第2話 小犬の話

 ——真夜中に目が覚めた。



 親切な見知らぬ男の人に連れられて、とんでもなく広大な貴族の屋敷のような家へと招かれ、今こうして安全な場所にいる。


 夢の中にいるようだ。


 冷えた体を風呂で温め、少しの軽食をいただくと、ほとんど素性も知らない他人の家だというのに強烈な眠気に襲われた。拾われるまでに知らず体力を使い切っていたのだろう。親切な二人の住人は、そんな私への気遣いに溢れていた。

 雪の中に座り込んでいた事情もろくろく聞かないまま、優しく客室で眠るよう促され、部屋まで手を引いてくれた彼に辛うじて小さくお礼を言ってベットに倒れ込んだのが、意識が途切れる直前の記憶だった。

 高級ホテルにあるような肌触りのいい布団とふかふかのベッドから起き上がる。部屋の中は暖房が程よく効いていて暖かい。足元に揃えられていた毛足の長いスリッパを履いて、窓際に近づく。灯りをつけてはいないため確かな事はわからないが、そこまで広くはない部屋だ。だが、この部屋の天井は一般家庭の平均的な天井よりも高く、その天井近くまで縦長の大きな窓が取られていた。

 白い窓枠の縁へと、引かれていたレースのカーテンを寄せ外を見やる。ここに案内されるまで眠気でぼんやりとしていて階段を上ったかすら覚えていなかったが、どうやらこの部屋は屋敷の2階にあるらしい。

 外はひっそりと静まり返っていて、暗闇に慣れた目が、屋敷前の敷地が真っ白な雪で覆われているのを見て取る。外灯はあるようだが、灯りを全て消された広大な敷地は、青い闇を陰に月明かりとそれを反射する雪にぼんやり照らされている。

 車に乗せられて此処にやってくるまで、随分と長い距離を走っていたのを思い出す。

 私の願った事とは少し違ったが、確かに望んだ事に近く、私は遠い場所へとやってきていた。


 ふと、これまでを思い返そうとすれば、静か過ぎる空間に、染みついた幻聴のように荒れた物音が思考を叩く。

 ドアの外から壊れそうなくらい木の扉を叩く音。『開けろ』と言う要求に連なる罵倒の言葉。手を上げられる事、物を投げつけられる事、大切な物を壊される事。そういった物理的な事から逃げその扉を塞いでも、同じ家の中にいれば響き渡る人格否定の詰り声。



 私はいつも、逃げ場のない袋小路にいた。




 私、佐々木柚希ゆずきの人生は、物心つく頃から両親に怯えて暮らすものだった。父は歳を重ねる毎に酒量と酒癖の悪さが増していく酒乱。母は常時、乱気流のように気分が変わるヒステリックな性格で、常に他人に怒る理由を探して生きているような人だった。私はそんな二人の間に、デキ婚の結果生まれた一人っ子。望まれて生まれてきたのかわからなかった。少なくとも、両親以外の祖父母含めた親戚は、結婚に反対していたそうだ。けれど、できてしまったからには…と生まれてくる事になった私。

 大人になってからわかった事は、私たち『家族』は迷惑をかけてくるからと、身内から疎まれていた。両親は金遣いも荒く、若くてお金も無いうちに子どもを作って結婚した二人は、『私』という子どもの存在を盾に親戚からお金を借りまくった。それに加え、癇癪を起こす子どもがそのまま大人になってしまったような暴力的な夫婦喧嘩を多々起こし、家の中を破壊し、警察の世話になり、その度に喧嘩の仲裁や尻拭いに駆り出される親族達。疎まれるのは当然だった。

 やがて、そんな両親の元に育った私も、二人の暴挙から逃れようと、何度も家出をして親族に助けを求めるようになったが、その頃には触らぬ神に祟りなしとばかりに、一時的に私を避難させてはくれても、誰も私を、あの環境から、両親から、引き離してはくれようとはしなかった。私に対して、所有欲が非常に強い父母だったから、一番面倒なところで揉めたくなかったのだろう。


 日々、暴力に怯えていた。父は母に当たり、父が仕事でいない時は母に当たられる。ギリギリ父親には暴力を振るわれてこなかったが、父の機嫌の悪い時には度々暴言を吐かれ、酒が入って上機嫌の時には性的な嫌がらせを受けそうになる事もあった。

 必死に自分を守った。暴言や暴力から逃れるため、両親の機嫌を取るのは当たり前。媚びて、嘘をついてでも、自分を守れるのは自分しかいなかった。だけど何度も限界は訪れ、その度に近所の祖父母の家に逃げ込んだが、結局あの家に連れ戻されてしまう。


