最終話 ロスト・スクール・ホワイトクリスマス
ジリリリリリ――
冬の布団の中でのまどろみという最高の状況を吹き飛ばすけたたましい音が響く。
殴りつけるように目覚まし時計を切り、僕はベッドの中でうめいた。何か、大事な夢を見ていた気がするのに、記憶はすぐに消えていく。
嫌に寒かった。
温もりを求める体を動かすために、僕は掛布団を蹴り上げる。寒さが体に押し寄せ、眠気を追い払っていく。
「いや、寒すぎる……」
目を開き、まだ眠気に包まれた体を動かしてカーテンを開く。
レースの隙間から、外を見る。
一瞬、明晰夢を見ているのかと思い、けれどすぐに違うと気づく。
見慣れた外の景色は、白銀に染まっている。
雪が降り積もった街並みが、そこにあった。
「……ホワイトクリスマス」
つぶやく声に答える言葉はない。
一人身を貫くどころか、恋人だっていたことが無い人生。実家を出た僕の生活空間からは、他人の気配が消えて久しい。
26歳の12月25日のことだった。
雪に見とれるのもそこそこに、僕はあわただしく準備を始めた。
寒さのせいで目覚めがよかったとはいえ、そう余裕のある時間ではない。
食パンを放り込み、水分を摂取。焼けたパンにジャムを縫ってくわえて洗面所へ。
髪を整え、パンを口の中にねじ込んだところで顔を洗う。ひげをそり、髪の毛を再度整え、トイレを済ませて鞄を手に取って。
「……嘘だろ」
持ち上げる拍子に、入社したころから使っていた革の鞄の持ち手がぶちりと切れた。
長く愛用していたそれがご臨終した悲しみに浸っている余裕もない。
慌ててタンスを開き、代わりの鞄を探す。
「……こんなのまだあったのか」
中学の頃に使っていたリュックサックを見つけ出し、入っている中身を抜き出す時間もなくて、その上から荷物を詰め込む。
小学生から使っていたリュックはそれだけでもうパンパンで、スーツに全く合っていないなと思いつつ家を飛び出した。
年末のあわただしい会社にて、僕たちは必死に業務を進めた。有休を使って無理に年末の休みの期間を伸ばした同僚がうらやましかった。まあ、その同僚はさっさと自分の分の仕事を終えているからこそ優雅に年末の時間を過ごせているのだけれど。
地獄から解放される頃にはとっくに日が沈んでいて、僕は凝り固まった肩をほぐしながら、やけに浮ついた電車に乗って首をひねる。
十秒ほど考えてようやく、今日がクリスマスであることを思い出した。年齢イコール彼女なしの年数である僕にとって、クリスマスはいつもと変わらない日だ。
さっさと家に帰って眠ってしまいたい――あくびを噛み殺しながら、僕は空いた椅子に座って、リュックを膝の上に抱くように持つ。そうして、外界をシャットアウトするように目を閉じた。
電車の揺れは遠くなり、気づけば僕は夢を見ていた。
彼女のことを、思い出していた。最後に会ったのはもう一年近く前のことだった。幼馴染と呼んで差し支えない存在であり、今も交流のある幼稚園からの仲良しグループの一人。そして僕の初恋の人。
小さな夏木由利が、僕の手を引いて歩いていた。その熱に鼓動が跳ねた。
ぼうっとした頭で彼女の背中を見つめながら、僕は手を引かれるままに歩いた。
ころころと景色が映り替わり、大学生の姿をしていた夏木が小学生に変わる。多分、四年か五年。
見上げる空からは今日と同じく白い雪が降っていた。
ホワイトクリスマスだと、彼女が幸せそうに語った。遠く、過去を見つめるような寂寥に満ちた彼女の横顔を見ながら、僕は激しい衝動に駆られていた。
どうして彼女をこんな顔にさせながら、僕は気の利いたことの一つ言えやしないのかと。
僕が手を引いていけばいい。彼女と一緒に見るのだ――
