人魚の卵

北路 さうす

人魚の卵

 毎年正月、家の近くにある神社では人魚の卵が売られている。透明なシロップにつけられた金色に輝くそれは、子供の小遣いでは到底買えない値段の代物だった。

「三が日限定、人魚の卵だよ! 万病に効く奇跡の食べ物! 貴重だよ!」

 毎年変わらないおじさんの声。しかし大人たちは誰もかれも素通りしていく。誰一人、それを買っている人を見たことがない。

「あんなもの、わざわざ買うものではないよ」

 去年、父さんはそう言っていた。

「おじさん、売れなかった人魚の卵はどうするの?」

 1月3日になっても全然売れない人魚の卵を売るおじさんにそんなことを聞いてみた。あわよくば値引きしてくれないかという下心を持ちながら。

「海に返すんだ。毎年の決まりだよ」

 それだけ言って、おじさんは片づけを始めてしまった。金色の粒の入った容器を、魚釣りで使うようなクーラーボックスへ丁寧に片付ける。

「人魚の卵って、どうしてそんなに高いの?」

「ぼうや、人魚の卵を買って自分で飲むのかい?」

 おじさんは初めて僕の目をしっかり見つめて話した。いつも笑顔で客引きをするおじさんの真面目な顔に、なんだか怖くなった僕はその場から逃げ出してしまった。

 歩いているうちに、いつの間にか海のほうまで歩いてきてしまった。正月の海には誰もいない。湿った砂を踏みしめ、寒々しい海岸線をうつむいて歩く。時々立ち止まって周りを見る。灰色の海がどこまでも続いている。ふと、奥の岩場からふさふさとした塊がのぞいていることに気が付いた。何か珍しいものかもしれない。ざくざくとそれに近寄る。海のにおいが一層強くなってきた。そして近寄るにつれ、僕はある違和感を覚え始めた。

 赤いふさふさは髪の毛で。その下にあるあれは、人間の手ではないか?

 海岸にはさまざまなものが流れ着く。魚や動物の死骸、海外の文字が刻まれた瓶、壊れたマネキン、そして水死体だ。手がだんだん冷たくなってくる。空気の冷たさにやられ、鼻の中がツンとする。あれはもしかして水死体なのではないか。直接見たことはないが、もしそうなら大変だ。すぐに大人を呼ばなければ。心臓の音が早くなる。岩場にたどり着き、その赤い髪と白い手を眺める。やはり、どう見ても人の手だ。マネキンのような無機質感はない。岩場の向こうでは、誰かが横たわっていた。体の大半が海水に浸かっており、どのくらいの身長があるのかはっきりとわからないが、近所のお姉ちゃんと同じくらいの背丈のようだ。どうしたものかとじっと眺めていたら、その手がピクリと動いた。生きている!僕はその手をつかみ引っ張った。海からずるりと現れたのは、魚の下半身だった。赤い髪の間から、深い緑の瞳がこちらを見つめていた。

 気が付くと、人魚は血まみれで動かなくなっていた。僕は彼女の姿を見た途端、そばに転がっていた大きな石で彼女の頭を滅多打ちにした。全身が生臭い。血まみれになってしまったようだ。人魚も血は赤いんだなぁと思いながら、海水でそれを洗い流す。痛いと思ったら、左の人差し指の爪が半分ほど剥げていた。

 あたりは暗くなり始めていた。僕は鋭い石を探した。急がなければ、真っ暗になってしまう。沈みゆく夕日の赤い光を頼りに、彼女のおなかを石で切りつける。まだ暖かい彼女の腹を探ると、人魚の卵はすぐに見つかった。薄いピンクの膜につつまれたそれは、薄暗闇の中でわずかな光を反射してきらきらと輝いていた。僕はそれを海水で洗い、家路についた。

 家の前で、パパが鬼のような形相で立っていた。暗くなっても僕が帰らないため、待ち構えていたのだろう。人魚の卵はポケットに押し込み、玄関に向かった。ぎろりとこちらを向いたパパは、一気に鬼の顔から驚きの表情へ変わり、僕のほうへ駆け寄ってきた。

「その傷はどうしたんだ!」

 爪の痛みで気が付かなかったが、僕はあちこちに傷をこさえていたらしい。心配そうにおろおろするパパには、海岸の岩場で足を滑らせてしまったと説明した。脱出に手間取ったため、帰宅まで時間がかかったとも。その手のけがはよくするので、信用してもらえた。小言は言われてしまったが、仕方ない。ご飯の前にお風呂に入っちゃいなさいと困った顔のママが言うので、人魚の卵は自分の机の引き出しに隠し、僕はお風呂に入った。はがれかけた爪がうっとうしく、力を入れて引きちぎった。

