4 固いパンの味

4-1

 意識の浮上と共に目を開けると、視界の先にあったのは見慣れない木板の天井だった。

 窓から差す陽に照らされ、ずいぶんと明るい。


 ぼんやりと霞みがかった頭で、ここはどこだろうと考える。

 何も思いつかないまま、何か物音を聞いた気がしてそちらを向けば、部屋の中にいた見覚えのない人物と目が合った。


「おはようございます。ご気分はいかがですか?」


 落ち着いた口調で尋ねてきた人物は恐らく初めて見る男性で、その頭上には猫のような耳がある。

 思わずその耳に視線をやってしまったアウラは、獣人だ、という認識と共に、これまでに起きたことを思い出した。ここがオルディナリ王国の、後宮ではないことも。


 獣人であるこの人も、おそらくジルやセラの仲間、なのだろう。昏倒する前にはいなかったが。


 その獣人の男性の獣の耳は、濃い灰色。緩く癖のある髪と同じ毛色をしている。背後で揺れている尻尾も同じ色だが、尻尾は先端だけが白い色だ。


 まだ青年と呼べそうな年齢ではありそうだが、アウラよりは年嵩なのだろう。

 ジルに比べるとしっかりした体格で背は高く、ジルと同じ様な雰囲気の軽装備に腰の左右に剣を佩いている。

 穏やかな様子で、敵意や悪意のようなものは感じられない気がした。


「獣人は、初めてですか?」


 嫌味のない笑顔に、身体を起こしたアウラは恐る恐る首を横に振った。


「……以前に、一度だけ。……鳥の方に、お会いしたことがあります」

「そうでしたか。種族の違いに対する物珍しさはお互い様でしょうが、我々獣人は、あなた方人間に比べて気配や視線に敏いと思ってください。場合によっては不躾と思われることもありますし、良からぬ勘違いをされることもあります」

「も、申し訳……っ」

「私は気にしませんが、覚えておいて損はないかと思います。特にあなたのようなお嬢さんは」


 その人物は気を悪くした様子もなく、穏やかな雰囲気のまま水の入ったカップを差し出してきた。


「誤解しないでくださいね。苦言ではなく、ただのお節介です。よろしければお水をどうぞ」


 差し出されたコップを受け取ると、男性はベッドの横に小さな木の椅子を持って来て座る。

 せっかく受け取った水だと思い一口飲めば、アウラの中で滓のように溜まっている良くないものが、ほんの一部だけでも流されていくような心地がした。


「あなたが倒れたのは昨晩、一晩経過してちょうど朝になったところです。ジルさまがベッドに運び、首の傷の手当ては私がさせていただきました。それ以外は誓って、指一本触れておりません」


 言われて首に手をやれば、布が巻いてある。あくまで浅く皮膚を裂かれた程度の傷で、そもそもアウラが近付いたから、ジルは自らを守ろうとしただけだ。

 しかしどうやらその点でも、煩わせてしまったようだ。


「それと、銀環は今ここにはありませんので、ご心配なさいませんよう」


 そう言われてほんの少し、心臓が跳ねたような気がした。

 まだ中身の入っていたコップをさりげなく取り上げながら、男性はアウラに視線を合わせた。


「私はレオンと申します。ジルさまの従者のようなものと思ってください。ジルさまとセラの二人は食料の調達に出ています。もうそろそろ戻る頃かと」


 アウラと視線の高さを同じくし話しかけてくる。その視線は穏やかで、しかしどこか探るようでもある。得体の知れない人間の女だから、だろう。


「そのままで結構ですから、少しだけ話をさせてください。アウラ様、倒れる前のことは覚えておられますか? ジルさまが、あなたを連れて、オルディナリ王国の城からここに転移してきたことは?」


 尋ねられて、記憶が鮮明に呼び起こされる。

 見上げた青白い月。黒い耳と、金の双眸。アウラを抱えて、バルコニーから飛び降りた、猫の獣人、ジル。


 頷いて見せれば、レオンもひとつ頷いた。


「本来であればこのようなむさくるしい場所にお連れして良い方でないことは重々承知しております。それについてはどうかご容赦を。ここは、大陸の西と東を隔てる影の森に隣接した村、その外れに位置しています。オルディナリ王国の領内ではありますが、あなたがいた王都は遠く離れています。さすがにこちらの素性が知れるような痕跡を残すミスはしていないでしょうから、あなたに対してすぐに追手がかかる心配はないと思います」


 座ったままではあったが、丁寧な対応をされ心苦しさを覚えた。

 迷惑をかけ通しなのはアウラの方で、そんな風に礼を尽くされる謂れもないのに。


「あなたがジルさまを助けてくださったことは聞き及んでおります。そのご恩に報いたいという、あるじの気持ちも聞いております」


 これ以上気遣われても、正直なところアウラの方が辛くなってくる。そんな必要はない、と首を横に振るアウラを、しかしレオンが手で制した。


「私が、あなたをご希望される場所へと送り届けます。我々にも事情がございますので、申し訳ありませんが、向かう方角だけでも定めた上で早々に出発したいと考えています。あなたの事情を鑑みれば、他国へと向かうのがよろしいかと」


 たたみ掛けるように言われて、困惑してしまった。

 何も考えていないことなどとっくに知られているかもしれないが、これから考えるにせよ、考えるための材料がアウラには圧倒的に足りていない。

 希望の場所などと言われても、咄嗟には浮かばない。行きたい場所など考えたこともない。


 ただ後宮で漫然と過ごし、いつか朽ち果てるのを待つだけだと思っていた。


 でも、後宮を出て寄る辺を持たない身になった以上、今までのように漫然と暮らしてはいけないだろう。

 生きるのに必要なものがあることはわかる。

 だが、それはなんだろうか。住むところに、食べるもの。他にどんなものが必要なのだろう。それらは何をすれば得ることができるのだろうか。


 半ば夢を見ているような気分でここまで来てしまった。でも、ここから先のアウラを待つのは、紛れもない現実である。


「頼れる方や、心当たり、もし行ってみたい国があれば、それもよろしいかと思いますが」


 何もない。何もないのに、勢いに任せて連れ出して欲しいなどということを口走ってしまった。


 今さらその無鉄砲さを自省したところで得るはないし、恥じ入ったところでそれすら何にもならない。途方に暮れる、という正にそんな状態だ。


 穏やかに微笑みアウラの返答を待つレオンのその笑みが、今にも変貌しそうな気がして、恐ろしい気がした。

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