黒い猫

於人

黒い猫

黒い猫


 大学は猫の多いところだった。茂みや植え込みからどことなく彼らは現れ、学生に餌をもらったり遊んでもらったりする。近くの新聞社がそのことを取り上げたこともあった。僕もその光景を何回か目にし、癒されたり(もしくは何も感じなかったり)したものだった。

 しかし、どうしてもあの色の猫だけは見つけることができなかった。黒い猫、いわゆる黒猫というやつだ。お目にかかれたのは、白色に埃のような灰色の斑が浮かんでいるものだったり、炭をこすりつけたような黒斑の猫ばかりである。

 あの安物のペンキで塗り立てたように真っ黒な、黒い猫。尻尾はくたびれたように短く曲がっていて、額の毛は少し禿げている、雄猫。そんな「奴」に、僕は少しばかり思い入れがあったかのように思う。やはり、「奴」は奴というだけあって、そう簡単には姿を見せてくれない。いや、これから先も永遠に僕の前に現れることはないのだろう。

 

 ある日家に帰ると、玄関の車の下に黒い「奴」はいた。奴は申し訳程度に鳴いてみせ、僕に餌を要求した。ここに来れば餌が貰えると聞いたのだけれど、という風に。母親は喜んでその要求に応えた。奴は感謝する素振りも見せることなく、その餌にありつき、事が済むと帰っていた。母は満足そうだった。

猫という生き物は、大抵そんな風にして人間に餌を求め、食い繋いでいく。まあ、猫はそういう生き物なのだろう。可愛くない奴だな、と僕は思った。

 「日雇い」で我々は奴に雇われたのかと思ったが、そうではなかった。日が続いても、奴は車の下に鎮座し、要求が問題なく通されるのを待ち、いつも母がこれに応えた。

 煮干しが鰹節になり、鰹節がツナ缶になって奴に配される頃には、奴は家に上がりこみ、その確固たる地位を築いているようだった。まるで順調に軍隊を進軍させ、敵の城を陥落させ、そこに自国の国旗を突き立てた将軍にように。

動物を家にあげることなど言語道断という了見であった父も、母の楽しそうな表情を見るにつれて、ついに奴の「入城」を許したのだ。父と母は奴のことを「くろ」と呼び、僕はくろのことを「奴」と呼んだ。

 「奴」は実に横柄な奴で、実に色々な場所を寝床にした。テレビの前のカーペット、ソファ、物干し竿の向かいの縁側、そして僕の部屋のベッド。一段落して、ベッドに横になろうと思った時に限って「奴」が先に僕の寝床を陣取っている。

 「くろが寝ているんだから」

と母が擁護するので、僕は仕方なくリビングのソファに横になることを強いられる。お犬様でなく「お猫様」とはまさにこういうことを言うのではないだろうか、なんてブツブツ言いながら。

 そして、僕がすっかり眠気が覚めて部屋に戻った時、「奴」はもう居なくなっている。外に散歩に出かけたのだ。猫ってのはほんと気楽でいいよな、と呆れながら、奴の作ったベットシーツのを眺めていた。

 

 歯を磨きに洗面台まで行った時、浴室の前に敷いているマットレスの上で「奴」は眠っていた。そうか、ここも奴のお気に入りの寝床の一つだったのだ。起こさないように僕が歯を磨く音を慎んでいると、鳴き声が低く聞こえた。僕はその鳴き声に、奴の中の一つの分岐点が静かに切り替えられ、ある一つの方向性が定められたかのような啓示を感じた。

 

 「奴」は翌朝、家の近くの駐車場で死んでいた。車に撥ねられたらしく、腹の辺りに幾何学的なタイヤの模様跡がべったりと残っている。動揺した母に連れられ、私は雨の中でその光景を目の当たりにした。生きている者と死んだ者の間の空白を埋めるように、白く短い雨が降っていた。私は母に言われるがまま、「奴」を抱き抱え、ダンボール箱にそっと入れる。僕は想像していたより「奴」が重いことに驚く。生半可な力で抱えていると、よろけてしまうほどの重さだ。、という生の実感を「その重み」から感じた。家の玄関に運ぶまで、黒く滲んだ血がダンボール箱の底に滴り、染みこみ、そして消えていった。その間、母は頑なに何も言わなかった。


 毋は、庭の木の根元にくろを埋める為の穴を掘っている。ゆっくりと、しかし着実に「彼」が入るべきである穴は深くなっていく。僕は午後から所用が入っていたので、放心し、取り憑かれたように穴を堀り続けている母の背中をそっと通り抜け、家を出た。

家に帰ってきた後も、母はさっきと寸分変わらない調子で穴を掘り続けていた。しかし、穴の深さは家を出る前とさほど変わっていないように見える。掘っている土が硬いせいなのか、喪失感からスコップにうまく力が入っていないのか、もしくはそのどちらでもないのか、僕にはそれが分からなかった。そして、これから先もずっとそれが分かることはないのだろう。

 

 「彼」がその後どんな埋葬をされたのか、ということを僕はよく覚えていない。墓石が建てられたのかもしれないし、供物に彼の好物らしきものがそこに置かれたのかもしれない。少なくとも「彼」の最後については、一番面倒を見ていた母が一任するべきであったかのように思えた。だから僕が知っているのは、死体となった彼の重みの中に、彼の生が確かに存在したということだけだ。

 

 母の変わりようを見かねた父が、しばらくして新しい猫を貰ってきた。同じく黒い猫だったが、尻尾はぴんと伸びていたし、額の禿げも見当たらなかった。そこに「彼」の面影は跡形もなかったし、母はもう猫を飼うことに諦念を感じていたが、結局は引き取る事にした。名前は変わらず「くろ」と名前をつけた。


 先日、友人と近くの神社にお参りに行く事があって、境内にちょうど黒い猫がいるのを見つけた。もしかしたら、と思い覗き込んでみて、やっぱり駄目であった。その猫は「奴」でもなく、「彼」でも無かった。面白く感じなかったので、その猫を撫でる友人に、

 「黒猫は魔女の使い魔かもしれないんだから、触っては危険だ」

と冗談半分でたしなめてみた。

 「そういうお前が使い魔だよ」

と間髪入れずに返答された。よしよし、と友人はまだその猫を可愛がって遊んでいる。

 そうだよな、使い魔程度には死んだ猫と邂逅するような奇跡も、死んだ猫一匹を生き返らすこともできないのだろう。

 

 もうすぐ「彼」の一周忌になる。僕は「彼」が鬼籍に入った同じ日、同じ時間を思いおこす。運が良ければあの日と同じような白くて短い雨も降るのかもしれない。しかし、彼とまったく同じ容姿で、同じ体裁を整えたあの黒い猫だけは、二度と僕の前には現れないのである。

 




 

 

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黒い猫 於人 @ohito0148

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