第41話 スクール・ホワイトクリスマス・ゼロ
僕が生まれ育った街は、それほど大きくなくて。けれど郊外にできたマンション群のお陰で、一気に人口が増加することとなった。
おかげで僕が生まれた時には幼稚園や保育園の空きがなくて、僕は年少の途中まで託児所で育った。
幼稚園年少のその日、僕は期待とそれを上回る緊張を胸に、母さんの手を握って幼稚園に初めて登校した。
六月のことだった。
内気だった僕は、あまり同世代の子どもたちのもとへと進んで話しかけて仲間に入れてもらうことができない子どもだった。
だから幼稚園に入っても、僕は一人だった。
すでに成立している集団に入るのは、どんな世代であっても容易じゃなくて。
僕は一人、先生に見守られながら絵を書いていた。
やがてその先生も、別の子に呼ばれて去って行ってしまって、僕は一人になった。
心細くて、悲しくて、涙がにじんだ。
ふと、視界に影が入って、僕は目に涙をにじませたまま顔を上げた。
窓ガラスから差し込む光で逆光になった彼女が、僕に向かって手を伸ばしていた。きれいな子だと思った。心臓が跳ね、ぶわりと顔が熱くなった。
『いっしょにあそぼう?』
そう告げる少女の手を取って、僕は日の差す世界へと一歩を踏み出した。
それが、夏木由利と僕――雪村俊介の出会いだった。
今ではほとんど思い出せない、けれどたまに夢に見る、僕と彼女の始まり。
彼女は、同世代の中でも一目置かれる存在だった。
クラスのリーダー的な立ち位置であり、天真爛漫な彼女が中心となって、僕たちは時間を過ごした。
弱虫で泣き虫で臆病者な僕は、いつだって由利ちゃんに手を引かれてその輪に加わった。小さな由利ちゃんの手を握り、けれど力強い力で引っ張られた。由利ちゃんと手をつないでいれば、僕は何だってできる気がした。
帰るときになっても、僕はしょっちゅう由利ちゃんに手を引かれていた。そんな僕たちを、お母さんたちは眩しいものを見るように目を細くして見ていた。
いつだって僕は由利ちゃんと手をつなぎ、引っ張られて歩いていたけれど、雨の日だけは違った。
小さなピンクの傘を差した由利ちゃんは、雨の日だけは僕と手をつなぐことはなかった。幼稚園の軒下を出るとき、片手で傘を差した由利ちゃんが、僕から手を放して雨空の下に歩き出す。
手の中から消えた温もりを追うように、僕もまた由利ちゃんの後を追って歩き出す。
雨が憎かった。由利ちゃんと手を繋げなくなる雨を恨めしく思った。由利ちゃんの鼻歌をかき消す雨は、邪魔者だった。
冬のある日。由利ちゃんのお母さんが死んでしまった。その日からしばらく、由利ちゃんは幼稚園に来なかった。
沈んだ顔の由利ちゃんを、けれど先生は「そっとしておいて」と告げ、僕に一人で遊んでいるように告げた。
由利ちゃんのお母さんの代わりに、家が近い僕のお母さんが由利ちゃんを連れて帰った。由利ちゃんと一緒に帰りながら、けれど僕は、つないでいない手のひらにさびしさを感じていた。
由利ちゃんも、さびしいだろうかと考えた。お母さんがいなくなった由利ちゃんは、さびしいはずだった。
無意識のうちに、僕は彼女の手をつかんでいた。とぼとぼと歩く彼女を引いて、僕は歩いた。
心には、覚悟があった。由利ちゃんが元気になるまで、僕が由利ちゃんを引っ張っていくんだと、そう思った。
それからしばらくして、由利ちゃんは前のように元気になった。
僕を引っ張ってくれる由利ちゃんが、そこにいた。
由利ちゃんを引っ張るという僕の役目は終わって。僕は今日も明日も、自分が由利ちゃんと手をつないで帰るのだろうということを、疑いもしなかった。
由利ちゃんが、僕の手を振りほどいて駆けだす。
もっと、もっとと求めるように、僕は手を伸ばす。けれどその手が、由利ちゃんをつかまえることはなかった。
視線の先、気づけば由利ちゃんの隣には、僕ではない男が立っていた。
どうして、ねぇ、どうしてなの?童心に帰ったように、僕はなぜと繰り返す。
けれど由利ちゃんは――夏木は、僕のその疑問に答えることなく、隣に立つ板垣君に笑いかけ、二人で並んで歩き去っていく。
僕は一人、夏木たちを見送った。
雪が降っていた。
雨の次に嫌いな雪。僕と由利ちゃんの手を離させる、敵。
舞い散る雪が地面につもり、溶けて消える。けれど僕の心に積もった想いは、雪のように溶けて消えてしまうことはなかった。
視線の先、大通りの向こうに夏木が立っていた。吐く息が、イルミネーションの光を反射して煌めいていた。
雪に混じったその息は、空に昇って消えていく。代わりに、舞い散る雪が彼女の真っ白なコートに積もる。
気づけば視界が歪み、僕のすぐ前に夏木が――由利ちゃんが立っていた。まだ、板垣くんと出会っていない、小さな由利ちゃん。
彼女の視線に映りたくて、彼女が笑っている顔が見たくて、僕は面白可笑しく友人の話を語っていた。
ふと、視界の端で雪がぱらついていた。
『ホワイトクリスマスだね』
いつの間にかしっかりとコートを着込んでいた由利ちゃんが、空を見上げながらつぶやいた。
目を眇めて、彼女は語る。クリスマスの日の雪は、恋人たちへの祝福なのだと。
『——雪が積もった景色って、きれいでしょ?特にイルミネーションと一緒だと、本当に、すっごくきれいなの』
幸せそうに、幸せな光景を思い出すように、彼女は空を見上げながら告げる。その目は、空に広がる分厚い雲ではなく、幸福に満ちたどこかを見ていた。
何かを渇望するような、その顔が心に焼き付いていた。
彼女にとっての、幸せの象徴。けれどまるで、その幸せをもう二度と手に入れることはできないのだと、彼女はそう思っているように見えた。
僕が、僕が叶えてあげたい。彼女に、見せてあげたい。彼女と、一緒に見たい――
『いつか僕も見に行きたいな。雪の日のイルミネーション!』
幼い僕の声が告げた。
それはたぶん、なんてことないその場限りの言葉で。
けれど僕を見る彼女の目に熱が灯り、涙で淡く瞳がにじんだのを僕は見た。
それはきっと、確かな約束として、彼女の心に刻まれているのではないだろうか――
赤い手袋に包まれた自分の手が幼い夏木の手を握っている様子が、やけに強く存在を主張していた。
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