9-3

 窓枠にぶら下がっているのか、逆さで、にこやかな笑顔だけを見せている人物がいる。


「おまえ、なん、何やって……」


 口ぶりから察するにどうやらジルにとっては知己のようだ。

 言葉にならないほど慌てるジルに、その人物がニコニコと物凄い笑顔を作りながら軽やかに身をひるがえし、その場に着地した。


 身軽な様子で危なげもないが、もちろん窓ガラスの向こう側で……足場は、あるのだろうか。そもそもここは何階だろう。窓の外には空しか見えていないので、地上階ではなさそうだが。


 その人物は慣れた様子で窓を開けようとして、施錠されていることに気付いたらしい。ジルとアウラが眺めている中で、カチャカチャと窓の辺りから音がした。

 ほどなくして、あっけなく、窓が勢いよく開いた。


「こんなところからお邪魔します!」


 開いた窓と同じぐらいの勢いで元気よく入ってきたのは、ジルやアウラと同年代と思われる、貴族の若者といった風体の男性である。

 若草色のフロックコートを着用し、明るい茶色の毛に、ところどころが焦茶色をした猫の耳。愛嬌を感じさせる笑顔が印象的だ。


「ごめんごめんうっかり邪魔しちゃった。ぼくのことはいないものとして扱ってくれていいからさ。さ、ほらほらいいから続けて続けて。傍にいてくれると、俺がなに? 続きは? 愛の告白でしょ、そうなんでしょ。いやいいねいいね。今さらだけど青春だね。ほらジル、どーんといっちゃって」

「は!? 何言ってんだお前!?」

「やっだー、照れちゃってかーわいーい」

「かわっ……!」


 顔を上気させたジルの横をするりと抜けて、その人物はベッドで横になっているアウラの傍らにしゃがみ込んだ。


「えーっと、アウラさま、じゃちょっと堅苦しいな。アウラちゃん、って呼んでもいいですか? あ、それと敬語もやめていいです?」

「え、あ、はい……え……?」

「初対面でご婦人の枕元とかちょっとありえないぐらい不調法だけど、主人がこれだからさ。まあこの状況だし。許してね」


 えへ、と笑う顔は朗らかで嫌味が無いのに、なぜかものすごい押しの強さを感じる。


「そっかそっかうんうん。いいね。なんかこう、儚げな感じの美人さんだね。戸惑ってるのかわいいしね。かわいいねアウラちゃん」

「え、は、あ、あの」


 何を言われているのかまるで理解できなかった。

 ぽかんとしてしまいながらも、何か言わなければと焦る。しかし焦ったところでどんな言葉も具体的な形にはできなかった。


「改めまして、ぼくはメイリスと申します。シャノワ王国の宮廷、というよりジルベルト王子に個人的に仕えてるって感じかな。情報収集とか諜報活動とかそういう感じのことを主に任されてます。メイとかメイくんとかメイさんとか気安く呼んでね。よろしく。――で、アウラちゃんはどういう身分の娘さんかな?」


 ニコニコとしながら尋ねられたが、なんだろう、圧が強い。


「あ、はい。わたくしこそ、このような状態で失礼いたします。わたくしはオルディナリ王国の……王太子妃で」

「人妻っ!?」

「え?」


 言った途端、メイが上げた驚きの声に、アウラとそしてジルも揃って驚いた。


 人妻。いや、確かにそうだ。間違っていない。

 法の下ではアウラは確かに夫がいる身分である。確かに。確かにそうだが、なんでか今まで自分が人妻という認識はなかったかもしれない。


「ジルジルジルジルちょっと待ちなって。ようやく君にも春が来たかーとおにいさんちょっと嬉しくなったけど、それはよくないぞ。それはいくらなんでもちょっと落ち着きなって。レオンの馬鹿はなんで止めなかったかな。よく聞きなよ、ジルベルトくん。いくら童貞拗らせてても人のものに手を出しちゃいけませんって、ご両親にもちゃんと教えられたでしょ。人妻とか、いきなり危うい性癖止めなさい」

「へ? いや待て。まてまてまてまて、なんか誤解が」

「やった? もうやっちゃったの?」

「やっ……!?」

「あ、まだか。まだ手は出してないのね。っていうか、そもそもジルってそういう知識ちゃんとある?」

「ちょ、ま、なん」

「まあそこは確かに抜けてたね。このぼくの落ち度だ。今度ちゃんと講義しようね。おしべとめしべの話からしよっか。それにやっぱ正式な手順は必要だしね、おっけおっけ、ちょっくら出かけてきてオルディナリの王太子ぶっ殺してくればいいんでしょ。そうしたらアウラちゃんも人妻じゃなくなって、ジルもハッピー。手ぇ出し放題。ついでにラヴェンディアのカスも殺してきたらいいよねそれでオールハッピーだ!」


 ぱんぱかぱーん! と言いながら両手を天井に向かって突き出したメイの、何もない背景に紙吹雪が舞った気がした。


「メイリス……」

「あ、レオンだ。姫様も、相変わらずのバカっプルー、久しぶりー、五日ブリー」


 呆れたような声が聴こえて三人の視線が一斉に部屋の入口に向く。そこには胡乱な目でメイを見るレオンと、その背後に困った表情で佇むマリエルがいた。


「朝っぱらから騒々しいと思い来てみれば……これまでにも、何度も言っていますが、あるじで遊ぶのは止めなさい。それと、戻ったのは喜ばしいですが、玄関から入りなさい。施錠しているところを勝手に開けるのも駄目です。そもそも二階の窓からご婦人の寝室に踏み込むとは、どういう了見ですか」


 レオンの言葉に、メイは少しも悪びれない態度でけらけらと笑った。


「はいはい。死にかけても口煩いのは変わらずかあ。あ、もう朝食の時間?」

「……そうです」


 言っても無駄と思っているのか、軽くあしらわれたレオンはそれ以上の苦言を呈することなく溜息を吐く。

 両手で顔を覆って佇むジルを放って、メイは悠々とした足取りで部屋を横切っていった。


「じゃあ、ついでだから作戦会議かな。やっと全員揃ったんだし」


 その言葉に、ジルとレオンが揃って口を開きかけたが、それより早く、すれ違いざまのメイがレオンの肩をぽんと叩き、外を示した。


「セラ、庭に落ちてるからさ。回収してきてよ」

「え?」

「ここに来る途中に落ちてたから拾ってきた。あのかわいい顔に傷拵えてる以外は別に怪我はなさそう。でも、魔力切れ起こして動けないでいるから」


 目を見開いた面々を置き去りにしてそのまま去っていったと思ったメイだったが、再度ひょっこりと顔を出す。


「アウラちゃん、これから色々あると思うけどさ、仲良くしてね」


 その言葉を最後まで聞くことなく、レオンとジルが慌てて、風のように去っていった。

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