2-3

 ジルは僅かに項垂れ自らの頭を掻いた。


「ほれ見ろ、なんかめんどくせえ女じゃねえか」

「セラうるさい」


 再び顔を上げたジルは、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。


「なんとなく、事情はわかった。なんかすまん。だがこれ以上詮索する気はない。互いに、踏み込まない方が良さそうな気がするし」


 これまでの会話で、ジルが奴隷や見世物の類ではないことはなんとなく察せられた。なんらかの目的があって、オルディナリの城に侵入したのだということも。

 なんにせよ、アウラのような役に立たない者が介入すべきことではない。


「俺はあんたに救われ、その礼としてあんたの頼みに応え城から連れ出した。命を助けた礼としては不足と思うかもしれないが、獣人の俺が人間の王太子妃を連れ出すというリスクについて、加味してくれると助かる。今後会うことはないだろう。俺たちのことは口外せず、できれば忘れてくれ」

「はい」


 少し寂しい気もするが、そんな寂しさを感じること自体、アウラにとっては贅沢なことだ。


 息が詰まり、心を殺して過ごす場所から連れ出して貰えた。避けようのない罪人として裁かれる未来から。

 それを思えばこれ以上を望むことはできない。

 アウラがすべきことは、これから死ぬまでの間、助けられたという事実を忘れず、感謝を心の中で捧げ続けることぐらいだろう。


「ありが――」

「と、言いたいところではあるんだが」


 アウラの感謝に、ジルが言葉をかぶせてきた。


「おい」


 セラが再び声を上げ、ジルが振り返る。


「さすがにここに置き去りはないだろ」

「お人好しも大概にしろ!」

「だってお前、命を救われたんだぞ? かなり深い傷だったからな。アウラの魔法がなければ本当に危なかった」


 確かに、アウラはジルを助けたのかもしれない。治癒の魔法を使い、彼が負った傷を癒した。

 でも、きっと、アウラがただ何かをしたかっただけなのだ。

 それにもう、既にその礼は十分受け取っている。アウラは生きて、ここにいるのだから。

 これ以上のものを与えられても、アウラには返せるものなんてない。


「どこまで軽率だったら気が済むんだよ!?」

「もう決めた。何を言っても無駄だぞ。それに、俺の命はそんなに安いものではないだろ」


 ジルの言い分に、セラが忌々し気に口を噤んでしまった。

 強固な意思を示すジルの言葉に、アウラは途方に暮れるしかない。どう言えば、ジルにこれ以上は過分な心遣いだと分かってもらえるのだろうか。


「とはいえ、どこか落ち着ける場所に送り届ける程度しかできんが。あ、そうだ、これ」


 困惑するアウラをよそに、ジルが腰のベルトに付いているバッグを探った。


「……っ」


 ジルが取り出したそれに、アウラの心臓が音を立てる。


 幅の太い銀の環。宝石の類いは無く、彫金による細かい文字と文様が全面を覆う。

 遠目に見ればただの銀環のそれは、とある魔術が施された魔術具である。


「なあセラ、これで合ってるだろ? オルディナリ王国所蔵の魔封じの銀環。これが一番それっぽかった」

「合ってる! 合ってるから、剥き出しで持ったまま近付くんじゃねえよ!」

「宝物庫までは簡単に忍び込めたんだけどな。ほとんどお前が起こした騒ぎに気を取られて見張りも手薄だったし。人間は夜目が利かなくて不便だよな。楽勝過ぎて、人間の宝物庫荒らし、っていう生き方もありなんじゃないかと思ったぐらいだ」

「ありなわけあるか立場考えろバカ!」

「本気じゃないって。ただなー、宝物庫から出ようとしたところで、いきなり何かに切り裂かれたんだよ。周囲には誰もいなかったし、飛び道具らしきものも見えなかったし、なんの気配もなかったから避けきれなかったんだ。魔法の類いだと思うんだが」

「情報源考えれば普通に罠だ。気付けバカ」

「やっぱりか」

「まあその首輪自体は本物っぽいけどな。オレに近付けんなって言ってんだろぶち殺すぞ」

「え、近付けるだけでだめなのか?」

「だめだ! 持ったままこっち来んな!」

「えー……ん? おい、大丈夫か? アウラ?」


「はい」


 条件反射的に返答はできた。しかし身体が拒否反応を示し、腰が浮いた。まろぶように後退る。


「え? アウラも?」

「魔法士には近付けんな。メイも止めとけよ。あいつ相手なら本当に殺されるぞ。せめて仕舞っとけ、なんのためにそれ用のバッグ用意したと思ってんだ」


 アウラの様子に驚いた様子を見せながらも、気遣わし気にするジルが、手に持つ銀環。すぐにベルトのバッグに仕舞われたが、一度認識してしまったら、もう駄目だった。


 オルディナリ王国の城から盗み出してきたという、その首枷が、こわい。


 逃げるように足が動いてしまったアウラに、ジルは足を止め空になった両手をひらりと振った。


「もう仕舞った。持ってない……けど、だめか」


 返答は、声にならなかった。


 怖い。苦しい。

 この息苦しさは、過去の記憶だろうか。錯覚だろうか。


 魔法士の声を封じ、体内を巡る魔力を停滞させる、魔法を封じるための魔術具。オルディナリ王国の王家が所蔵している、魔封じの銀環。

 魔法士を忌み嫌う王国の、アウラにとっては、その象徴たるもの。


 言葉を封じ、本来巡るべき魔力の流れを停滞させる。

 身体の奥底に溜め込まれていく、鉛のように重く冷えて固まった魔力が時を重ねるごとに蓄積され、肉体にまで影響を及ぼして、やがて満足に動くことすらままならなくなった。

 あの、辛い日々を思い出す。


 あれから二年以上経つ。それに魔封じの銀環を付けていたのはたったの半月だけだ。

 でも、もうあんな、苦しい思いはしたくない。もう二度と。あれだけは。


 いや、今のアウラの首には何もない。銀環はない。大丈夫。


 確かめるために触れた首には、何もない。それでも不安で、たまらず爪を立てる。


 痛みがある。剥き出しの首だから、だから、触れることができる。


 あの時は、苦しくて、掻き毟り続けたことで爪が割れて顎と胸元が傷だらけで、いつも血が滲んでいた。

 それでもどうすることもできなくて、声にならない悲鳴を上げた。


 でも、それを聞き届けてくれる誰かなんていなかった。

 終わりの見えない苦痛と、孤独と、絶望で、いっそ死んでしまいたいと思った。


 呼吸が、息が、できない。

 思考が混濁していく。


「アウラ」


 嫌だ。

 もうやめて。


 枷なんてなくても、もう二度と、喋ったりしないから。


「おまえ……」


 ジルが、何を言おうとしたのかわからないまま、アウラの意識はそこで途切れた。

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