5 麗しの神官長

5-1

 床が、地面が揺れたような気がした。思わず両手で耳を塞ぎ、目を瞑る。


 騒ぎが収まったように思えて恐る恐る顔を上げると、真っ黒な服を着た身体がアウラに覆い被さっていた。

 アウラを守ってくれたのはジルだ。見上げたジルの顔は、天井を見上げていた。

 いや、さっきまではあったはずの天井を、だ。


 床の至る所に、細かい木片が大量に散らばっており、ところどころに柱や板の残骸が混じっている。


 周囲が明るい。

 先ほどまでは確実にあったはずの天井がなくなり、空が見えている。遮るもののなくなった室内に陽が差し込んでいた。


「――別に死んでくれても構わなかったんだけどね。しぶとい」


 甘い。

 くすくすと笑う、甘く響く美しい声が上から降ってきた。


 アウラの位置からでは、ジルの肩に遮られて全景は見えない。

 しかしジルの視線の先に、誰かがいる。その姿は見えないが、天井があったその場所に、先程の甘い声の主がいるのだ。


 ジルの前に立っていたセラが、掲げていた腕を払うように下げた。

 視界がクリアになったように感じられる。見上げる青い空の色が鮮明になった。どうやら薄い膜のような何かが、アウラたち四人を覆い、守ったらしい。弾け飛び、崩れ落ちた、天井から。


「ラヴェンディア……!」


 ジルが吐き捨てるように呟いた。

 アウラを守るように立ち上がったジルは、抜剣こそしていないものの、油断なく腰の剣に手を置いている。


「ごきげんよう。僕のことは神官長様、と呼んでくれたまえ。元王子とはいえ、王を弑すような忌まわしいものに名を呼ばれたくはないからね」


 元、王子。


 明らかにされたその素性に、驚きよりも、納得が勝った。


「ほざけ道化が! 風よ裂け!」

「セラまて!」


 ジルの静止を無視したセラが叫び、突き出した掌の前に、緑に光る魔法陣が浮かぶのが見えた。

 上の方で、破裂するような音が上がる。


 大きなものが、ふわりとアウラの視線の先に降りてきた。

 天井の残骸である木片か散らばる床の上、体重を感じさせない挙動で、その人物は優雅に降り立つ。

 神官長、あるいはラヴェンディアと呼ばれた人物は、魔法による攻撃に晒されたとは思えない、どんな乱れもない、優美な姿をしていた。


 その姿に、アウラは息を呑んだ。


 部屋を視線で一撫でしたその人は、アウラの姿を認め、一瞬目を瞠ったようにも思えた。

 僅かに眇めた瞳から読み取れる感情は、アウラにはわからない。


 荒れた狭い部屋の空気を一変させるほどの、性別や年齢を超越した圧倒的な美しさがある。

 飾り立てた漆黒の豪奢な神官服と、頭部を覆う揃いの帽子。抜けるように白い肌に、芸術品のような美貌。まるで絵画から抜け出たような、匂い経つ美しさを備え、魅惑的に弧を描く唇は、官能的と思えるような笑みを浮かべている。


 帽子から覗く艶やかな髪はグレーがかった美しい銀の色。そこから覗く、本来左目のある部分には、宝石で飾った眼帯をしている。

 残された右目は、凍て付くように冷え切って、醸す空気を酷薄なものにしていた。


 ラヴェンディアは傷一つない滑らかな顔を傾けて、どこか小馬鹿にしたように、ジルに微笑みかけた。


「飼ってる兎ちゃんの躾ぐらいしておきたまえ。無断で主人の前には出るな、とね」


 盛大な舌打ちをしたセラには一瞥すらくれず、くすりと嘲笑う。 


「やはり、思った通りだ。神官に、騎士団長の子息。あとは、君の傍をよくうろついていた野良猫君、といったところかな。オトモダチと仲が良いのは微笑ましいことだけれど、まったく、嘆かわしい限りだ。まともに状況を見極めることすらできない無能共が、こうまで多いとはね。シャノワ王国の未来が危ぶまれてならない。ねえ? そうは、思わない?」


 歌うよう紡がれる柔らかな声音。だが、その言葉の端々には、隠そうともしていない毒が感じられた。

 長い睫毛に縁取られた切れ長の右目を眇め、ジルだけを見て笑みを深める。まるで他の者は眼中にないのだと、言わんばかりだ。


「元、王子殿下? もっとも、君が最も度し難く、始末に負えないほどの愚か者ではあるけれど。ふふ、ばかなことを考えたものだよね。そんなにも、顧みられないことが不満だったのかな? 実の父を、殺してしまいたくなるぐらい?」


 その笑みを受けて、ジルが手にしていた剣をラヴェンディアに向けた。

 セラの様子に比べれば、いくらか冷静に見える態度だが、剣を握る手には力が籠ったのがアウラには見えてしまった。


「うんざりするほど何度も言ったが、そんなことに不満なんて抱いてないし、父上を殺そうともしていない」

「何度も言ったけど、もう認めてしまいなさい。目撃証言もあるんだしね?」

「だから! それはどこのどいつだよ!?」


 噛みつくように声を荒げたセラの周囲に、緑色に光る魔法陣が多数浮かび上がった。


「ジル、もういい! さっさと殺そう。会話なんて無駄だ!」


 ラヴェンディアが溜息を吐き、首を横に振った。ようやく、その視線がセラを一瞥し、無造作に上げた片手を軽く振った。

 セラの周囲の魔法陣が、跡形もなく全て、霧散して消えていく。


 ラヴェンディアの目は、やはり少しも笑っていない。でも、その口元はまだ、一応微笑んではいる。


「あまり煩わしいことはしないでおくれ。苛立ってうっかり殺してしまいたくなってしまう。下の者が許しもなく人の会話に口を挟むものじゃないしね。ほんと、躾がなってないなあ。躾もなってないし、力量も足りてない。無駄だよ。君程度の魔法じゃ僕をどうすることもできない。そんなこともわからないか? ゴミめ」


 最後の一言こそが、掛け値なしの本音なのだろう。アウラすらもがそうとわかる、ラヴェンディアは、そんな目をしている。


 セラの歯噛みする音が聴こえたような気がした。そのセラの肩に片手を置いたジルが、腰の剣を抜き一歩前に出た。


「言葉に気を付けろ、ラヴェンディア。城を出た時点で、既に覚悟は決めている」


 腕を伸ばし、剣の切っ先を真っ直ぐにラヴェンディアの心臓に向けた。

 ジルの動きに合わせ、レオンが双剣を抜いたのが見えた。


「へえ? 城を抜け出し、卑しい逃亡者にまで身を落とした時点で、ということかな? 今に至るも王族のつもりで命令する君が、一体どんな悲壮な覚悟を?」

「無論、お前と、敵対する覚悟だ!」


 ジルが吠え、床を蹴る。


 それと同時に、ラヴェンディアの背が大きく膨らんだ。


 いや、膨らんだ、と思ったのは一瞬だ。

 それは、グレーがかった美しい銀の色をした、大きな両翼だった。

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