手綱を引くのは
雷鳥
雪解けまで
第1話 ある男の話
冬の日に小犬を拾った。茶色のふわふわとした毛の、体を震わせて雪の中に縮み込んでいた小犬。夕暮れから宵をグラデーションのように迎えた、雪の降る夜空の下。家へと帰る途中の歩道に座り込む、まるでたった今捨てられてしまったような途方に暮れた悲しそうな顔を見て、考える間もなく運転手に車を停めさせる。
突然黒塗りの高級車から降りたった俺に、その子はあからさまに狼狽えていた。だが、その口元はただ震えるだけで、声の一つもこぼさない。
「うちに来ないか」
怯えさせないようにそっとしゃがみ込み、優しい声音を意識して声をかけたが、首を縦に振らない。いつも引っ掛ける軽い女達とは大違いだと新鮮さを感じつつも思考を巡らし、手っ取り早いと思いついた一手に一瞬だけ躊躇うも、それをねじ伏せスマホを取り出す。番号なんてとっくに忘れた登録を電話帳から引っ張り出しコールを鳴らした。
電話口に出た女性の声は不審を滲ませていて苦笑しかける。だが、今は目の前で震えるこの子が先だと、車の中から持って出ていたブランケットを差し出しながら言う。
「母さん、雪の中で震えてる子を見つけた。拾いたいけど警戒されてるんだ。スピーカーにするから俺が不審者じゃないって証明してよ」
返答も聞かずに、電話をスピーカーにしてその子に差し出す。切り替えた瞬間の母の声は狼狽えていたが、電話が俺が言った『小犬』に向けられていると感じたのか、戸惑いがちに『こんにちは…ええと…大丈夫かしら?』と声をかける。
突然向けられたスマホから聞こえる年配の女性の声に、小犬はやっと俺に向けていた警戒を少し緩ませ、小さく口を開いた。
「…こんにちは」
初めて聞いた『音』は、小さく可愛らしい、礼儀正しさを感じさせる女の子の声だ。母のハッと息を呑んだような音を耳が拾う。
しんしんと雪の積もる路の上に、母の真剣な声がはっきりと響いた。
『その子の身元は確かよ。多少ヘラヘラとして軽そうなナンパ男に見えるかもしれないけれど』
「母さん」
『根はいい子なの。貴女を助けたいと純粋に思ってるわ』
「……」
母の言葉に、彼女の目が初めて真っ直ぐに俺の目を見る。その時、『不信』の揺らぎから、人を信じてみようと決心する瞳の色への変化を、俺は生まれて初めて目にしたと思った。
「……あの…お母様。私…」
『遠慮しないで、おいでなさいな。うちは人ひとりくらい泊まらせたところでどうって事ないくらい部屋も余ってるの。それに、息子が貴女にまかり間違って不埒な真似をしようとしたら、私が責任を持って躾し直すから心配は無用よ』
「…母さん」
あけすけな母の言葉に天を仰いだ俺を、クスリと笑うような気配があった。顔を戻せば、少しだけ表情を和らげた彼女が、電話口に言葉を返した。
「……では…ありがたく、ご好意に甘えさせていただきます…」
『歓迎するわ。早くいらっしゃい。渚、さっさと連れていらっしゃい』
「言われなくとも」
俺はハァと息を吐いて、ぶつりと切られたスマホを仕舞い、まだ座り込んだままの彼女に手を差し出した。
手のひらにおずおずと乗せられた指先は、触れたこちらまでじんと痛むほど芯まで冷え切っていて、俺はそれまでの待ちの姿勢などかなぐり捨てて、彼女に比べたら段違いに温かいだろう自分の手のひらの中に細く小さな手を握り込んだ。
「凍死する。おいで」
俺の切り替えに驚きつつも、彼女は素直にはいと返事をした。包み込んだ手の中で、指先がそっとこちらの指を握り返した。
その指先の感覚も失ったような弱々しさに、胸の奥がきゅっと鳴る。早くこの小さな子を温めなくては。
ブランケットで包み込んで、車内へと乗せると、俺は暖房の温度を上げさせ、ついでに自分の身につけていたマフラーやコートなども脱いで彼女の体へとかける。しきりに吐かれる遠慮の言葉を笑顔で黙殺し、俺は冷た過ぎる指先を自分の手のひらで包み込んで、なんとか自分の体温をこの冷え切った体へと中和させたいと摩り続けた。自分の手が案外大きいのかもしれないなんて思ったのは、この女の子の手のひらが小さ過ぎるからか。男女の体の違いなんて身に染みるほど知っているはずなのに、無言になった車内で俺は真剣にそんなことを考えていた。
雪道で滑らないようギリギリの速さで車を走らせ、家と帰り着く。都市部から少しだけ離れた郊外の高級住宅地の奥に、俺と母、二人だけで住む、無駄に敷地も建物もデカい『お屋敷』と近所から形容される我が家がある。門をくぐって長い敷地を突っ切り、これまた広い庭を回って建物の前へと着く頃には、小犬の表情は困惑一色になっていた。
玄関前のロータリーに車を停まらせると、窓から見える馬鹿でかい屋敷に固まってしまった小犬を、半ば抱えるようにして車から降ろした。そうして小犬を伴い、足早に玄関の戸を開ければ、珍しく母がこちらを出迎えに廊下の奥から歩いてくるところだった。
