6-3

 ジルは、ただぼんやりとそこに立ったままだった。

 実際にはほんの僅かな間だったのかもしれないが、動こうとはしない。あるいは、動けなかったのかもしれない。

 その心の内を示すかのように、黒い尻尾と耳が悄然と項垂れているように見える。


「くそ、あの野郎……ぽんぽん人のこと吹っ飛ばしやがって」


 途中で帽子を拾ったセラが、悪態をつきながら戻ってきた。とりあえず一見酷い怪我はないように見える。白いローブは地面を転げたせいで汚れているし、頬から流れた血があちこちに付着して、痛々しくはあるけれど。

 セラは帽子に付いた汚れを叩きながら、倒れているレオンを足先で小突いた。


「おい、レオン。いつまでも寝てんな。生きてんだろ」

「…………なんとか。……まったく、これだから魔法士は」


 小突かれたレオンはすぐに目を開けた。むくりと身体を起こしたレオンが剣を拾い上げる。

 その様子を見るに、レオンも大事はなさそうだ。


「神官長があんなに戦い慣れしてるのはおかしいでしょう……」

「ぼやくなよ。気持ちはわかるけどよ。前任の神官長はよぼよぼの爺さんだったしな」

「まああのご老人も、お若い頃は相当無茶をしていたと伺ってますけどね」

「何十年前の話だよ、それ。いや、死にかけ爺さんの話はいい。そんなことよりあいつだ。で? どう思った? やれそうか?」


 帽子を再びかぶったセラが前を向いたまま、レオンに聞く。レオンは話しながら刀身を確認し、二本の剣を鞘に収めた。


「そうですね……。動きが速すぎる、と弱音を吐きたい気持ちもありますが……魔法さえどうにかできるなら。――やります」

「わかった。じゃあ次はオレがきっちり奴を抑える。あのお人形みたいな頭、斬り落としてやろうぜ」


 二人の心が折れていないことが頼もしいと思った。次もまた挑もうとする二人の様子に複雑な思いはあれど、とりあえずよかった、とアウラはこっそり胸を撫でおろす。

 視線を合わせず拳を打ち合わせた二人は、棒立ちになっているジルに視線をやった。


「そういうわけだ、ジル。切り替えて次いくぞ。なんか囲まれてるしな。今度はなんなんだよ」

「今のところ遠巻きで様子見でしょうかね。正面切って相手をするには少々骨の折れる数かと。雑兵と呼べる者達なら良いのですが」

「魔法士も居そうだな」


 ラヴェンディアと妃殿下が去ったばかりだと言うのに、もう次の危険が迫っているらしい。

 ラヴェンディアが去り際に言っていた「お土産」というものなのかもしれない。

 狩りは好きかと聞いていた気がする。狩られる立場は初めてかもしれないけど、とも。這いつくばって、泥水を啜れと。


 酷い言葉をたくさん聞いたように思う。

 あの人は、とことんまでジルを追い詰める気のようだ。


 レオンとセラは、あえて明るく話しているように思えた。


「……よっぽど、俺たちに死んでほしいらしいな。……ああ、いや、俺だけか。死んでほしいのは……」


 答えたジルの声は、今にも消え入りそうなぐらいか細い。誰に聞かせるでもない、独白だったのかもしれない。

 言った直後、まるで自分の言葉にさらに傷付いたのだと、そう言わんばかりの沈黙が落ちた。

 それこそが、折れそうなジルの心情を吐露したものなのだろう。


 ジルのその言葉に、一瞬だけ視線を見合わせたレオンとセラ、両者に名状しがたい表情が浮かび上がった気がする。


 そして、レオンの目が、ジルの背後で困惑するしかないアウラを捉えた。


「アウラ様、あなたも来てください。我らの国へ」

「…………は? いや、待て。ちょっと待て」


 目を瞬かせるアウラをより先に、焦った声を上げたのはジルだった。


「こんなところに置いていくわけにはいきません。ならば、連れて行くしかないでしょう」

「だから安全なところへ」

「他の誰でもないあなたが、彼女を連れ出してきたのですから。責任を取らねばなりません」

「それはそうだが、いや、待ってくれ。なんで急にそんな話になるんだ」


 立ち上がったジルが、レオンの両腕を掴んだ。


 レオンの言葉が聴こえていないはずはないだろうに。セラは口を挟んではこない。ただ腕を組んで成り行きを見守っている。


「私は、ただの情でここにいるわけではありません。確かにあなたとは兄弟同然に育ち、親しくさせていただいておりますが、そういうことではないのです」

「……今は、そんなことを」

「ジルベルト殿下。我が、君」


 その声音に、使用された尊称に、ジルが口を噤み、一歩下がった。

 そんなジルを正面から見据えるレオンの顔に、笑みはない。


「次の王に戴くのがあなただと思えばこそ、私はここにいます。私はシャノワ王国の騎士。この剣と命を、祖国へと捧げる覚悟があります。あなたが次の王であるからこそ、あなたのためならば、この身を惜しむことはありません。ですがあなたには、まだ私たちの命を賭ける覚悟が、ないご様子」

「それは」

「殿下、あなたはお優しい方です。甘いと言わざるをえないほど。平時であれば、ただ好ましいと思える気性であらせられる。ですが、今は違います。ですから私は、そのあなたの甘さにつけ込みます。ことが終われば、どのようなそしりも甘んじて受けましょう。私は妃殿下を、王に代わるものと見做すことはできない。ですから、たとえそれが私たちのことを思ってだとしても、投降など認めるわけには参りません。何を犠牲にしても、あなたを失うわけにはいかない」


 レオンは一度だけ、ちらりとアウラに視線をやった。


「あなたが投げ出せば、アウラ様を庇護する者はいなくなります。私はあなたのめいがなければ、この人間を守る気はありません」

「レオン。待て。待ってくれ。アウラは関係ない」

「ええ。関係ありません。ですがだからこそ、あなたは彼女を見捨てることができない。どうか馬鹿なことを考えるのはお止めください」


 レオンの言葉に、ジルが途方に暮れた顔をして、震える拳を強く握りしめた。

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