神像からの視点だったのだ。

「えっと、じゃあ、俺はもう元の世界には戻れないんですか……?」

「いいえ、一つだけ方法があります」

「その方法は……?」

「──魔女を殺すのです」

 女神は慈愛に満ちた微笑を浮かべた。

「貴方の魂を縛る魔法、その根源である魔女を殺せば、貴方の魂は解放されます」

 いや、待ってくれ。それは選択肢にならないだろう。

「……人殺しはできません」

「人ではありません。邪悪な魔女です。貴方を杖に閉じ込めた元凶です」

「でも、魔女は魔法を使うんじゃ……」

「魔女退治をするなら、貴方に魔女を殺せる『神の力』を授けましょう」

 女神は微笑んでじっと俺を見つめている。

 俺は身じろぎした。

「それで……その魔女はどこにいるんです?」

「貴方は知っているでしょう。魔女ステラ・ミレジアの居場所を」

 は?

 俺はぽかんと口を開けた。

「ステラが魔女……? 噓だろ、だってステラは聖法が使えないのに! 精霊に嫌われているとか意味不明な理由で──」

「世界に仇なす邪悪な魔女だから、精霊は皆、彼女を嫌うのです」

 噓だろ……、と俺は繰り返した。

 衝撃を受けた俺をよそに、女神は部屋の端へ行く。そこには複雑な黒い紋様が入った紙、夥しい数の短冊があった。その中から一枚を女神は抜き取る。

「魔女ステラは毎年、降臨祭の短冊に同じ願いを書いてきました。『どんな精霊でもいい。わたしの杖に精霊を宿してください』と」

「なっ!? それが、ステラが短冊に書いた願い……!?」

 そうですよ? と女神は紙切れを示す。

「これが魔女ステラの書いた短冊です。異世界の人間には読めないと思いますが」

 ステラから聞いた話と違う。

『わたしの杖には変態のオタクじゃなくて、偉大な精霊王が宿る予定だったんだから!』

『……だから、精霊王がわたしの杖に宿るように、よ』

 あれは噓か。

 ステラは俺に噓をついていたのか。

「魔女ステラは長年、自分の杖に入る精霊を求めていました。もちろん、そのようなこと妾は断じて許しません。魔女の願いなど叶えてはいけないのです」

 ぐしゃり、と女神はステラの短冊を握り潰した。

 女神は丸まった紙を放る。床に捨てられたそれを俺は呆然と見つめていた。

「しかし魔女ステラは魔法を使い、己の杖に入る霊体を探しました。願いの通り、どんな霊でもよかったのです。妾の支配の及ばない異世界から無理やり人間の霊体を引っ張るとは、なんと狡猾! 貴方は魔女ステラの被害者なのです」

 見なさい、と女神は壁を指した。

 そこに新たな映像が映る。

 画面の中は現代日本の病室だった。ベッドに寝ているのは……俺だ! 頭を包帯でグルグル巻きにされて目を閉じている。

「これが今の貴方の世界です。貴方の肉体は魔女によって魂を抜かれ、昏睡状態に陥っているのです」

 ベッドの脇には俺をフったはずの幼馴染が座っていた。彼女は俺の手をぎゅっと握って俺を見つめている。その目には溢れそうなほど涙が溜まっていた。

 いや待って。なんでおまえ、そんな哀しそうなの?