 大学を卒業して後は、両親の強い意向で実家から徒歩か自転車で通える距離の会社に就職した。

 なんとか家を出るため貯金をしようとしたが、大体の給料は把握されていて、学生時代よりも露骨に、実家に入れる生活費以上にお金を要求されるようになった。時には私が隠し込んで溜め込んでいると邪推して、新卒の一月の給料以上の数十万という金額を貸してと言われる事もあった。お金は返ってこない。私が必死に稼いだお金は、二人の毎日の飲酒代と浪費に消えていく。


 このままじゃ、家を出られない。


 どうして両親の言う事など聞いて就職してしまったのか。社員寮がある会社に始めから入れば良かったと、悔やむ事ばかりだった。

 終業時間は把握され、成人で社会人なのに、夕方の六時を過ぎて帰れば遅いと言われ、残業しようものなら会社に電話がかかってくる。実家、職場。この往復しか許されない。職場に行く以外の外出など詮索がないわけがない。

 自由がない。お金がない。息を抜いて好きに過ごせる時間もない。そして明日が仕事でも関係なく起こる、真夜中の暴力的な夫婦喧嘩。眠れない。眠れないのに、また私に朝は来てしまう。


 息が詰まっていく。


 仕事に慣れていくのにも気持ちは張り詰めていたが、家にいるよりはマシだった。唯一気を緩められるのは、昼休憩で一人過ごす女子ロッカーの狭い部屋だけ。

 誰にも言えなかった。友人はいても、迷惑はかけられない。学生を卒業して、彼女達は自分自身の新しい人生を歩んでいるのだから。どんなに友人達が自分より余裕があるように見えても、こんな地獄の悩みを明るい場所で生きる彼女達に話すなんて、重苦し過ぎて申し訳ないと思ってしまう。

 そして、惨めだった。いつまでもここから抜け出せない自分が、彼女達に比べてとても惨めだと、小さな自尊心が悩みを外に打ち明けさせなかった。




 そんな綱渡りのような精神状態で、職場と家との往復を送っていた時だ。唐突に、ぷつん、ぷつんと、糸が切れていった。

 まずはある日の朝。職場に行くまでの道ほどで、唐突に一本の糸が切れる。私はそれから数日の間に会社を退職した。

 会社に行くフリをして、自殺の計画を練った。まだこの時は、人に迷惑をかけないで死のうという理性のようなものが頭に残っていたと思う。

 そして、もう一本の糸が切れたのが、昨日の夕方の事だった。

 何でもない、いつもの私の日常。些細なことでヒステリックな声を上げる母に肩を強く突き飛ばされて、何の抵抗もなく体が後ろに崩れ落ち、背中が棚を一つ倒した。

 床にバラバラに散らばった書類の真ん中で、何も言わないで倒れ込んだままの私に、『ちょっと小突いただけなのに大袈裟。アンタの所為で散らかっちゃったじゃない』と母のキンキン責め立てる声が、どこか幕を隔てたように、遠く頭に響く。


 ——もう終わりだ。


 私はゆっくりと立ち上がって、まだ何か責める言葉を口にしている母の声を聞き流し、無言で倒れた棚や床に散らばった物を片付けると、部屋に戻ってあらかじめ用意していた両親への手紙を机の上に置く。



 ずっと考えていた。


 自分で望んで生まれてきたわけじゃない。自分の好きを貫こうとすれば激しく叱責され、その日の夕飯は床に叩きつけられる。ならばと進路も何も、従えと言われるままに沿って生きてきたのに、年齢を重ねていくごとに金銭を要求される日が増えていく。私が家を出ていくことさえ許さないくせに、この家の中に存在しているなら金を出せ。逆らうならお前は酷いヒトデナシ。過去にまで遡って、お前をここまで生かすためにかかった金を返せと、ことあるたびに要求される。

 もううんざりだ。ただで生きていく事なんかできない。それは現実的に当たり前の事だとわかっていた。だけど、望んで生まれてきたわけじゃないのに、どうして私に何の許しもくれないのだろう。

 無償では存在を許さないのなら、せめて抜け出す自由が欲しかった。もう、迷惑なんてかけないから、貴方達にお金はかけさせないから、どうか私を解放して。けれど、働きに出る以外の時間を常に監視され、無駄と言われる自由な時間があれば、問い詰められ、咎められる。

 そんな中、もう死のうと本気の決意が降ってきたのが今だ。私は嬉しくなった。こんな圧迫された地獄の中で、自ら閃いた救いの一手は、私の顔を上向かせた。

 走っていこう。

 遠い場所へ。



 そうして、雪の降り出した夕闇の中へ、はやる心をそのままに、碌な防寒もなしに両親の干渉の隙をついて飛び出す。きっと今、白い世界に駆け出した私の瞳は、真っ黒な闇の下で輝いている。夜空は黒々として白く星か雪が瞬き、空気はキンと澄み渡っていた。積もったばかりのふわりとした雪の路は、足音を吸い込み、弾む吐息だけが耳へと届く。


