1-05話:王弟、ヴァレアキントス・フレルブルム公爵

 悪魔の手配により、王宮の敷地内に無事に潜入が成功したリコリス。

 指定された場所へ向かうため、彼女は五年ぶりに王宮の敷地内を感慨深い思いで歩く。


「懐かしい……わね」


 少女時代の彼女は、上位貴族の令嬢として美しく淑やかに着飾り、同じ場所を歩んでいた。


(初めて王宮に訪れたのは、現国王の婚約者候補を決めるためのお茶会に招待された時だったわ)


 四季折々の花が咲き乱れる華美な庭園を横目に、両親と共に初めて訪れた当時を思い返す。


「あの頃は、王宮が珍しくて新鮮な気持ちでいたわね……」


 それは、かつてリコリスがリュンヌと名乗っており、まだ彼女が幼かった頃のこと。

 王宮の奥にある別の美しい庭園でのお茶会で、当時まだ少年で王子だった頃の現国王エラムディルフィンと顔合わせをさせられた。


『お初にお目にかかります、殿下。リフィル侯爵の娘、リュンヌです』

『……ああ』


 美しいカーテシーを見せる令嬢に、エラムディルフィンはつまらなそうな目線を向けて頷くに留まる。

 思い返せば、初めて会った頃からすでに、彼女に対するエラムディルフィンの態度は好ましさを感じるものではなかった。


 挨拶後に少し世間話をしたが、そこでもエラムディルフィンは言葉を返そうとしない。

 そして、彼は不機嫌そうな表情を隠しもせず、すぐに去ってしまった。


 エラムディルフィンにとって、彼女は時間を割いてまで渋々と会わされた貴族令嬢の一人でしかなかったのだろう。


 そのあと、幼くも絶世の美少女と謳われた華美な衣装の少女に話しかけた彼は、リュンヌと向き合っていた時とは見違えるほどの笑顔で長い間会話を続けていた。

 会話の隙間隙間で、少女はリュンヌに対して勝ち誇ったような笑みを向けていた。

 彼女こそが、後の側室で現在の王妃ティファレだ。


 エラムディルフィンが別の少女と親しくしていたからこそ、後日、婚約者に内定した令嬢がリュンヌだと知らされた時は、彼女だけでなく両親も耳を疑った。

 婚約者決定の要素に、エラムディルフィン当人の意志や二人の相性は含まれていなかったのだろう。


 婚約が決まった頃の出来事は彼女にとってあまりにも強烈で、いまだ彼女の記憶に新しい出来事だ。


(あのひとに初めて出会った頃なんて、何もかも忘れてしまいたいわ……)


 王宮での出来事は、少女時代から王妃時代に至るまで、あまりにも辛いことが多かった。


(でも、すべてが辛いことばかりでは、なかったのよね……)


 ふと、彼女は、辛かった令嬢時代を思い返す。


 リュンヌは婚約者となったエラムディルフィンに蔑ろにされていながらも、王子妃としての厳しい教育を受け続けていた。


 勉強が終わったあとの彼女にはエラムディルフィンとの時間が設けられていたが、彼は決まって姿を現そうとはしなかった。


 そして、待ち合わせの談話室に彼女が向かった日のこと。

 室内から婚約者の話声が聞こえてきたことで、ようやく彼が約束の時間を守ってくれたのだと、安堵して扉をノックしようとしたが……。


『まったく、気に喰わん。あの女の、他人を下に見るような生意気な目。そして自分がさも偉そうに見せる仕草。気に喰わん! 偉いのはどちらだと思っているんだ!』

『ふふ、エラムディルフィン殿下ったら。そんなことを仰ってしまったら、ティファレさまがかわいそうですわ』


 ……自分に対する不満に満ちた発言が聞こえてきたことで、ノックしかけていた彼女の手は、ふと止まった。

 そして、婚約者である自分よりもよほど仲睦まじく語り合うティファレの様子に、彼女はその現場を見なかったふりをして扉を閉じた。


(私は本当に、エラムディルフィン殿下と結婚するのかしら……。このまま教育を受けていても、私には殿下を支えていける力なんて、ないわ……。ティファレさまのほうが、よほど殿下にお似合いだもの……)


