第2話 Dive to world②
「あ、ぐ!」
現実世界に帰還してまず最初に思い出すのは重力の存在だ。電脳世界の自由な仮想体から不自由なこの体に入ると、途端に体が鉛にでもなったかのような錯覚に襲われる。
これでも体はサイボーグとして十分以上に強化済みなのだが、それでも悪態をつきたくなるほど体は重い。
「く、そ」
それでも、動かなければ。
あの包囲を抜けるのに、少々強引な手段を使ってしまった。仕方がなかったとはいえ、あれではログアウトに痕跡を残してしまっているだろう。
この場所が割れるのは時間の問題だ。
電脳中毒特有の酩酊感を無理やり押さえつけて、首の後ろから接続器に繋がっていたプラグを乱暴に引き抜き、俺は覚束ない足取りでその場を後にした。
移動を、しなければ。ここではない、どこかへ。
俺はいつどこで、なにを間違えてしまったんだろうか?
「ハァ、ハァ、ハァ」
こんな汚い路地裏で、俺は最後を迎えるのだろうか?
「ハァ、ハァ、ハァ、ここも、駄目か」
空を見上げれば本物の軍用ヘリに、赤色灯の光。
電脳犯罪者一人に、随分と剛毅なことだ。
もう、逃げられそうにない。俺の理性は、そう判断を下していた。
冷たいコンクリートの壁に身を預けて、そのままずるずると座り込む。いくら電脳世界では「ウィザード」だなんて呼ばれるハッカーでも、この現実世界じゃあただの一機のサイボーグでしかない。
軍の人間を辞めたような連中が相手では、数秒も持たずにスクラップにされることだろう。
奴らが俺を見つけるまでの猶予は、もう数分もない。
「最低の最後だ」
いっそ投降でもするか。
「…………」
いや、それは駄目だ。
許されることではない。
「っは。なら、いっそ」
「いっそ、どうするつもりだ。アル」
不意に、路地裏の向こう側から聞きなれた低い声が聞こえた。
「……よう、おやっさん。久しぶりだな」
よりにもよってこんな時、こんな場所でこの人に会うなんて。
「こんな時間に、散歩か?」
「そんなわけあるか」
数年ぶりに見たおやっさんの厳つい顔は、なんだか酷く老け込んでいるように見えた。その原因の一旦は、きっと俺にあるのだろう。
「よく、ここが分かったな」
「まあな、刑事の勘ってやつさ」
思わず苦笑いが浮かぶ。この科学が進みきった時代に、そんな古臭いことを、この人はいつも言っていたものだ。
それを否定して、何度口論になったことか。
けれど、いつだって、最後にはこの人の言うことが正しかった。
本当に、頼りになる人だった。それだけは、確かなことだ。
「なぁ、おやっさん」
「なんだ」
「俺を、逮捕しに来たのか」
おやっさんの顔をまともに見ることが出来なかった。
「……ああ、そうだ」
少しの沈黙のあと、おやっさんが短く応えて、懐から警察手帳を取り出す。
「アル、お前を、逮捕する」
言葉には、年月分の重みがあった。
今となっては犯罪者になってしまった俺と、公安のおやっさん。お互いに、こんなはずじゃなかったと、そう思っていることだろう。
「じゃあ、しょうがねえか」
俺から始めたことだ。けじめはつけなくちゃならない。
壁に背中を預けたまま立ち上がって、俺は懐から拳銃を取り出しておやっさんに突きつける。
その間、おやっさんは微動だにしなかった。
「抵抗、させて貰うぜ」
サイボーグの俺が本気を出せば、生身のおやっさんに勝ち目はない。
だというのに、おやっさんは酷く冷静だった。
「やめとけ。今そんなもんぶっ放したら、ものの十秒で軍がここに殺到するぞ」
「……だろうな」
そうなれば、俺のほうが問答無用で射殺、か。
「だけどな、このままじゃあどっちにしたって結果は同じだ。なら、最後に一人くらい道ずれにしたっていいとは思わないか?」
「本当にそう思うんなら」
おやっさんの目は。
「撃ってみろよ」
本気だった。
撃たれるわけがないと、そう思っているわけではない。多分、撃たれてもいいと覚悟をもってここにきているのだ。
数秒の間、俺たちは睨み合っていたが、とうとう根負けして、俺は銃をしまった。
どれだけ落ちたって、元相棒は、撃てない。
「なぁ、アル」
そんな俺を見て、おやっさんが呟くような小さな声で言った。
