12-2

 月明かりを遮って立つジルの瞳が、薄闇に光っている気がした。

 マントも剣も下げていない。緩くシャツを着ているだけの無防備な姿だった。


「すまないな。こんな遅くに」

「いえ、あの、何かございましたか……?」

「……いや、用ってこともないんだが……ちょっと眠れなくてな。風に当たろうと思って屋根に上がったところだった」


 ジルの声が途切れて、部屋に沈黙が落ちた。


 眠れない、とは、やはり明日のことが、気にかかっているのだろうか。

 ジルの背負うものを思えば、仕方ないようにも思う。


「あと、アウラに言っておきたいこともあったし」


 顔を上げれば、穏やかな笑みを浮かべるジルの姿があった。

 こうして改めて向き合うと、なぜかいたたまれないような気がする。


「メイには、釘を刺されたけどな。――アウラはもっと、自分を大事にして欲しい」


 ジルの指が、剥き出しの首に触れた。そこには、ジルの爪でつけられた傷がある。

 とうに痛みはなく、うっすらと瘡蓋になっているだけで、全然大したことはない。むしろ、アウラ自身で掻きむしった喉元の爪痕の方が痛むぐらいだ。


「生きていてもいいと、認められたような気がする……だったか」


 そっと触れる、ジルの手は優しい。


「俺がこんなことを言っても、響かないかもしれないけどな。……アウラ、生きるのに、誰かの許可なんて必要ないと、俺は思う。誰かの役に立つために、生きてるわけじゃない。アウラの命はアウラのものだ。生きたいと思うなら、望むなら、その気持ちひとつで十分だ。生きていていいなんて、誰かに思って貰わなくてもいいんだよ。許可なんて、なくていい」


 ゆっくりと、言い聞かせるように、ジルの言葉が沁みるように降ってくる。


「望まれて生きたいのはわかる。俺だって同じだ。アウラが言ってくれたろう。死んではいけないと。泣きたくなるほど嬉しかった。そういう言葉が欲しいときだってある」


 首から、ジルの手が頬に移動する。


「初めて会ったあの夜、連れて行ってと、そう言っただろ。生きたいと思ったからだろう。思って良いんだ。確かに、一人で生きるのは難しい。俺もたくさんの人に助けられて、そのおかげで生かされて、どうにか生きてる。でも、それとこれとは話は別だ。たくさん助けられてるけど、それでもこの命は俺のもので、他の誰にもやるつもりはない」


 くしゃりと、ジルの顔が歪んだ気がした。すぐに俯いて、見えなくなってしまったけれど。


「生きたい。そう思うことは、恥じゃない」


 最後の方は、不安を煽るような、消え入るような声だった。


「……っていう、説教臭いことを言いに来たのと。あと、男が部屋に入れてくれと言ってきても、簡単に入れるな」

「……え、あの」

「無防備すぎる。勘違いする」


 ではどうすれば良かったのか、と困惑するアウラに、ジルが畳みかける。


「アウラは美人で優しいから、もっと気を付けた方がいい」

「ええと……?」

「こうやって、勝手に触る奴にも気を付けろ。簡単に触らせるな。せめて許可を得てから、とか、そういう……」


 そう言いながら、ジルの片手は貼り付いたようにアウラの頬に添えられている。


「あの、ジル様なら、構いませんが……」

「……すぐ、そういうことを言う……」


 ジルの声が、どこか恨みがましいものになった気がした。


「俺みたいなやつは、そういうことを言われると、すぐ調子にのるんだ。抱き締めてもいいか、みたいな、そういうこと言い出すから」

「どうぞ」

「もちろんいやだったら断っていいし、いや、そうだよな嫌だよな。ごめん調子にのっ……え」

「え?」

「……いい?」


 戸惑いながらも無言でうなずくと、しばらくジルも無言になった。


 沈黙の末、ジルがおそるおそる腕を伸ばしてきた。

 抱き寄せられて、抱き締められた。

 アウラの肩に、頭を押し付けられる。黒くてつやつやの耳が頬に触れた。


 どちらのものとも言えず、ほっと息を吐く。

 温かい。いっそこのまま、溶けてしまえたらいいのにと、そう思えるぐらいの安心感がある。

 

 ジルの匂いがする。


 頭を摺り寄せられて、柔らかい毛に包まれた耳が頬をくすぐる。

 思わずその耳に触れると、ジルの全身がびくりと跳ねた。


「……っ」

「ごめんなさい。つい」


 慌てて離した手首が、ジルに掴まれる。そのまま頭に戻された。

 再び触れたジルの耳は、すべすべでとても手触りが良い。 


「いい……アウラなら、触ってもいい。……撫でて」


 甘えるような声で言われて、なんだかものすごい恥ずかしいことをしているような気がしてきた。

 それでも、その極上の手触りには勝てない。あっさりと誘惑に負けて触れる。温かくて、つやつやしている。


「もっと」


 肩口でふふ、と笑うジルの声がくすぐったい。


「オレの毛並み……どう?」

「気持ちいい、です」

「ふふ。そうだろ。実は結構自慢の毛並みだ」


 肩に押し付けられた顔は見えないけど、ジルの顔が幸せそうに、うっとりと微笑んでいるような気がした。


 脚に、触れる何かに気付く。

 ジルの手触りが良さそうな、黒くて細長い尻尾だ。


「……あの……尻尾は、触ったらだめですか……?」


 ジルが、ぴたりと息を詰めた気がした。


「あの」

「……尻尾は、だめです」


 返答はなぜか妙に丁寧な口調だった。


「いや、本当はだめじゃないんだけど……今は、だめ。……でも、本当は……アウラならいいよ。どこでも全部触っていい」

「いえ……尻尾だけで……」


 言いかけたアウラの脚に、ジルの尻尾が触れる。アウラからは触ってはいけないけど、ジルからは触れてくるらしい。

 すりすりと甘えるように撫でられて、悪い気はしない。


「……よし。名残惜しいけど、堪能した。……アウラ、会えて良かった。二日前も、今も」

「……わたくしも、です」


 解放されて、物足りない気持ちになった。それでも、ジルの嬉しそうな表情に、アウラも嬉しくなった。

 再び、ジルの手が伸びてきて、両手で顔を挟まれた。ジルの顔が、近付いてくる。

 頬に、柔らかくて温かいものが触れた。


「今度こそ、調子にのった。でも、許して。それと、ありがとう。元気出た。――おやすみ。良い夢を」


 ジルはそう言い残して、入ってきた時と同じように、素早く窓から出ていった。


 部屋に一人取り残されて、アウラは月明かり照らされた自分の両手を見下ろし、頬に触れる。

 夢なんて、見られそうもなかった。

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