 それでも、レンデンスが亡くなる前までの彼女が挫けずにやっていけたのは、幾分かの救いがあったから。

 エラムディルフィンの弟、ヴァレアキントスの存在も救いの一つだった。


『リュンヌ嬢、今日は王子妃教育の日だったんだね。いつもお疲れさま。兄上には挨拶したかな?』

『いいえ、それが……。ご用事がおありだそうで、お会いできておりません』

『兄上はまた……』


 王宮での一日の勉強を終えた頃になると、窮屈さも相まって彼女は疲れ果てて憂鬱な気分になる。

 そんな彼女に対して、ヴァレアキントスはいつも気さくに優しく語り掛けて、王子妃教育に励む彼女を応援していた。


『リュンヌ嬢、もし時間があれば、私とお茶でもどうかな?』

『え? よろしいのでしょうか?』

『もちろんだよ。最近、隣国から新しい果物の輸入が始まってね。シェフがその果実を使った、新作スイーツを沢山作ったようなんだ』

『まあ! どのようなスイーツですか?』

『ふふ、気になるかい?』

『ええ!』

『それなら、ちょうど良かった。リュンヌ嬢はいつも頑張っているから、少しでも安らいで欲しいと思っていたんだよ。私の侍従も一緒だけど……どうかな?』

『はい! ぜひご一緒させてください!』

『うん。じゃあ、ついておいで?』


 婚約者でありながら、リュンヌを無視するエラムディルフィン。

 そんな兄とは真逆で、弟のヴァレアキントスは彼女に対して労わるような優しい微笑みを頻繁に向ける。

 かつてのリュンヌは、その笑顔を目にする度に、自分の努力が評価されて報われるように感じていたのだった。


(ヴァレアキントス殿下、元気にされていらっしゃるかしら……)


 彼女は、かつて王宮で起きた出来事を振り返りながら歩く。


『ねえ、リュンヌ嬢。もし君が困っていることがあったら、私に気兼ねなく相談してほしいな』

『え?』

『私と君は、公爵と侍女という立場であるけれども、ふたりとも兄上を支える者同士だろう? 何か力になれることが、あると思うんだよ』

『そう、ですね。もし困るようなことがあれば……相談させてください』


 結局その後、彼には何一つ相談しなかった。

 彼の兄・エラムディルフィンについて、相談したいことは沢山あったにも関わらず、彼女は不安を心の中にため込み続けてしまったのだ。


(そうだわ。彼は公爵になられたのよね。また、間違えてしまったわ……)


 気付けば、あっと言う間に目的地に辿り着いていた。


(初日から、国王やティファレと会わずに済んだのは幸いね。気分が悪くなるもの……。容易く出会える立場ではないとは言え、いまどうしているかなんて分からないのだから……)


 リコリスは気を引き締めた表情をして、王宮の一角のとある人物の執務室の前に立つ。


(それにしても……)


 この部屋の主が、第一王子アネモスが暮らす離宮の人事を掌握していると言う。

 アネモスに好意的で、保護者のような役目を果たしているようだが……。


(悪魔の話では、貴族の殆どが呪いに対して過敏に反応したようだけど……この部屋の主はティファレの息子に好意的なようね。どんな人なのかしら……)


 リコリスは部屋主を想像しながら、扉をノックする。


「はい?」

「……!」


 どこかで聞き覚えのある男の声に、リコリスは体をこわばらせた。

 懐かしくありながらも以前耳にしていた国王の声ではないことに気付いたが、動揺した彼女の口からは上手く言葉が出てこない。


「何者だ?」


 リコリスがそうこうしているうちに今度は別の男の声が聞こえてきた。


「ほ、本日より、王子のお世話をさせて頂く者です。ご挨拶に参りました」

「……いま、開ける」


 中から扉を開いて姿を見せたのは、彼女が王子妃教育を受けていた頃や王妃だった頃に良く目にしていた侍従。


「君が、王子の新しい侍女か?」

(……! まさか……! だって、彼が仕える方は……)

「は、はい」


 リコリスは侍従からの問いかけに応じると、部屋の奥の執務机に向かっていた白銀の髪の男の姿を視界に入れて、息を飲んだ。

 侍従に覚えがあれば、当然、その主にも見覚えがある。


(ヴァレアキントス殿下!)


 リコリスが男と同じタイミングで顔を上げると、彼の紫色の瞳と目が合う。

 まるで奇跡が起きたかのように、彼の瞳が輝いたと思ったのは一瞬の出来事。

 勢いよく立ち上がった彼は、呆然と口を開けて呟いた。


「……あなた……は……」


 この姿では、彼とは初めて出会ったはずだ。

 しかし、リコリスの瞳と目が合った彼は、何故か目を見開いて、そしてどこか懐かしくも切なそうな表情をしている。

 リコリスも一瞬、同じように呆けた表情をしかけてしまうが、すぐに無表情を心がけた。


(どうして彼が、ティファレの……現王妃の息子の保護者なんてしているの……!?)


 王子の人事を掌握する人物。

 それは、リコリスが王妃であった頃に彼女を気にかけてくれていた、王の弟ヴァレアキントス・フレルブルム公爵だった。

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