「なんでエリクサーに手を出した。よりにもよって、お前が」
エリクサー。それは悪魔のプログラムだ。
このプログラムがあれば、電脳世界を通して人間の中に入り込み、その魂を書き換えることが出来る。
エリクサーを使われた人間は、本人のまま、あらゆる部分を他人に掌握される。記憶、感情、理性、行動、主義、主張、常識、まさに、ありとあらゆることを。
電脳化している人間は、ある日突然、理由も分からず家族や恋人を自分が殺して回るんじゃないかという恐怖に怯えることになった。
その上、このプログラムは解除することができない。このプログラムのコードは、製作者以外には理解不能なもので。
その、製作、者、も、すでに、死んで、いる、らしい。
「……なんでって、そりゃあ」
頭痛を抑えながら、俺は必死で思い出す。
何故ってそりゃあ。
「俺は、こんな世界をぶっ壊したいんだよ」
それが、俺の望みだ。
「アル」
「もう、話は終わりだ。俺は、行くよ」
俺はおやっさんに背を向けた。
「最後に、話せてよかった」
「待て!」
おやっさんが、俺を呼び止めた。
「なんだよ」
「投降してくれ。今なら、まだ間に合う」
おやっさんの言葉が、俺を苦しめる。
「……なんだよ。なにに、間に合うっていうんだ」
「まだ、お前を救えるかもしれねえ。裁判だって受けられる。自暴自棄になってこのまま終わりだなんて、そんなのはよしてくれ」
「っは、なんだよそりゃ」
思いっきり、嘲笑うような声を出してやる。そうしないと、弱さが出てしまいそうだったから。
「警察官のあんたが、犯罪者である俺に同情かよ」
「違えよ。そんなんじゃねえ。この感情を、そんなもんで片づけられるはずがねえ」
おやっさんは、まるで吐き捨てるかのように言う。
「俺はよう、もう誰も失いたくねえんだ」
重い。俺たちにとってそれは、重すぎる言葉だ。
「やめろよ。俺は犯罪者で、あんたは刑事だ。割り切れよ」
「無理だ。無理だったんだ。割り切ろうとした、けどできなかった。俺は……」
「やめろよ、やめてくれ」
「お前を、救いたい」
無理だ。
それは、本来分かりきっている。
エリクサーの使用は、今の世界では殺人よりも重い。
それを、何度も。
だけど。
「アル。俺を信じてくれ。絶対になんとかしてみせる」
決意が鈍る。
おやっさんの言葉には強靭な意志があった。
俺は、どうせ死ぬならこの人に全てを委ねたいと思った。俺のためじゃなくて、この人を後悔させないために。
俺なんかのためにここまで言ってくれた、おやっさんのために。
「……俺は、俺は」
「おい、なんだよ、あれは」
「え?」
きっと、振り返ってはいけなかった。
俺の背後にはいつの間にか、扉が出現していたのだ。
現実世界に存在していいようなものではない、銀色に輝く扉が、宙に浮いて。
「ここは、電脳世界じゃない、はずだよな」
おやっさんの声は、虚しく俺の横を通り過ぎた。
俺は、その扉を見つめて、直感する。
この扉は、どこか別の場所に繋がっていると。
「おい、おい!アル!」
俺は、引き寄せられるように、扉に向かって歩いていく。
「よせ!行くな!」
おやっさんも、その扉に何かを感じたのだろう。
だけど、もう、遅い。
扉が、俺を招き入れるように開いた。
「アル!」
ガチャリと、聞きなれた音が聞こえた。
おやっさんが、銃を構えたのだろう。
「やめろ!それ以上進んだら、俺はお前を撃たなきゃいけなくなる!」
「抵抗は、しない」
俺は両手を上げる。
「俺に、俺にもう撃たせないでくれ!」
「撃つんなら、撃ってくれ。なぁ」
扉はもう、目と鼻の先だ。
「俺を、止めてくれよ」
「この!馬鹿野郎がぁ!」
銃声。
しかし、放たれた銃弾は俺の顔の横をすり抜けて、扉の中に消えて行った。
向こう側には突き抜けていない。これで、この扉は、どこか別の場所に繋がっているということが分かった。
「おやっさん」
俺は、手を伸ばして、その向こう側に。
「最後の言葉、嬉しかったぜ」
身を、躍らせる。
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