取っ替え引っ替え違う女を連れ込んでは、執着されて締め出すを繰り返している俺に、いつも顔を合われば溜息と皮肉を吐いているような印象の母だったが、今回は流石に何も言わない。むしろ深刻とも言える眼差しで、ブランケットに加えて俺のコートやマフラーでぐるぐる巻きにされた、不安げな顔の小犬を見つめていた。
そんな母に無言で目で促され、俺は小犬を母に一旦託し、一人バスルームに向かった。バスタブに急いでお湯を張りつつ、タオルなど必要なものをわかりやすい場所に準備していく。うちは金持ちで、広過ぎる屋敷の管理のためにハウスキーパーは雇ってはいるが、夜は家族しかいない、そんな家だ。それに、自分の事は自分でやりなさいと教育されて育ってきた。
彼女が着れそうな客人用の着替えも用意し終わり、溜まっていくお湯に不意に目を向けると、自然と自分に言い聞かせていた。
(小犬なら大丈夫。母さんは俺には厳しいけれど、小さな子や動物には優しいから)
それは、いつの日か感じた事があったような、期待と祈りと、不安の入り混じったソワつく気持ちのようだった。
入浴の準備を整えてリビングに戻った時には、母は俺が幼い子どもだった頃以来の優しい顔をして、まだ小さく体を縮こませている小犬を暖炉の前に座らせて、穏やかに声をかけていた。
なんとなく、その光景を遠目に眺めていたくて、俺はリビングの入り口で立ち止まって声をかける。
「お風呂、用意したから。あったまって」
小犬の目が俺へと向く。まだ初めて会う人間を見るような目だ。小犬は俺と合った目をふいと逸らすと、遠慮がちに俺と母との間で視線を彷徨わせる。
「行ってらっしゃい。まずは温まってからよ。お話と、これからどうするかは、それから」
母にそう微笑まれ、おずおずと立ち上がった小犬に向かい、静かにリビングへと踏み込む。そのまま、流れるように手を引いてバスルームへとエスコートする。そんな俺の背中に、母の笑みを浮かべた視線が突き刺さっているかのように感じた。
シャンプーがどれかなど、一通りの説明だけしてバスルームに丁寧に放り込んで戻ってきた俺に、案の定『興味深い』『珍しい』といった色を爛々と浮かべる母の目がこちらを見やった。
だから、そんな視線に耐えきれなくて、言い訳みたいにもごもごと言葉が溢れたのだ。
「…小犬、みたいだったから」
「そうね」
「その…思わず、拾ってしまって」
「ちゃんとお世話をするなら、私からは何も言う事はないわ」
「…いいの?」
すぐさま返ってくる言葉に、思わずお伺いのようなセリフがこぼれ落ちる。こんな口調で母と話すのは久しぶりだ。常ならば女を連れ込むのに許可など取らないし、反抗的な態度が板について引き剥がす事もできなくなっていたから。
かつて少年だった頃の面影を、目の前のとうに成人した息子の顔に見出し、母は久しぶりに彼に笑みを向けた。
「『ノー』だなんて、言うはずがないわ。あの子は、私達の……この暖かい家が必要でしょう」
暖かい家。そうだ。ここは雪の降る外よりもずっと暖かくて、だけどそんな当たり前の事、すっかり意識もしていなかった。
「昔を思い出すわね。貴方が七つの頃。今夜と同じように小犬を拾ってきて…そうね、あの子がいなくなってしまってから、もう十年は経ってしまった」
十年と少し。それは、少しというには長過ぎる時間だ。
「大切にお世話なさい。痩せているわ」
「はい」
「毛艶も悪いし不安そう。女の子には優しくね」
「わかってる」
「どうかしら?」
母の眉は、俺の日頃の行いを咎めるように弓形に上がる。
「泣かせたら許さないわ」
「はい」
久しぶりに、口答えをしない返事を返す。そんな俺に、これまた久しぶりに母は笑った。
「貴方ってこんなふうにお利口だったわ」
ふふふ、と笑う母に、つい口をついて出てきそうな皮肉を唇の内側に噛み込んで、俺はさっさと身を翻した。あの子に、トリートメントのボトルがどれかを伝え忘れたのだ。
紳士的にドアをノックして、胸の内に宿った柔らかい予感に心が小さく音を立てる。
きっとこの家は変わっていく。豊かだけれど、冷たく使われていない部屋ばかりの、温度を失った家。一緒に暮らしているのに、笑い合う事のなくなった、母と俺。二人きりになってしまった広過ぎる屋敷。
彼女を可愛がることで、きっと俺たちはかつての思い出を蘇らせる。魔法のように。
(クリスマスみたいだ)
そうだ。昔、震える小犬を拾ったのも、クリスマスの頃だった。
その後、拾った子が実は十代の少女などではなく、痩せぎすの二十代の女性だと知り、俺と母の心配は加速するのだった。
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