第40話 レイニー・アンホワイトデイ
子どもの頃、雨の日は「孤独の日」だと思っていた。
傘によって友人との距離が離れて、友人と肩がぶつかることも、手を握ることも、顔を突き合わせて話をすることもない。降りしきる雨音に話し声はかき消され、一列になって前や後ろを歩く友人とは会話を成立させることさえ難しい。
だから、雨の日は孤独だった。そして、雨が嫌いだった。
僕はつい先日まで、雨の日は孤独の日だと、そう心から思っていた。
二日前から降り続けていた雪が雨に変わる。寒波が過ぎ去って一気に気温が上がったせいで、雪は空を振ってくる間に雨に変わってしまう。
フードをかぶればよかった日々は終わり。軒下で雨に煙る街を見ながら、僕は鞄にしまっていた折り畳み傘を探す。長い傘を持ち歩くのは、いつしかなくなった。仕事柄歩き回るうえで、大きな傘は邪魔でしかなかった。何より、星のめぐりあわせか、僕はしょっちゅう傘を盗まれた。そうして途方に暮れ、午後になって降り出した雨空を睨むことがよくあった。
傘も嫌い、雨も嫌い。けれど、家に帰るためには歩き出さなければいけない。
職場の同僚たちが、次々と傘を開いて降りしきる雨の世界へと歩き出す。千鳥足の彼らは、既にかなりアルコールが入っていた。彼らは二次会。僕はここで解散。酒が飲めないけれどここまで付き合ったのだから、もう飲みニケーションは十分だろう。
黒や白の傘が開かれ、笑い合っていた彼らの距離が開く。やっぱり、雨の日は孤独の日。同僚たちと一人分かれて帰るうしろめたさのせいか、まるで僕と彼らが見えない透明の壁で隔たれているような気持ちになった。
僕は孤独の人。傘によって開く距離感だけで孤独を感じるような人肌の恋しい甘ったれ。
吐き出した息はまだ白い。雪が雨に変わる気温とはいえ、寒さは和らいだ程度で、まだまだ冬真っ盛り。
空に昇る息は、けれど雨に飲まれるように晴れの日以上に早く、ふっと大気に溶け込んでしまう。
そこには、大きな壁があった。
小さな折り畳み傘を開き、少し覚悟を決めて軒下から飛び出す。
雨の日は孤独。けれど、最近の雨の日は解放の日でもあった。
雨の中、僕は自由になる。息苦しさから解き放たれ、一人の世界へと入り込む。
雨という視界不良の世界、さらに傘によって距離が開いたそこで、僕はそっとマスクを外す。パンデミックから続く習慣は終わりを知らない。外では必ずマスク着用、身に着けていない者は白い目で見られる――それは、僕の妄想かもしれないけれど。
でも、雨の日、それも夜に限っては、そんな人目も遠くなり、どこかマスクを外してもいいような空気があるように感じていた。
顔が、解放感に包まれる。何度かハンカチでぬぐってはいたものの、やっぱりマスクをしていると息で蒸れる。
マスクを外せば、吹き抜ける湿り気を帯びた冷たい風が頬を撫で、僕の心に一陣の風を吹かす。
僕は自由だった。傘の範囲で隔てられた孤独の世界で、僕は自由になれていた。
解放感から、自然と鼻歌を歌っていた。雨音は、心を自由にする。僕のこの歌だって、きっと数メートル離れた相手には聞こえていない。
足取りは軽く、水たまりも気にはならなかった。振り続ける雨のお陰で、路面も凍結していない。明日が怖くはあるけれど、今日は転ぶ可能性も低く、足元に注意する必要性からも解き放たれて、僕は金曜の夜を謳歌していた。
まるで酔っ払いだと、自嘲めいた笑みが浮かぶ。アルコールが入っていないのにこの高揚というのは、それはそれで変な人だった。
「俊介くん?」
ふと、僕を呼ぶ声が聞こえた気がした。気のせいだと思った。
けれど僕は思わず鼻歌を止め、踏み出すのをやめる。
そっと、声のした方へと振り返る。
そこには、ベージュのコートを着た女性の姿がある。ワインレッドのパンプスが視界の端に映っていた。
視界を覆っていた傘を、ゆっくりと持ち上げる。傘に隠れていた女性の顔が、露わになる。
道行く人の怪訝そうな視線も、立ち尽くす邪魔な僕へと向けられるうるさい視線も、一瞬で気にならなくなった。
「……由利?」
もうずっと会っていなかった友人が、そこにいた。
