第39話 幕間 祝福の日を待ち続けて

 人生には、絶望しかなかった。

 幸せな家庭の記憶は、もうほとんどなくて。

 特にお母さんが死んでからの日々は、最悪の一言だった。

 無気力に生きるお父さんは、いつしか私に暴力を振るうようになった。

 自分が追い回したせいで目の前でお母さんは死んでしまい、それを殺しだと考えた近隣の人の蔑みの視線に、お父さんは耐えられなかった。

 酒におぼれたお父さんはそのうちに仕事を首になって。朝から晩まで、お父さんがいるような日ができた。

 私は、逃げるしかなかった。けれど、逃げ場なんてなかった。ない、はずだった。

 それでも運命は私を救った。私に蜘蛛の糸を垂らした。私は醜く、彼が差し伸べる救いの手をがむしゃらにつかんだ。

 そうして私は、板垣くんと偽物の恋仲になった。


 手が、震えた。全身から恐怖がこみ上げ、吐き気を催し、体がずきずきと痛んだ。お父さんに殴られた傷が、うずいた。

 それは、俊介を相手にしても同じだった。

 好きだった。だけど、怖くて仕方がなかった。

 続く暴行と、痛みと、憎しみの視線にさらされ続け、私はいつしか、お父さんだけでなく男の人が怖くて仕方がなくなっていた。

 けれどただ一人――正確には、二人、例外がいた。一人は板垣くん。自分の命を危険にさらしてまで私を助けてくれた彼に恐怖することはなかった。そしてもう一人は、板垣くんの弟、航大くんだった。

 私は、板垣くんの手をつかんだ。

 男の人を前にすると頭が真っ白になるような状況だった私を、板垣くんは少しずつ癒してくれた。

 彼が私のことをどう思っているか、私にはわからない。けれど多分、言葉通り「親友」であって、好きではないと思う。私だって、こんな面倒な女と付き合おうと思う人がいるとは思えない。男の人を前にするとパニックに陥るような人間と、どうして付き合おうと思うだろうか。

 けれど板垣くんは友人として、私を支えてくれた。何の対価も要求せず、私を守ってくれた。男性恐怖症に陥った私を、少しずつ回復させてくれた。


 中学二年の冬。私は友人たちに板垣くんと恋仲になったと告げた。それは、板垣くんのアドバイスあってのことだった。

 それなりに美人らしい私は、異性から告白されることが少なくなかった。けれど当時の私にとって、異性と面と向かって話すのは恐怖でしかなかった。そんな状況から私を守るために、板垣くんは偽の恋人関係を提案した。

 私は、彼の提案を受け入れ、板垣くんとの関係を告げた。

 ひどい女だと思う。板垣くんの厚意に縋って、私は彼を傷つけている。板垣くんにだって、幸せになる権利があるのだ。こんな醜い女と付き合っているという情報をばら撒かれた彼はもう、中学では恋人なんて出来やしない。彼の人生に汚名を作ってしまった私には、罪悪感しかなかった。

 罪悪感と言えば、もう一つ。

 私は、俊介に面と向き合って「告白」することになった。板垣くんと、付き合っていると。

 私は、きちんと笑えていただろうか。幸せな恋人関係のふりを、できていただろうか。心の中で、私は板垣くんに救われた喜びと、彼への感謝の念を呼び起こしていた。

 きっと、笑えたはずだ。

 けれど、俊介は笑えていなかった。何とか取り繕ったように唇を引き上げ、泣いたように、彼は笑っていた。

 頬を伝う涙を幻視した。

 そこで、私は気づいた。気づいてしまった。

 俊介が、私のことを好きなことを。

 気のせいだと言い聞かせて、けれど心はその気づきに歓喜していた。

 ごめんなさい。傷つけてごめんなさい。ひどい女でごめんなさい。

 けれど、ダメだった。俊介を前にしても、体がじくじくと痛んだ。心が恐怖していた。異性――お父さんと同じ男であるというだけで、俊介すら、私は受け入れられなくなっていた。

 けれど、心は叫ぶ。やっぱり、俊介が好きだと。

 私のことを名前で呼んでくれなくなった俊介の言葉に、心を痛めた。

 夏木なんて、そんな他人行儀に呼ばないでよ、俊介……


 ああ、私は醜い女だ。ひどい女だ。

 こんな私なんて忘れて、俊介には前を向いて生きて行って欲しい。


 中学校生活が終わり、私は県外の女子高へと進学した。寮に入ることで、私はお父さんから解放された。成績によって、学費は免除。奨学金も得た。さらに、片親である上にお父さんが無職であるということを理由に、特例でバイトも許された。

