9 奇跡のような最良の幸福
9-1
懐かしい夢を見た気がする。
ぼんやりとしながらも目を覚ましたアウラの視線の先に、見慣れない天井が広がっていた。明るい色の広くて高い天井は、霞がかった陽の光に照らされている。
夜明けのようには見える。一体いつの夜明けだろう。
立派なお屋敷の一室に見えるここは、一体どこなのだろう。
見知らぬ天井を見る目覚めが、立て続けに起こっている気がした。
最近はこんなことばかりだ。
見慣れない場所に困惑したのはわずかな間で、すぐに目まぐるしい記憶が押し寄せてくる。
二日前まではオルディナリ王国の後宮にいたはずなのに、もう遠い昔のように思える。
アウラの記憶では丸一日が過ぎた程度で、その一日が今までのどんな日より濃密だった。
思い出したことはあるが、まだ曖昧な部分もあるような気がする。なんだか頭がぐらぐらする。昨日がどんな終わり方だったのか、その辺りが曖昧だ。
確か、神官長だというあの人の襲撃を受けて、ジルに抱えられて、影の森を走って……そして、どうしたんだったろう。
頭に霞がかかったように、うまく思考できない。ついでに身体が重い。
この感覚には覚えがある。体内の魔力が足りていないのだ。
考え続けながら、首が動く範囲で辺りの様子を伺う。
視界の中で、黒いつやつやの毛並みをした三角の耳がぴくぴくと動いていることに気付いた。
その姿に、なにもかもどうでもいいと思えるほどの安堵を覚えた。
その姿さえあれば、わからないことだらけの現状でも、焦る気持ちはどこかに消えてしまう。
アウラが寝ているベッドの横、一人掛けの椅子に深く腰掛けたジルは、ひじ掛けにひじをつき、その手に顔を乗せて規則正しい寝息を立てている。
アウラが身じろぎ一つでもすれば、すぐに起きてしまうような気がする。
成り行きでジルの寝顔を見つめているような状態になってしまうが、そんな都合の悪い事実には目を瞑ることにした。あと少しだけでいい。現実から目を背けていたい。
「ん……」
そんな不埒なことを思っていたからだろうか、ジルが吐息交じりの声を漏らし、閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がった。
現れた金色の瞳が、ぼんやりと自身の膝の辺りを眺め、そして視線が少しだけ上を向いた。
そこには、ベッドに横になったまま、顔だけをジルに向けその寝顔を眺めていたアウラがいる。
「……お、はよう」
そのままの姿勢で、ジルがぎこちなく言った。それから慌てたように自分の口元に手をやり拭う。
「おはよう、ございます」
「……いや、うん。すまん。いつの間にか寝ていたな……あ、もちろん寝顔を眺めていたとかそういうことではなくてだな。ちょっとだけ、見たけど。ちょっとだけ……あ、いや、他意はなくて……」
なにやらごにょごにょと聞き取り辛いことを言ったジルが、照れ隠しのような咳払いの後で、椅子の上で身を乗り出した。
「ええと、具合はどうだ? 苦しいとか、だるいとか、なんかあるか? 痛いところは?」
「大丈夫です。問題はありませんから。度々面倒をおかけしてしまって、申し訳ありません」
横になったまま答える。
少しの間があった。
「……起きられそうか?」
言葉に詰まったその無言が、ジルにとっては回答だったようだ。
「大丈夫じゃないじゃないか! そういうのは隠すな!」
ジルの声に驚いて首を竦めると、ジルがばつの悪そうな顔をして口を噤んだ。
アウラとしては、そう悲観するような状況ではない。ただの魔力切れだ。
極限まで魔力を使うと、こういうことが起こる。今は神経が切断されてしまったかのように感覚がなく動かない四肢も、しばらく経てば元に戻るだろう。
そんなことを考えている間に、色々と思い出してきた。
そう、自分がなぜ魔力切れを起こしているのか、とか。
「……あの、レオン様は」
むしろこの程度で済んでよかったのではないかと思う。
あんな風に自分の中の魔力を根こそぎに近いだけ使い、それでもたった一晩で意識が戻っているのだから。
「あ、うん。……違うな。すまん、間違えた。レオンは無事だ。アウラのおかげで一命を取り留めた。ここは、まず礼を言うべきだな。すまない。怒鳴って悪かった。レオンを、助けて貰った。ありがとう。感謝してもしきれない。……ええと、その状態は、魔力切れのようなこと、で合ってるか?」
「はい。少し休めば問題ありません。あの、わたくしは、ちゃんと治療できたのでしょうか……?」
「ああ、まったく問題ない。右の手首が千切れかけてたが、それもちゃんとくっついてる。騎士としても、生き延びた。アウラのおかげだ」
ジルが、困ったように微笑む。
「無理をさせてしまった。本当に悪かった。散々巻き込んだ挙句、あんな……とっさに思い付いたのが、アウラのことで……。情けないことに、気が動転した。セラが言っていた、魔法を使うなとは、きっとこういうことだったんだな」
その視線が、気まずそうにアウラの首へと向かい、同時に、黒い耳がぺたんと垂れた。
「なにからなにまで……その、ずっと気になってはいたんだが……首の傷は……痛む、だろうか……。本当に、申し訳ないことをしたと……いや、ぐだぐだと言うのは見苦しいな。ごめんなさい」
素直にそう言って潔く頭を下げた。ジルの耳が、アウラの言葉を待ってかぴくぴくと動いている。
「この傷は」
アウラが口を開けば、ジルが恐る恐るといった体で頭を上げた。
「本当に、なんでもありません。気になさらないでください。本当に、大丈夫ですから。あまり気にされる方が、心苦しく思います」
自然と、笑顔をつくれている気がした。
ジルの事情や身の上を思えば、あまりはしゃぐのは良くないことだと思う。
でも、言葉が溢れてくる。
ジルがいて、話を聞いてくれることが、話をしてくれることも、何もかもが嬉しい。
「レオン様のことも、わたくしのことはいいのです。頼っていただけたことが、お役に立てたことが、何よりも嬉しいのですから」
とっさにアウラのことを思い付いた、そう言ってくれたジルの言葉が嬉しかった。
今は、とても晴れやかな気分でいる。
例えずっとこのままでも、もし死んでしまっていたとしても、きっと後悔なんてしなかっただろう。
誰かの役に立てた。必要としてもらえた。名前を呼んでもらえた。人と一緒に食事もできた。
そんなこと、絶対にあり得ないと思っていた。
まるで、奇跡のようだ。
奇跡の中で終われるなら、例えそれが人生の終わりでも、幸福なことではないだろうか。
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