彼女は、作り物めいた神秘的な、美しい人だった。白皙の肌に包まれた、深窓の令嬢のような人。幼い僕が彼女を見て恋に落ちたのは、至極当然のことだったかもしれない。幼稚園年少で彼女と出会ったその日、僕は恋を知った。まあ、当時はそれが恋だということはわからなくて、ただ彼女といると楽しくて、どうしてか気恥ずかしくて赤面するくらいだった。
小学校、中学校と日々を共にする中で、思いは大きくなるばかりだった。
けれど、思いを伝えることはなかった。できなかった。
僕の中にある彼女への想いが恋だと知った時は、あるいは恋だと受け入れて、前に進もうと決断した時には、彼女には恋人がいた。
しかも、彼女は付き合っているという男子生徒は、奇しくも僕と同じ響きの名前のシュンスケという人だった。
彼女の友人は皆、彼女に祝福の言葉を送った。その中で、僕はただ一人奈落に突き落とされたような気分だった。目の前が真っ暗になり、息苦しくて、心臓が張り裂けそうだった。どうして僕じゃないの――そんな醜い叫びが、喉元までせり上がって、遅まきながら気づいた。
僕は、彼女が好きだった。
成人式で顔を合わせた彼女は、既に中学時代の恋人とは別れていた。
僕は、やっぱりそこでも、彼女に何も言うことができなかった。
だって、僕と彼女は、いわゆる「幼馴染」だったから。
同じ保育園、小学校を共にしたグループとして、僕と彼女は固いつながりの中にあった。Lineのグループトークの場で、僕は多数に混じって彼女と気兼ねないやり取りができた。
それだけで、幸せだった。そんな些細な幸せが告白で崩れてしまうことが怖くて、僕は結局ずるずると初恋を引きずって、今日まで来ていた。
「久しぶり。元気だった?」
何の気負いもなく小さく手を振る彼女は、僕の友人、僕の幼馴染。その顔にはマスクはなく、うっすらと赤みを帯びているのは、お酒を飲んだからか、それともチークを入れているからか。
故郷のこの地で、彼女とばったり出くわすことを考えなかったわけではなかった。偶然の再会から始まるロマンスを夢想した。自然と再び会って話すような関係になって、親友のような間柄になり、自然と付き合うことを考え始める――思春期のような思いを夢想しながら、僕は無味乾燥の日々を送っていた。
何か、気の利いたことを――焦りが、言葉を消していく。
「うん、元気だったよ。夏木はどう?」
以前は平気で名前呼びをしていたのに、いつからか「ユリ」というたった二音が恥ずかしくて。僕は彼女を今回も名前で呼べなかった。夏木の顔が、わずかに曇る。他人行儀だっただろうか。いや、会話の入りとしてはおかしくないはず――
「名前で呼んでくれないの?さっきは由利って言ってくれたのに」
不思議そうに小首を傾げる夏木を前に、僕は音もなく口を開閉させることしかできなかった。分からない。どういう、意味だろうか。まさか彼女は僕に気があるんだろうか。いや、そんなはずがない。ただの友人としての何気ない一言のはず。
「由利って、呼んだ方がいい?」
自分でも感じるほど弱々しい声で、僕はそう尋ねていた。無性に頬が熱かった。きっと今、僕は恋する少年のように顔を真っ赤にさせているだろう。頬が熱いのは、寒い夜風のせいではなかった。
目を瞬かせる夏木は、唇に軽く指を添えながら考える。見慣れた夏木の癖を見て、僕はなぜだか自分が過去に舞い戻ったような気持ちでいた。
一度、彼女と共に、こうして雨の中を歩いた時があった。まだ幼稚園児の頃、自分が泣き虫で臆病な少年だった時。普段は手を握って前を歩いてくれる彼女が、雨だから、と出口のところで手を放し、傘を開いて先に外へと出た。あの時、手の中から消える温もりと、見送るばかりだった夏木の後ろ姿を見て感じた焦燥感が、勢いよく心の奥からあふれ出した。
「……そう、だね。由利でいいよ。私も、その呼ばれ方の方が好きかな」
あ、でも親しくない相手じゃないと、むしろぞわっとするよね――そんなことを言いながら、夏木は僕を促し、僕たちは駅へと続く同じ方向へと歩き出す。