 勉強とバイトに明け暮れる日々だったけれど、私の高校生活は充実していた。

 なにしろ、私はあの痛みと苦痛と恐怖しか感じられなかった家から、解放されたのだから。

 長期休暇でも家に帰ることはなかった。寮が閉まってしまう冬休みには、厚意に甘えて板垣くんの家に泊まった。

 実の姉と関わるように甘えてくる夢ちゃんや航大くんと関わりながら、私はゆっくりと心の傷を癒した。このころになると、板垣くんのお父さんに遭遇しても、恐怖することはなかった。


 高校一年生の冬、冬期休暇で私は生まれ育った街に帰って来た。

 その日は、雪が降っていた。

 12月24日、火曜日。

 私たちの街へと続く電車へと乗り換えようとしていた私に、一本の電話が届いた。迎えに来てくれると約束していた、板垣くんからの電話だった。

 謝罪を受け入れた私は、続く言葉に息を飲んだ。

 俊介が目の前にいると、板垣くんは話していた。

 私は気づけば「会いたい」と口にしていた。

 俊介に、会いたかった。会って話をしたかった。昔のように、気負いなく話をしたかった。

 私は板垣くんに俊介の足止めを頼み、乗り換える電車を変更した。

 雪のせいで、電車は中々やってこなかった。焦りばかりが心に広がった。早く、早く来て。俊介が、待っているの――私の心の中には、板垣くんはいなかった。

 何とか電車に乗って向かった先、駅から少し行った先にある喫茶店には、俊介の姿はなかった。

 申し訳なさそうにうなだれる板垣君を前に、私は絶望に暮れていた。

 俊介は、私と会わないことを選んだのだ。それはそうだ。仮に好きな相手が目の前で別の人とお付き合いしているなどと告げれば、ひどい絶望に打ちひしがれるだろう。そんな悪魔めいたことを、私は俊介にしてしまったのだ。

 今更ながら、ひどい後悔が押し寄せた。けれど、もうどうしようもなかった。

 俊介が、離れていく。私は、板垣君に謝った。

 その声に、けれど怨むような響きを感じたのは、きっと気のせいではなかった。

 こんなにも私のために行動してくれている親友を、私は怨んだ。私はやっぱり、ろくでもない人間だった。


 高校二年の冬。私は、相変わらず板垣くんの家にお邪魔していた。家に帰る気はなかった。けれど他に行く当てもなく、私は相変わらず板垣くんの厚意に甘えていた。

『ねぇ、どうしてお姉ちゃんはお兄ちゃんのこと、名前で呼ばないの?』

 そう尋ねられて、私は夢ちゃんに返事をすることができなかった。

 だって、シュンスケというのは、私にとって特別な名前だったから。それは恩人である板垣くんの名前ではあるけれど、私にとってはいつだって、初恋の人の名前だったから。

 雪村俊介。私の、昔からの友人。

 その名を呼べば、私は彼のことを思い出してしまう。私が板垣くんと付き合っていると告げた際の、彼の絶望の顔を、思い出してしまう。

 その時には板垣くんが言いつくろってくれたけれど、夢ちゃんの中には、隠し切れない不信感が生まれてしまった。

 だって、私と板垣くんは、およそ高校生らしくない健全な付き合いをしていたから。親友という関係からすればそれほどおかしくないかもしれないけれど、間違っても異性関係ではなかった。

