草森ゆき

 無口で不器用な父は表情もあまり変わらなくて、小学生の僕は冷たく感じて苦手だったけれど本当はちゃんと優しいし父親をやってくれているんだと大学生の僕はやっと気付けて、だから二人で買い物に出るくらいには良好な関係を築けている、そう思った矢先の出会いだった。

 人がごった返す、休日のショッピングモールでの話だ。十二月に入ったばかりでもクリスマスの飾り付けが至る所にあって、浮ついた雰囲気が僕は楽しかったが父親は辟易しているようだった。

「お前の欲しがってる靴を買ったら、すぐに出よう」

 なんて硬い顔で言っていた。

 十分も歩かないうちに、その硬さは崩れた。父親は不意に足を止めて、僕も遅れて立ち止まり、一体どうしたのかと見上げたところで驚いた。父親は目を見開き、一点を注視していた。視線の先には僕たちと同じように立ち止まっている男性が一人いた。

「仁科……」

 父親が呟いた名前を僕の耳は受け取った。男性は微笑み、こちらへと歩いて来た。

「お久し振りです」

「……そう……かな」

「そうですよ、……お子さんですか?」

 目を向けられたので会釈した。仁科さんはよろしくと柔らかく言って、その振る舞いに僕は得体の知れない興味を覚えた。彼は不詳だった。年齢は僕より歳上だろうが、父親と同年代なのかそれよりも下かむしろ上なのかまるでわからなかったし、品の良さそうなジャケットに皺のないスラックスという出で立ちが、似合い過ぎて逆に不気味だった。

 それに、父親の様子が気になった。偶々出会した旧知の相手、という反応ではない。仁科さんに対して明らかな動揺を滲ませていて、そんな姿は本当に珍しかった。

 仁科さんはこのショッピングモールには映画を観に来たらしかった。立ち話をする気はなかったようで、じゃあまたねと軽く言って踵を返した。僕たちを邪魔そうに避けていく通行人に混じって立ち去る後ろ姿を、父親はしばらく見つめていた。

「父さんの友達?」

 僕の問い掛けは黙殺された。靴だったな、と僕の目的へと誘導して、奥へと続く道を歩き始めた。


 そんな出会いだったので、忘れなかった。

 年末年始を過ぎて大学はまだ冬休みという時期に、僕はそのショッピングモールを一人で訪れて、偶然をどうにか引き当てた。

 或いは偶然だと思いたいだけだったのかもしれない。映画館のある一角にいた仁科さんは、僕と目が合うなりわかっていたように微笑んだから。


「俺はあんまり、事実を濁したりできませんよ」

 ショッピングモール内のカフェで向き合った途端にそう言われた。

「そう……なんですか?」

「うん。君は康弘さん……自分のお父さんと俺が、どんな知り合いなのか聞いてみたいんだよね?」

 すべて見通されていたため、僕も事実を濁さずにそのまま喋った。無口で無骨な父親の、仁科さんへの態度が妙だったから気になった。探せるとは思っていなかったし、今日見つからなければそのまま忘れるつもりだった。仁科さんは父親とどんな知り合いだったのか。今は連絡を取らないような、昔の友人のような立場なのか。どうしても知りたい。仁科さんが示し合わせたように映画館にいたことも、僕は知りたい。

 ここまで話しながら、緩やかに混乱していた。話を聞く仁科さんは穏やかな顔で、時折頷き、時折納得したような息を吐き、言うならば、所作になんの無駄もなかった。僕は一度も不快にならなかったし、それどころかどんどん彼の友人であるような、以前からの知り合いであるような、奇妙な錯覚に陥っていた。勝手に伸びた手が正面の仁科さんに向かっている様子を混乱したまま見続けた。