童心に帰ったような面持ちだからか、僕は少し気負いながら、けれど自然と由利と名前を呼びながら、彼女と昔話をした。たくさんの失敗、恥ずかしい思い、協力して成し遂げた誇らしい思い出。
恥ずかしそうに笑みを浮かべる彼女の頬が赤いのは、気分が高揚しているからだろうか、それとも。
ころころと笑いながら、彼女は僕の話に合いの手を入れる。話ははずみ、あっという間に時が過ぎ去った。気づけば駅に着いていて、僕たちはそれぞれ傘を差し、染みついた動きでマスクをした。
彼女の顔が、隠れる。僕の顔も、隠れる。彼女の笑みが見えなくなった。夏木が、かつてはあまり声に出して笑うことのない人だったことを、思い出した。声に出すようになったのは、多分マスクのせいだろう。目尻の下がり具合などから、相手が笑っているかどうかくらい、ある程度親しい間柄なら意識せずともわかる。けれど初対面の相手であったら、それほど交流のない相手であったら、話は変わって来る。
社会の変化と共に、時間の流れと共に、夏木は少しずつ、僕の知らない女性になっていく。サラリーマン然とした研ぎ澄まされた夏木が、そこにいた。僕の知らない時間を重ねた彼女は、もう、僕が好きだったころの彼女ではない。けれどそこには、僕が知る時間の上に日々を積み重ねた、ますますきれいになった夏木がいたのだ。
閉じた傘を片手に、夏木が歩き出す。僕も無言のうちに後を追った。
もう夜も遅いからか、ホームにたどり着くと同時に滑り込んで来た電車の中はひどく空いていた。
夏木がまだ実家暮らしであれば、ここから四駅で彼女の家に着く。僕もまた、実家から出てはいたが同じ駅で降りる。隣り合って座り、無言の時間が続く。不思議と、苦痛ではなかった。できれば夏木も苦痛でなければいいけれど、と思いながら、けれどやっぱりどこか居心地の悪さを覚えつつ、僕たちは無言で時を過ごした。
アナウンスが、最寄り駅への到着を知らせる。二人同時に立ち上がって、電車を降りる。改札を通り抜け、傘を開き、夜の街へと進み出る。
僕たちは自然とマスクをとり、ふぅ、と同時に息を吐いた。
顔を見合わせ、そしてどちらからともなく笑いだす。ああ、好きだなと思った。夏木といるだけで、僕は幸せで心が満たされる。夏木の隣にいたい、一緒に笑っていたい、夏木と一緒に、幸せになりたい。
僕の望みは、分不相応だろうか。今のこの、遠慮のない友人関係が崩れる覚悟をして、一歩を踏み出すに足るものだろうか。
この、幸せな関係の終わり――それを思えば、臆病な僕はたった一言、わずかな一歩を踏み出すことはできなかった。
車内で途切れていた会話が戻る。幸福に満ちた時間が、過ぎていく。終わりが、近づいて来る。彼女の実家が、近づいて来る。
その終わりを予感したからか、それとも僕の絶望の空気を察してしまったからか、次第に僕たちの間の言葉数は減り、彼女の家の前に着くころには、無言になっていた。
「送ってくれてありがとう」
どこか気恥ずかしげに夏木が告げる。その笑みを見て、心臓が高鳴る。
言葉が、想いがせり上がる。二十年近く積み重ねて来た思いは、けれどその大きさと失うかもしれない関係を思って、口に出ることはなかった。
「……またね」
「うん、また」
かつての日々のように、僕は彼女に別れを告げる。彼女もまた、僕に別れを告げる。その笑みが、少し悲しげにゆがんでいた気がするのは、僕の気のせいだろうか。
夏木が、自宅の扉をくぐり、その向こうに姿を消す。暗かった家の中に、明かりがともる。
途端に雨音が僕の耳に届き始める。目の前、一歩踏み出してインターホンを鳴らせば会える夏木と僕の間を、雨が隔てる。それは、僕の心を覆う臆病という名の壁のようでもあった。
夏木に背を向けて、僕は歩き出す。
ふがいない自分が情けなくて、悔しくて。
関係の変化を恐れて二の足を踏む自分に、怒りさえ覚えていた。
気づけば僕は走り出し、閉じた折りたたみ傘を片手に、夜の街を走っていた。
傘からも、マスクからも解放されて。けれど、僕の心に巣食う初恋という病は、今日も僕を自由にはしてくれなかった。
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