『いつか僕も見に行きたいな。雪の日のイルミネーション!』
幼い僕の声を聴きながら、心の中で叫ぶ。違う、そうじゃないと。
一緒に見に行けばいい。彼女と共に見る想像を、現実のものにするんだ。だって、僕はこんなにも待ち望んでいる。彼女から誘われる言葉を、望んでいる。
けれど、どうして望んでいるんだ。与えられるのを、待っているんだ。こちらから、踏み出せばいいのだ。僕から、歩み寄ればいいんだ。
それをしないから、彼女は僕の隣から去っていったんだ。僕と同じ名前の彼と並んで、歩き去ってしまったんだ――
伸ばした僕の手には、どこか可愛らしい、赤い手袋がはまっていた。
久しぶりに、心がうずいた。過去の傷が痛む。
視界が変わり、彼女は橙色の明かりに照らされながら、ぼんやりと空を見上げていた。大学生の頃のこと。イルミネーションがまばゆい道の端っこ、明るさと暗さの境目に立つ彼女の目が捉えているのは、イルミネーションの光か、幸せだった過去の一幕か、それとも――約束か。
どうして彼女は一人あんな場所にいたのだろうかと、僕は逃げ出したくなるような思いを堪えながら考える。
約束。あれは、約束だったのだろうか。幼い頃。遥か昔になんとなく告げたあの言葉は、今も有効なのだろうか。
彼女は、誰かを待っていた。一人、待ち続けていた。
寒空の下、彼女は頬を真っ赤にしてそれでも誰かを待っている。
寂しげにたたずむ彼女の姿が僕の心を震わせる。
それでも男かと、僕は自分の心を叱咤する。
この予想は、間違いかもしれない。けれど、いつまでも与えられるのを待ち望んでいる自分を、終わりにしたかった。初恋の傷を、乗り越えたかった。
目を、覚ます。体は自然と、リュックのファスナーを開いていた。
あの日、彼女に贈ることのできなかったそれは、リュックの底に、くしゃくしゃになって入っていた。
色あせた、赤い包装の袋。それをむんずとつかんだその時、アナウンスが乗り換えの駅に到着したことを告げた。
電車から降りた僕は改札を出て、真っすぐ駅の外へと歩き出す。
あの日の、ように。
以前、再会した中学時代の友人の言葉に従って見に来たことのある、駅前のイルミネーション。気づけば僕は、そこに足を運んでいた。
視線は、今日も彼女の姿を探している。昨日と、一昨日と、さらにその前と、同じように。
改札を抜けるとひどく冷たい風が顔に吹き付ける。
その冷気に体を震わせながら、僕の足取りは迷いなく進んでいく。
雪が舞い散る世界、雑踏の中を逆らうように進みながら、僕は彼女を求め続ける。
ずっと、僕は彼女を求めていた。彼女以外が隣に立つことが考えられなかった。
けれど、彼女は僕の手が届かない人になった。
別の男と恋人になり、僕のことなんか忘れていくはずだった。
――期待しても、いいのだろうか。
高校生の頃、僕に会いに来るような素振りを見せた彼女のことを思い出した。中学から付き合っていた男と、彼女が別れたという話を思い出した。
雪の降りしきるクリスマスの日、一人道端にたたずんでいた彼女の姿を思い出した。去年の二月ごろ、雨の日に会った彼女のことを思い出した。
期待して、いいのだろうか。彼女が僕を待っているだなんて、そんな夢みたいなことを、思っていいのだろうか。
いいや、多分僕は今日、彼女に振られる。僕は、振られに行くのだ。過去を清算する。
そうしてようやく、前を向く。
恐怖はあった。この心地よい昔馴染みという関係が終わってしまう恐怖。けれど、それでいいんだ。これが、正しいんだと言い聞かせた。
長かった初恋を、その傷を、今日できれいに、終わりにするのだ。
少しずつ、道を行く人の姿が減っていく。まだ、彼女の姿は見つけられなかった。