 そこから、私と板垣くんは少しずつ距離をとるようになった。板垣くんの提案で、私たちはゆっくりと関係の解消を始めた。


 そうして高校三年生の夏、私は板垣くんと別れた。私たちは嘘を解消し、けれど親友として関りは続いた。

 板垣くんの家に行くことは、なくなった。

 裏切り者――そんな夢ちゃんの視線を受けるあの場所は、私にとって安息の地ではなくなっていた。


 お父さんが死んだのは、私が二十歳になった翌日だった。まるで私の成人を見届けるようだなんていう感傷めいた言葉を、首を振って追い払う。

 私はそうして、自由になった。

 男性に恐怖することもなくなり、家は安息の地となった。だから、進路に、実家に帰って地元で就職するという選択肢が生まれた。

 大学に通う私は、全てから解放され、そうして一人になった。


 静かに、時が過ぎていった。心安らぐ日々だった。けれど気づけば、寂寥が私の心を満たしていた。

 板垣くんとはたまに会って話をしていたけれど、私の心はいつだって、ただ一人を求めていた。

 トーク画面を睨みながら私は彼の言葉を待ち続けた。幼稚園から続く仲良しグループでのトークの中、彼が発言をするたびに心に火が灯った。

 私はまだ彼のことが好きで、けれど私から好きだと言い出すことができるはずがなかった。

 私は、彼を裏切った。親友の厚意に甘え、前を向くため、恐怖症解消のためと言い聞かせて、彼を傷つけた。

 こんな私が、これ以上関係を進めるわけにはいかなかった。

 何より、もう彼は私に会いたくなんてないだろうから。


 大学二年生の冬。私は振袖を纏い、懐かしい母校へと向かった。

 成人式のその日、私は絶えず視線を動かし、彼の姿を探していた。

 そうして私は、俊介に再会した。

 スーツ姿、ぴっちりと髪を整えた彼を見て、心が弾んだ。

 彼は、昔の面影を残しながら、けれどどこか隠れ潜むような雰囲気を纏っていた。

 二言三言と言葉を交わしながら、気づいた。俊介が、まるで拒絶するように私との間に心の壁を作っていることを。

 彼はそうして、私の前から去って行って。

『ほら、由利。板垣くんが来ているよ』

 目ざとく板垣くんを見つけた友人が、私に話しかけて来た。

 やめて、もう、やめて。私の古傷をえぐらないで。

 真帆がとりなしてくれるのを聞きながら、私は人波の中に消えていく俊介の背中を目で追い続けた。

 ごめんなさい、ごめんなさい――何度も心の中で謝った。

 けれど、私たちの関係はもう、戻ることはない。

 彼は一人、過去の全てを置き去りにするように、歩き去っていった。


 大学三年生。文系学部に進学していた私は、就活に励んでいた。忙しさの中で、けれどふと私の心は俊介の後姿を思い出していた。彼をおいていくように新しい道へと踏み出そうとしている私が、ひどく醜い存在に思えて仕方がなかった。

 未来には、何の希望も見えなかった。

 それでも就職先は決まった。ひと心地着いていた私は、真帆から連絡を貰い、彼女に会いに行った。

 中学の友人。部活で切磋琢磨した仲間は、研究を選んで大学に残ることを選択していた。

 たわいもない話の中、ふと彼女の口から俊介の話が出た。

 大学にて俊介を目にしたのだと、真帆が告げて。私は乗り出すようにテーブルに手を突いた。

 気づけば私は、真帆に頼み込んでいた。どうにかして、俊介と会えないかと。

 いつからかはわからないけれど私の想いに気づいていたらしい真帆は、すぐに約束してくれた。

 俊介に、彼が乗り換えで寄る駅、その駅前にあるイルミネーションに来てもらうことになった。

 イルミネーション。それは私にとって、幸せの象徴だった。幼い頃両親と三人で見た、雪が降る中でのイルミネーションは、今でも私の記憶の中にしっかりと残っていた。


 12月24日。奇しくもその日は雪が降った。

 私は大学にもいかず、朝から指定した駅前に続くイルミネーション広場を歩き、彼の姿を探し続けた。昼も外が見えるガラス張りの喫茶店で済まし、雑踏の中から彼を見つけようと目を凝らした。

 気づけば夕暮れになり、夜が来て。

 私はふと、反対車線にいる一人の男性の姿を目に留めた。

 俊介――

 車が走り去り、私の視界から彼の姿を隠した。

 次の瞬間には、その人物は私に背を向け、駅の方へと足早に歩き去っていた。

 やっぱり彼は、もう私のことが嫌いになってしまったのだろうか。それはそうだろう。こんな女に惚れる理由が分からない。

 けれど、私の心は彼を求め続けていた。

 その目に、私を映してほしい。名前を呼んでほしい。

 恋する乙女のように、私は彼を待ち続ける。

 いつまでも、いつまでも、心に灯るこの火が、消えるその時まで。





 その日、夢を見た。

 夢の世界で、私はぬくもりに包まれていた。

 体を包み込むその腕は、大きく、それでいて柔らかい。

 最初は板垣くんの腕かと申し訳なさと羞恥を感じて。

 そのうちに、違うと気づいた。

 腕が大きいのではなくて、私の体が、小さかった。

 小さな私は、誰かに抱かれていた。

 揺れるカーテンの動きにシンクロするように、ゆっくりと顔を上げて。

 その時、カーテンを大きく揺らす風が吹き込み、レースなしに差し込んだ光が世界に満ちた。

 ちらつくのは、網戸さえ開け放たれた窓から入ってきた雪。

 私は、彼女の顔を見るのも忘れて、雪へと手を伸ばした。

 その、まばゆい冬の光の中、女の人がくすりと笑う声が聞こえた。

『ねぇ、由利。雪が降るクリスマスは、ホワイトクリスマスというの。その雪は、恋人たちへの神様からの祝福なのよ』

 だから、雪を手にしたあなたには、きっと幸せが待っているわね――女性が、お母さんが、私の額に、自分の額を合わせる。

 視界いっぱいに映った彼女の顔には、幸福だけがあった。

 優しげなその笑みへと手を伸ばして――私の夢は、そこで終わった。

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