 お風呂から上がると、ママとパパとそろって夕ご飯を食べた。おせちの余りと白ご飯というアンバランスな組み合わせだ。

「ねぇ、みーこは?」

「今日も調子が悪いみたいだから、部屋にいるよ」

 僕の妹みーこ。体が弱く、少し動いただけで熱を出して倒れてしまう。なかなか学校にも行けず、甘えん坊でさみしがりなかわいい妹だ。

「帰りが遅いって心配していたから、後で顔出してあげなさい」

 いわれなくとも!僕はさっさと夕ご飯をたいらげ、みーこの部屋に足を運ぶ。起きているかな、控えめにノックをすると、はぁいと小さい返事が聞こえた。

「お兄ちゃん!どこに行っていたの?不良になっちゃったのかと思ったよ」

 ベッドの上でみーこがふくれっ面をする。もう嫌い!とか言って腕を組んでそっぽを向いてみたり。

「縁日の話してくれるって言ったのに、みーこもう寝なきゃいけない時間じゃない!」

 ふふと笑い、僕はみーこに耳打ちする。

「みーこにお土産があるんだけどなぁ」

 ぱっとみーこの顔が明るくなる。

「ほんと? お兄ちゃん大好き!」

 勢いよく振り向いたせいでせき込むみーこの背中をなで、お土産をとってくるから待つように言って、部屋から人魚の卵を持ち出す。水洗いしたことで生臭さは緩和されているが、そのままではおいしくなさそうだ。冷蔵庫にあったサイダーをコップについで、中に5-6粒人魚の卵を入れた。

「みーこ、ほらこれ」

 透明な液の中ではねる金色の粒。みーこは目を輝かせて見入っていた。

「これなぁに?」

「これは人魚の卵。正月の縁日でしか売ってないんだ。食べると元気になれるんだって。パパとママには秘密だぞ」

「みーこ、学校に行けるようになる?」

「あぁ。来年の縁日はみーこも一緒に行こうな」

 みーこはゆっくり人魚の卵を飲み込んだ。まるで神聖な儀式のように、僕はその様子を見守った。

「おいしい?」

「うーん、なんだかよくわからないけど、でもいつものお薬よりはおいしいよ!」

 笑顔のみーこを見て、僕は一安心した。万病に効く人魚の卵なら、みーこの病気も治るはずだ。その日は、元気に走り回るみーこと追いかけっこをする夢をみた。


 次の日、僕はママの悲鳴で目が覚めた。どたどたという足音、パパの怒鳴り声。何があったのだろうか。恐る恐る部屋のドアを開けると、みーこの部屋が開け放たれていることに気が付いた。みーこに何かあったのか?そこへ駆け寄ると、ベッドのそばで倒れそうになっているママをパパが支えていた。

「入ってくるな!」

 パパの叫び声を無視し、そこへ駆け寄る。みーこのベッドをのぞき込むと、そこには変わり果てたみーこの姿があった。血まみれのシーツの中みーこは死んでいた。のどをかきむしったようで血だらけの手が首元で固まっていて、口と目を大きくゆがませた顔が笑顔のようでアンバランスだった。救急車とパトカーがきて、みーこを連れて行ってしまった。そしていつのまにかみーこは小さな骨壺になっていた。みーこは、苦しかったのだろうか。あんな顔、見たことがない。人魚の卵は万病に効くんじゃなかったのか?人魚の卵のせい?パパとママに聞いてみたかったが、ママはずっと空中に向かってみーこを呼んでいるし、パパはずっと泣いている。僕は雰囲気に耐えきれず家を抜け出し、あの海を眺めることが多くなった。波間から、穏やかな顔をしたみーこがこちらをみているから。

 ただ日々が過ぎ、また新しい年がやってきた。

「縁日に行きましょう」

 唐突にママがそう言った。

「そうだ! そうしよう!」

 パパもいつになく楽しそうだった。僕はどうしても縁日に行く気にはなれなかった。留守番しているとだけいい、部屋で冬休みの宿題をしていたが、いつのまにか寝てしまっていたらしい。机から体を起こすと、肩にかけられていた毛布が下に落ちた。パパとママは帰ってきたのか。部屋を出ると、2人はダイニングテーブルに突っ伏していた。揺り動かしても、起きる気配がない。テーブルの下には、飲みかけの人魚の卵が2人分、転がっていた。

 それからというものの、あの海の波間に見える人影は3人分になった。来年、僕がそっちに行っても許されるのだろうか。

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