けれど、確信があった。彼女はきっと、この先にいると。
白い息が、イルミネーションの橙色の明かりに照らし出される。真っ白な息は、走行する車が生み出す風に吹かれて、すぐに消えていってしまう。
歩みが、止まった。
赤い歩行者信号の光の先、薄暗い建物の陰にたたずむ彼女の姿が、そこにあった。
信号が、青に変わる。冷えた拳を握る。緊張で心臓が口から飛び出しそうだった。
覚悟を胸に、遅すぎる一歩を踏み出す。
並木のイルミネーションをじっと見続ける彼女へと、僕はゆっくりと歩き出す。
彼女の横に並び、橙色の光を見上げる。
長い睫毛を揺らした彼女が、僕を見る。
僕もまた、彼女を見つめ返した。
「手、寒くないか?」
マフラーもコートもしていて、けれど手袋だけはしていない。外気にさらされた手はひどく赤くなっていて、彼女はそれを口元に近づけ、息を吹きかけて温めていた。
「寒いよ。でも、手袋はもうないから」
「……そう、だよな。僕が、お返しをしなかったんだから」
驚いて目を見開く彼女に、くしゃくしゃの包装を背後から見せる。
突き出したそれを前に、彼女は面食らった様子で僕と包装の間を行ったり来たりさせる。
やがておずおずと受け取った彼女は、くたびれたラッピングを開いて息をのむ。
「あの日……君が車に牽かれそうになった日、ショッピングモールで買ったものなんだ。まるで物語の主人公みたいにさっそうと現れた彼と君はお似合いすぎて、しり込みして、結局、渡せなかったんだけれど」
「いつの、話よ」
「ええと……もう、十三年くらいになるのかな」
「干支が一周回ってるじゃない。それに、お返しの話はもっと前でしょ」
ああ、その通りだ。確かあれは、僕たちがまだ小学生の頃だから……もう、ずいぶんと昔。
呆れたようにため息を漏らした彼女が、ラッピングを開き、プレゼントを取り出す。
当時の僕にとっては大金の品。そして何より、あの日、渡せなかった悔しさとともに、そこにさらなる思いを込めた品。
ふっと記憶の奥底からよみがえってきたのは、悔し涙を流しながら針と糸を持ち、何度も指の腹を刺して流血した夜のこと。
「……嘘」
「それは、世界でたった一つ、君だけのものなんだ」
つたなくて恥ずかしいけれど、そこにはちゃんと、君の名前の刺繍を入れたんだ。せめて、僕だってこれくらいはやれるのだと示したくて。縫って、満足して、痛みを思い出したくなくて封印してしまった品。
その赤い糸に白で雪の結晶の模様が入った手袋が、長い時間をかけてようやく、彼女の手を包み込む。
ああ、それでこそ彼女だ。僕が知る、僕が惚れた、夏木由利だった。
「……好きだ、由利」
これまでの全てを噛みしめながら、僕は告げた。
じっと両手を包む手袋を見つめていた彼女は、顔をあげ、ふっとこぼれるような息を漏らして口を開く。
「私も、あなたが、俊介が好きです」
告げる彼女の目には、涙が浮かんでいた。
いつからここにいたのか、冷え切って真っ赤な頬。
そこを、一筋の温かな雫が伝った。
冷え切った彼女の手を手袋越しに握り、彼女が傘を開く。
そうして僕たちは、どちらからともなく歩き出した。
ゼロ距離になった僕たちは、一つの傘の下で並んで進んでいく。
降り積もった雪はいつか溶けて消えてしまう。けれど僕たちが積み重ねた時間は、日々は、想いは、消えることなく僕たちの心に残り続ける。
降りしきる雪の中、僕たちは顔を見合わせ、固く手を握り返して笑った。
今日はホワイトクリスマス。
恋人たちへの祝福の雪は、絶えず降り続けていた。
スクール・ホワイトクリスマス 雨足怜 @Amaashi
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