7-2

 まだここは影の森である。ほんの少し開けた場所で脚を止めたジルの緊張が、アウラにも伝わってくる。


 周囲は人の背丈ほど高い草木に覆われている。

 ジルの黒い耳がピンと立っていた。辺りを警戒しているのを感じる。アウラを抱いたまま、右手が腰の剣を抜いた。


 やがてアウラの耳にも、ガサガサと木々を揺らす音が聴こえてきた。


「ジル様。わたくしのことは置いて、行ってください」


 ジルは逃げなければいけない。セラや、レオンのためにも。

 この状況になってしまっては、アウラはただの荷物だ。置いて逃げて欲しい。すぐに。


 アウラがこの後どんな終わりを迎えることになっても、絶対にジルを恨んだりしない。

 アウラが囮になれるかはわからないが、それでも、できる限りのことをする。


 放してほしいともがくも、むしろジルの腕はアウラをきつく抱えたまま放そうとしてくれなかった。


「ジル様、お願いですから」

「……マリ……?」


 ジルが呟いて、なぜか構えていた剣先を下げた。


「お兄さま!」


 直後、予想に反した、甲高い声が聴こえてきた。

 木々の隙間を縫い、飛び出してきた人影に驚いて息を呑むも、そこに覚悟していた敵意はない。


 飛び出してきたのは、可愛らしい少女だ。アウラとそう変わらない年頃に見える。


 柔らかそうなクリーム色のふわふわの髪に、同じ毛色の三角の耳。ドレスが似合いそうな華奢な身体には、ウエストコートに動きやすそうなブリーチズを合わせている。

 腰に細い剣を佩いているその姿は、男装のようであり、同時にそうは見えない。


「マリエル!?」


 その姿を見て、ジルは虚をつかれたような声を上げた。


 息を切らせ抱き着くように飛びついた少女は、その間にも視線を何かを探すように視線を巡らせる。一瞬、表情を泣きそうに歪ませながらも、ひとつ、大きく息を吐き、気丈に顔を上げ、ジルと目を合わせた。


「レオンの隊も一緒です! わたくしは、間に合いましたか!?」


 その言葉を裏付けるように、周囲に次々と兵士たちが現れた。その姿に、少女の言葉に、ジルが息を呑む。

 すぐにアウラをその場に降ろし、声を上げた。


「五人この場に留まり、マリエルとこの娘を守れ。残りはすぐに引き返す! マリ、彼女はアウラだ! 頼んだ!」


 口を挟む間も、何かを考える間もなかった。怒涛のように、だが人数にそぐわない静けさを伴い、ジルの後を追い兵たちが駆けて行った。


「……アウラ、さま?」


 へたり込んだアウラの傍らに立ったのは、マリエルと呼ばれた少女。

 アウラを見下ろすその視線が、頭部と、側頭部を確認するように移動するのがわかった。アウラが獣人を見る時と同じだ。


 大きく息を吐き、すっかりほつれてしまった髪を掻き分ける。彼女とは違う、人間の耳を見せた。


「はい。アウラと申します」


 近付いてきた兵士たちが、息を呑んだ気配を感じる。

 見上げると、マリエルという少女は少し戸惑う様子を見せた。それでもひとつ深呼吸をして、アウラの前に膝を着く。


「はじめまして、アウラさま。わたくしは、マリエルと申します」


 視線の高さを合わせ、にっこりと微笑んだ。どこか強張った表情で、それでもにこやかに対応しようという意思が伺える。

 とても、可愛らしい少女だ。


「……ジル様の」

「はい。ジルは、わたくしの兄です」


 兄と妹。毛色も異なるし、容貌についてはあまり似ている感じはしない。

 それでも、纏う空気なのだろうか。ジルもマリエルも、優しい。見ず知らずのアウラにも、示される気遣いがある。そんなところが似ているような気がする。


「ゆっくりとお話ししたいところですが、とにかく今は、一緒に来ていただきたいの。先程お兄様が抱き上げていたけれど、どこかお怪我をされていますか?」


 その視線が、アウラの首元に巻かれた布に向けられたのがわかった。


「い、いえ。ただ、わたくしが自分の足で移動しては、ジル様たちの足を引っ張ってしまうので、お手を煩わせていただけで……」

「ああ、そう、そういうことなのですね。ええ、ごめんなさい、気が回らなくて。ではアウラ様、兵が触れることを許していただけますか」


 ぎこちなく微笑んで、マリエルはアウラの手を取った。

 それは、人間であるアウラに対し、主人が自ら触れることで、何かを示すためなのかもしれない。


 アウラの承諾を受けて、マリエルが兵の一人に頷いた。アウラを抱え上げる兵の手付きは、ジルに比べややぎこちない。見知らぬ女を警戒してか、それともその見知らぬ女が人間だからだろうか。

 それでも彼は職務に忠実に、アウラを恭しく抱き上げた。


「ひとまず、お兄様を追いかけましょう。戦闘中かもしれないので、慎重にね」


 魔女と蔑まれることがなくとも陰気と称される、そんな自分とは違い、きっと皆に愛され慕われている少女に違いない。

 マリエルはアウラと違い、自分の足で足場の悪い森の中でも進んでいくことができるらしい。

 一行は固まりとなって、慎重に進んでいった。


 ものすごい早さで駆け抜けていったジルたちが、どれほど遠くへ行ったかはわからない。霧が立ち込める深い森の中は、風に煽られる草木がさざめき、思いのほか騒々しい。

 アウラでは、彼らの気配を感じることはできない。それでも迷いなく進むマリエルたちには、何か頼るものがあるのだろう。


 ふいに騎士の一人が何かに気付いたように進行方向の、その先へと視線を向けた。その兵士の様子に気付いたマリエルもまた、視線を向ける。


「王子殿下が」

「お兄さま?」


 マリエルと兵士が不思議そうに呟いて、アウラを見る。

 残りの面々も同じように、アウラを不思議そうに注視する。その耳がぴくぴくと動いている。アウラには聞こえない何かが、彼らの耳には聞こえているらしい。


「アウラ様を、呼んで……?」


 マリエルの呟く声に、アウラもまた首を傾げた。


 そんなことあるだろうか。こんな誰がどこに潜んでいるかもわからない森の中で。足音すら殺して歩いているのに、声を上げる、そのリスクをジルが考えないことなんてあり得ない。

 よりによって、アウラを呼ぶ、そんなことをする理由が――


 アウラは思わず、自分を抱えている兵士の襟を掴んだ。


「行って! 早く行ってください! ジル様の元へ、早く!」


 アウラの声に、明らかに全員が戸惑った。

 考える時間など惜しい。全てを簡潔に伝える方法がある。アウラは、その方法を、言葉を、迷いなく口にした。


「わたくしは魔法士です!」


 アウラが呼ばれる理由なんて、それ以外にない。

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