 なんて楽しい。


 こんなに心の底から幸せなんて、久しぶりだった。

 そう夢中になり、走りづらい雪の中を私は進んだ。当てもなく、金色に続く街灯の光に導かれ、行く先はきっと知らない天国なんだと信じて疑うこともなかった。この時の私は今思えばハイになっていて、具体的な死に方など頭の外に飛び、とにかくこの寒空の下を走っていけば、いつか死ねるだろうと不思議と本気で思い込んでいたのだ。

 初めて何もかも棄てる気持ちで飛び出して感じた自由は格別で、この自由を心の底から味わって、死んで解放されるんだという希望と喜びでいっぱいだった。

 そしてとうとう霜焼けで真っ赤に痺れて感覚を失った脚が地面についた時、私は全く見知らぬ郊外の住宅地の中にいた。しんしんと降りしきる雪に白く染まった家々は、等間隔にお行儀良く並んでいて、きっとそれなりに裕福な人達の住むエリアに迷い込んでしまったのだろうと初めて途方に暮れた。

 がむしゃらに、一体どこまで走ってきたのか。スマホも置いてきた身一つの状態では、自分の現在位置はわからなかった。辺りはもう夕日のオレンジの帯を微かに空の際に残すばかりで、閑静な住宅街には出歩く人の姿も見えない。

 急に、これまで感じていなかった、身も凍るような寒さが全身に襲いかかる。私の心の中はめちゃくちゃだった。このまま希望通り死ねるだろうという安堵と共に、最後の本能の悪あがきなのか、死に繋がる寒さへの不安が身体の底から湧き上がってくるようだった。

(何を今更)

 諦めと自分への嘲笑を胸に刺し、震える肩を抱き締める。適当に羽織っただけの草臥れたパーカーは寒さを凌ぐのには当然不十分で、私は瞬時に明日のニュースで除雪作業員が見窄らしい格好をした女が雪の中に気づかれずに埋まっているのを発見するという不幸な凍死事故の見出しを想像した。


 けれど、運命はそうならなかったのだ。





 氷のようになって朝日を浴びる明日は来ず、温もりに包まれた部屋で、他人事のように冷え切った外界を眺めている。霜焼けの足は元の肌の色を取り戻し、感覚を失いつつあった身体は今、暖かな温度を享受していた。

「助けてもらった…」

 窓の外に向け、独り言がするりと口から滑り落ちた。

 助けてくれたあの人は、男の人なのに不思議と恐くはなかった。最初からずっと、何故か私を恐がらせないようにしてくれているようで、温かい手が昨日だけでも何度も手を引いてくれたのを思い出す。

 女の人も、気の強そうなシャンとした雰囲気の人だったが、お風呂に入れてもらう前の、暖炉のある部屋で私に話しかける時、とてもとても優しい声で凍えた身体を気遣ってくれた。

 二人は『渚』と呼ばれていた男の人と、そのお母様——『鈴香』さんと仰っていた——で、このお屋敷には二人しか住んでいないらしく、広過ぎる廊下を歩く時は、どこか寒々とした印象を受けた。


 だけど、二人はきっと…とても暖かい人達だ。


 与えてもらった優しさを思い返せば、胸の中が暖かくなる。宝物にしたくなるような気持ちだった。

 血の繋がった身内ですら、子どもの頃から酷い環境にいるとわかっていても、そこから救い出してはくれなかったのに。何の関係もない、あの人達は———

「……」

 ふと、不安が胸に落ちる。きっと一晩だけだ。ずっとここには居させてもらえない。何の得があって、私を置き続けてくれるというの。闇に包まれた部屋が私自身を蝕んでいくような錯覚に陥り、その場でうずくまる前に、まだ体温を残した布団の中に、助けを求めるように潜り込む。今は考えないでおこう。折角、一晩の安寧を得たのだから。

 眠りに落ちる直前——そういえば、身も凍るような寒さでぼんやりとしていたが、渚さんという男の人は、私の事を『小犬』と呼んでいたと思い出す。(うっかり彼に名乗るのを忘れていた私の所為だが、鈴香さんにはお風呂にいれてもらう前に自己紹介をしている)


 思い出して、その可笑しさにクスリと笑う。


——私が本当に、運良く優しい家族に拾ってもらえた『小犬』だったら良かったのに——


 思いがけず与えられた安心は、私にそんなトチ狂った事を考えさせるには充分だった。


——捨てられる前に、感謝を告げてこのお屋敷を出て行こう。これ以上、あの優しい人達に迷惑をかける前に。だから今は——


 ふかふかの布団に顔を埋める。

 誰にも脅かされない、舞い降りたような一時の幸福に浸って、ゆっくりと眠りたい。



 久しぶりに夢も見ない、心地の良い眠りに私は包まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

手綱を引くのは 雷鳥 @Ri-ku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