「いつも、そうなんですよ」

 仁科さんは僕の手を掴み、握ったまま卓上へ置く。

「とてもわかりやすく話すのであれば、君が生まれる前、君のお母さんと康弘さんが出会う前、俺は康弘さんと関係したことがありまして」

「か……んけい、」

「ホテルに行ったという話です」

 握り込まれている自分の手がびくりと震えた。仁科さんは揶揄するように笑い、僕の手の、中指と薬指の合間をゆっくりと撫でた。絶対にいつもの僕なら振り払っていた。今まで付き合ったのは女の子ばかりで、男をいいなと思ったことはなくて、でもそんなことは仁科さんには関係がなかった。

「移動しますか?」

 はい、と答えた自分の声が遠かった。僕の頭に過ぎったのは年末年始にプレイしていたRPGで、敵によって混乱したキャラクターが一切操作できなくなり、結局全滅してしまった場面だった。

 倒れ伏したキャラクターたちの、哀れな姿をぼんやりと浮かべながら手を引かれた。仁科さんはショッピングモールを出て、駐車場に停めてあった車に乗り込み、君は康弘さんに似ていないですね、となんでもないように深いところを撫でた。僕は母親似で、だから余計に子供の頃は父親が苦手だったのかもしれない。無口で何を考えているかわからなくて。母親は違った。感情がすぐに出た。顔にも言葉にも、立ち振る舞いにも現れた。僕もきっとそうだ。運転する仁科さんをまともに見られないまま話し続けて、でも君は素直そうで可愛らしいよ、お母さん似だからって話じゃなくてお二人の育て方もだし、君自体も努力したから真っ直ぐな人格になったんですよって、ベッドに倒されながら言われた途端に泣きたくなった。隙間の場所が目で見えているような人だった。母親似の僕が父親が何を考えているかわからないのだから母親だってそうに違いなかった。母親の荒げた声が鼓膜の中に蘇る。なんでも黙ってればいいと思ってるんでしょう! 怒号の記憶に体が跳ねた。仁科さんは僕の髪を柔らかく撫で、鎖骨の形が康弘さんに似てますね、と僕の意識を逸らすように囁いた。そうなんだろうか。どっちでもいい。伸ばした腕で縋りついたあとはもう全部仁科さんに任せてしまって記憶を閉じた。


 シャワーを浴びて、ベッドに並んで寝転がって、外泊の連絡を少し悩んでから父親の方に入れた。仁科さんといるとは、もちろん言わなかった。スマートフォンはベッド脇に放り投げて、自分から仁科さんの腕を枕に転がり直した。

 今後も会いたいとか、付き合って欲しいという気持ちは生じていなかった。それもまた得体が知れなくて恐ろしい。仁科さんは甘やかすように僕の体を引き寄せて、寝た相手の息子に手を出したのは初めてです、と子供みたいにはにかみながら言った。

「仁科さんって、いつもこんな感じなんですか?」

「こんな感じって?」

「ゲームの魔法とかアイテム効果みたいに、相手を混乱させて連れ込む、みたいな」

 仁科さんは笑い声を上げてから、

「それだとかなり厄介な敵ですね」

 穏やかな調子で話を合わせてくれた。

 そのあとに、人を連れ込むこと自体は唯一の特技だと話した。今度は僕がちょっと笑ってしまった。

 情事の後だというのに、父親の昔の恋人みたいな相手だというのに、僕と仁科さんはまるで大学の友達のように和気藹々とスマホアプリやゲームの話をして、微睡んで眠ったあとは徹夜勉強でもした翌日の気だるさで外に出た。

「じゃあまたね」

 仁科さんは僕を家近くまで送ってからそう締め括った。連絡先も何も聞いていないのに、僕は頷いていた。


 走り去った車を見送ってから家に入るとリビングに父親がいた。僕の姿を見るなり、表情には波紋のように動揺が広がっていった。

 でも、すぐに抑えた。

「仁科は、元気だったか」

 あの人の「特技」をわかっている口振りで聞かれたから、元気だったよ、と出来るだけ平坦に答えた。

 父親はほんの少しだけ微笑んだ。背後にある窓からは朝の光が漏れていて、静物画みたいな佇まいの父親は、昨日よりも近く思えた。

 多分良くはない近さだけれど、僕も父親もあの人のように穏やかだった。

 

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草森ゆき @kusakuitai

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