 ふふ、と女神が笑う。

「可愛らしい子……恋人ですか?」

「違いますただの幼馴染です」

 即答した。

「彼女にもう一度会いたいですか? 元の世界に帰りたいですか?」

「……はい」

「なら、迷う理由はありません。悪しき魔女を倒すのです。魔女ステラを殺せば貴方の望みはすべて叶います」

 女神は杖を高く掲げた。

「《光よ、在れ》!」

 杖の先に光の球体が現れる。あまりの眩さに俺は思わず目を瞑っていた。

「時間がありません。魔女は貴方の魂が長時間離れることを許しません。魔女を殺さない限り、魔法が貴方を魔女の元へ縛り付けるのです」

 風が湧き起こり、バサバサと短冊が音を立てている。

「さあ、跪きなさい、異世界の人間よ! 女神アマンダが貴方に『神の力』を授けましょう」

 神々しい光の中、俺は自然と膝をついていた。

 それだけの圧が女神にはあった。

 俺の額に硬い何か──杖の先が当てられる。

「──魔女ステラを殺すのです。妾はいつでも貴方を見守っていますよ」

 蜜のように甘く粘ついた声。

 俺は薄目を開けて女神の顔を見ようとした。

 完璧な微笑がぐにゃりと歪み、俺の意識はフェードアウトしていた。



 意識を取り戻すと、妙に温かいものに包まれていた。

「……ぐすっ、いなくなっちゃった、わたしの精霊……せっかく宿ってくれたのに、ひっく、オタクぅうううう……」

 真夜中の広場。

 ぎゅうっと杖を抱え、ステラは年相応の幼さで泣きじゃくっている。降ってきた涙が俺を濡らした。タイミングを見計らって俺は声を出す。

「泣かないでくれ、ステラ。俺はここにいる」

 ふえええええっ!? と彼女は奇声とともに飛び上がった。

「えっ!? あんた、えっ!? 噓でしょ、まだわたしの杖にいたの!?」

 ステラは目を真っ赤に腫らし、口をパクパクさせている。

「安心したか?」

「あ、安心なんて……あんたいつから起きてたのよ!」

「俺がいなくなったと思ってステラが泣いてるときからだ」

「なっ、泣いてない! あんたのためにわたしが泣くわけないでしょ。これは目にゴミが入っただけで……」

 ステラは急いで目元をごしごしと拭う。苦しい言い訳だ。だがそれでこそツンデレだろう。

「あんたこそ、女神様に会って人間にしてもらわなかったの!?」

「あー……女神には会えなかった」

「会えなかったあ!?」

「女神像にぶつかって意識を失ったんだ。気付いたらこうやってステラに抱き締められてた」

「あわわわっ、これは抱えてただけよ。ほら、ずっと手で持つと疲れるから──」

「うーん、苦しい。だがそんな苦しい言い訳を必死で考えるステラが可愛い!」

「うるさいっ! あんた、バカじゃないの。わたしがどれだけ苦労して、あんたを女神像に届けたと思って」

「感謝してる。ありがとう」

「べ、別に、お礼を言ってほしいわけじゃ──」

「もちろんお礼の言葉だけで済ませるつもりはない。今日から俺がステラの精霊だ。精霊王の足元にも及ばないオタクだが、我慢してくれ」

 ピタっとステラの動きが止まった。

 彼女は俺を見つめる。潤んだ瞳に杖が映っていた。

「……ほんとに? あんたがわたしの精霊?」

「ああ。だから杖にいるだろ」

 一人と一本だけの広場。

 風すらも息を潜め、辺りは静粛な空気に包まれていた。

 身体がぽかぽかと温かい。ステラの掌の熱が俺に伝わってきているのだ。

 やがて彼女はすん、と洟を啜ると、天を仰いだ。

「しかたないわね、変態のオタクで我慢してあげるわっ」

 言葉とは裏腹な、弾んだ声。

 大輪の花が咲いたようだった。上気した頰に、キラキラと輝く瞳。ステラのとびっきりの笑顔に胸が締め付けられる。

 ああ、と俺は返した。

 俺を大事そうに抱えてステラは意気揚々と歩き出した。寮に帰るのだ。夜空に浮かんだ数多の星屑が彼女の晴れやかな顔を照らしている。

 ……俺が杖でよかったと思う。俺の表情はステラには見えない。

 これからやることを考えると、とてもじゃないけど俺は浮かれた気分にはなれないのだ。


***


 よい子は寝る時間だ。

 寮の自室に戻るなり、ステラはすぐにベッドに潜り込んだ。

 四人部屋だが、同室の生徒はいない。嫌われステラの体質から、他の生徒は全員、部屋替えを申請したそうだ。まあ、四人部屋を広々と使えると考えたらラッキーなんだろう。

 部屋の左側には学習机、右側には二段ベッドが並んでいる。部屋の最奥には窓があって、その横には女神のレリーフが飾られていた。

「……ムニャムニャ……精霊さん、待ってぇ……」

 奥の二段ベッドの下段でステラはくうくうと寝息を立てている。どうやら夢を見ているようだ。願わくは、彼女が夢の中では精霊に嫌われていませんように。

 ──祈る時間は終わりだ。

 俺は学習机の脇にある杖立ての中で、決意を固めた。

 やるならステラが眠っている今しかない。

 俺は密やかに唱える。

「《デウス・エスト・モルス》」

 女神から与えられた『神の力』。

 詠唱した瞬間、額に何かのエネルギーが集まったのを感じた。……なるほど、これはレーザー光線みたいなものか。念じて撃てばいいんだな。

 感覚で使い方を理解した俺は精神統一した。

 目を開き、一思いに『神の力』を放つ。

 ──ザンッ、と殺傷音がした。

 物騒な音はそれっきりだった。室内には相変わらず夜の静けさが漂っている。

 不意に笑い出したい衝動に駆られた。緊張しているのだ。これでもう後戻りはできない。

「おっと……慣れない力で照準が狂ったな」

 俺の『神の力』は女神のレリーフを破壊していた。

(いつでも見守っているだと? 俺たちを監視してんじゃねえぞ!)

 レリーフの女神の顔には横一文字に傷が刻まれ、両目が潰れている。きっとあの腹黒女神のことだ。女神の形をしたもの全部に監視の目があると疑ったほうがいい。

 俺の反逆を女神は見ているだろうか?

 この世界を支配する神に逆らって、俺は無事でいられるのか?

 ……考えるだけ無駄だな、と俺は恐れを振り払った。


 俺はオタクだ。たとえ神に背こうとも、己の性癖には逆らえない。


(ステラが邪悪な魔女? 俺を杖にした元凶? だからどうした。ステラがツンデレ──俺の推しであることに変わりはない)

 ステラは俺に噓をついた。自分の願いは「精霊王を宿すことだ」と。

 本当はどんな精霊でもよかったのに、俺でも彼女の願いは果たされたのに、彼女は噓をつき続けた。

 それはステラが俺の願い──元の世界に戻りたいを知ってしまったからなんだろう。

 俺のことを考えたステラは、自分の願いを押し込め、俺の願いを叶えるために献身的に協力してくれた。

 そしてツンデレだから、本当は俺に杖に残ってほしいのに、それを言い出せなかった。

(ステラの噓に気付かなかった俺はとんでもないバカだ。俺は光の精霊に自分で講釈垂れていたじゃないか……!)

 ──いいか、ツンデレ少女はまず、自分からお願いなんかしてこない。

 俺にずっと杖にいてほしいとステラが素直に言うはずなかったのだ。

「……ムニャムニャ……精霊さん、行かないでぇ……」

 ステラが寝返りを打つ。

「俺はどこにも行かない。言ったろ、オタクは推しに還元したいんだ」

 何故かこの世界の女神はステラを殺したいようだ。

 そんなことはさせない。

 ツンデレ魔女を殺せ、だと? 頼む相手を間違えたな、女神。俺はオタクとして推しを全力で守ってみせる。

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ツンデレ魔女を殺せ、と女神は言った。 著者:ミサキナギ イラスト:米白粕/電撃文庫 @dengekibunko

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