第26話 夜に想う ⑤
「アルフレッドさん」
その声を聴いたとき、少し罪悪感に駆られた。
アルフレッド。
それは俺の本当の名前ではない。
この世界ではもう慣れ親しんでしまった、本名に近いだけの偽名。
俺はいつまで、嘘をつき続けるのだろうか。
「……お久しぶり、ですね」
「おいおい」
部屋に降り立って姫さんと相対する。
俺は、自分への疑念を心の奥に押し込めた。
「さっき、会ったばかりだろ」
「いいえ」
姫さんは静かに首を横に振った。
「そう感じるんです。会いたかった、あなたに、ずっと」
「……そうかい。じゃあ、そういうことにしとこう。久しぶりだな、姫さん」
「ええ」
姫さんが俺の手をとって自分の額に押し当てる。
まるで、その存在を確かめるように。
「本当に、久しぶりです。私たちの出会いは、春のことで」
「もうすぐ、冬だからな」
それはすなわち、俺がこの世界で過ごした時間でもある。
「どうやってここに?」
俺は冗談めかして肩をすくめた。
「大変だったんだぜ。壁乗り越えて罠避けて、途中屋根から落っこちそうになって」
「まぁ、危ない。もう二度とそんなことしないでくださいね」
今度はちゃんと私の方から正式に招待しますから。そう姫さんは続けるが、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
こうやって忍び込むのとお姫様に正式に招待されて来るのは、さてどちらの方が面倒が多いか。個人的には後者だと思う。
それに、こっちの方が性に合っているとも。
「ねえ、アルフレッドさん」
姫さんがその表情を見せないまま、俺に問いかける。
「このまま私を、攫ってくれませんか?」
時が、止まった気がした。
「それで、旅に出るんです」
俺はどう答えていいか分からないまま言葉に詰まる。
それは願いだ。姫さんが精いっぱいの勇気を振り絞って口に出した、自分勝手な願い。
「おいおい」
だけど俺は、それに気が付かないふりをして。
「俺にだって、無理なことくらいはあるよ」
冗談に、変えてしまった。
それが不誠実だってことを理解しながら、そうするしかなかった。
「そうですよね」
姫さんが顔を上げる。そこにあるのは笑みだった。少し悲しげな、微笑み。
「けど思うんです」
俺の手を離して、姫さんは窓辺に寄る。
「また、あんな風に旅がしたいって」
彼女の瞳に映る月は、今も美しいままだろうか。
「護衛にアルフレッドさんとセツカさんがいて、御者にカークさんが。そして、私の隣には勿論ロッテがいて、それで」
もう、戻らない日々の記憶。
ほんの短い間、自分の立場も責任も忘れて歩んだ夢の時間。
いいことばかりじゃなかったはずなのに、それでも思い出は今なお美しい。
「誰も知らない土地で、皆で生きていくんです」
「ああ」
俺もまた、夢想する。
それは、きっと。
「楽しい、だろうな」
「ええ。とても」
叶うはずはなくとも、想うくらいは自由なはずだから。
「……最近、アルフレッドさんはよくロッテと会っているんですよね」
姫さんが唐突に話題を変えた。
「一応な。理由をつけては飯をたかりに来るんだよ」
「私、ロッテが羨ましいです」
「あいつが?」
「はい。才能があって、明るくて、それに」
なんとなく、理解する。姫さんにとってロッテは自由の象徴なんだ。近くて、好きで、だからこそ、遠くて、複雑な感情が入り混じる。
「……名前」
「え?」
心臓が跳ね上がった。
言われて最初に思い至ったのは、俺の名前が偽物だということだ。
もしかして、気づかれたのだろうか?
だけど、それは思い過ごしだった。
「アルフレッドさんは、ロッテのことを名前で呼びます」
「それは」
少しだけ、ほっとする。
偽名がバレた訳じゃ、無いみたいだ。
「別にあいつが特別なわけじゃない。他の奴らだって」
「違いますよ。ロッテの名前を呼ぶ時だけ、他の人と、全然」
「姫さん……」
「私も」
姫さんが振り返り、俺たちは再び相対する。
月の光を浴びた姫さんは、本当に綺麗で。
「二人きりのときだけでいいです。どうか、私のことも、エレンと、そう呼んで下さい。アル」
目が、離せなくなる。
俺の作った幻想風景なんて、まるで目じゃない。
本物の輝きに吸い寄せられるように、俺はその手を取ろうとして。
(よう、久しぶりだな。エレン)
(アル――――何故)
脳裏に、あの光景がよぎった。
「アル?」
「……姫さん」
俺はその手を取ろうと上げた腕をさらに伸ばして、姫さんの頭まで持っていき、そのままトンと額を指で小突いた。
「あた」
「まだまだ子供のくせに、大人をからかうんじゃない」
「もう」
嘘だ。
全部が全部、嘘まみれだ。
俺は彼女に、自分の都合を押し付けただけ。
ただ、今その名前を呼んでしまったら、あの日に近づいてしまうんじゃないかという不安を覚えたから避けただけなのに。
それを。
「だいたい、立場ってもんがあるだろ。誰に聞かれるか、分かったもんじゃないんだから」
「それを言うなら、姫さん、だって十分危ないですよ」
まるで、彼女を慮ったかのような言葉で飾って。
最低だ。
だけど、それでも。
そういうしかないじゃないか、なぁ―――。
それから俺たちは、明るいことばかりを話した。まるでさっきまでの会話なんて無かったみたいに。
会えなかった時間を、埋め合わせるように。
あの日々のように、笑い合って。
「そろそろ」
だけど、時間は有限だ。
「行かなくちゃ。夜が、明ける前に」
「はい」
名残惜しそうな声。だけど、決して引き止めたりはしてこなかった。
俺は開いた窓枠に手をかける。
「じゃあな、姫さん」
「……また」
最後に姫さんが、俺に問いかけるように言った。
「また、会えますか」
「ああ、当然。また、会えるさ」
ちょっと笑って、そう答える。
「そう、ですよね。では、次に会えるのを楽しみにしています」
「おう」
そのまま俺は、屋根に上って元来た道を歩いていく。
光学迷彩で姿を隠しながら、つらつらと考えてしまう。
(俺は、何処に向かっているんだろうか?)
今日、ここに来るべきではなかったのかもしれない。
そんな思いが、何処か遠くにある。
もしかしたら、本当にもしかしたら。
(あの日に、近づいてるのかもしれない)
決してならないと誓った、あの自分に。
だけど、答えは無い。
どう歩けば正しい自分になれるかなんて、誰にも分かりはしない。
(寒いな)
もうすぐ冬が来る。
時間は経過していく。
嘘は時間と共に重くなっていく。
いつか、来るのだろうか。
誰かに、真実を話せる時が。
本当の名前を、名乗れる時が。
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