2-2

 誰かを名前で呼ぶのは、いつぶりかも分からない。遥か昔、母国にいた幼い頃、乳母を呼んでいたのが最後のような気がする。


「ついでにあっちはあんたと同じ、魔法士のセラだ」


 ジルの紹介に視線を向ければ、魔法士だというセラからは無言で鋭い一瞥を寄こされた。


 おそらく、セラの名は口にすべきではないのだろう。

 アウラの存在自体が許せないのかもしれないし、同じ魔法士、というくだりがさらに気に障ったような気もする。


 実際アウラは魔法士と名乗るのもおこがましい程度の者だが、そんな言い訳を聞かされても余計に不愉快な思いをさせてしまうかもしれない。

 申し訳ございません、と胸中で呟いて目を伏せる。


「で、あんたは?」


 何を聞かれているのかわからなくて、瞬きをするアウラにジルが笑みを零した。


「名は? なんて呼べばいい?」

「……アウラと、もうします」


 呼ぶ必要があるのだろうか。

 そんな疑問が浮かんだ。


 最後に呼ばれたのはいつだったろう。母国に居た時だろうが、罵倒や叱責のためにしか呼ばれなかった気がする。

 そういえば、誰かに名を尋ねられて、名乗ることも初めだ。


「アウラ」


 悄然と項垂れていると、名を、呼ばれた気がした。

 間違いかと思いながらも視線を上げれば、金色の瞳と目が合った。ジルが、アウラを見て、名前を呼んだらしい。


「アウラ、は……妃、でいいのか? あの場所はオルディナリ王国の後宮だろ。あいつ、妻って言ってたよな」


 目が合えば、ジルは照れたようにはにかんで、笑顔を作った。明るい金の瞳は、まるで陽の光のようだ。


 誰もがアウラを蔑む王宮ではなく、息が詰まるような後宮でもない場所で、人の温もりに触れ、役に立って感謝されて、誰かの名前を呼び、そして名前を呼ばれた。


「アウラ?」


 再度名を呼ばれて我に返る。ぼんやりとしていたアウラの顔を、気遣うような表情のジルが覗き込んでいた。


 距離が、近い。

 慣れない距離感に、頬に熱が集まってきた。なんだろう、この言い様のない落ち着かない気持ちは。


「は、はい! ええ。一応……王太子妃の位をいただいております。……おりました」

「は!? 王太子妃!? 正気かジルてめえ、なに連れて来てやがる!」


 今度は、先程よりも上手く声が出せた気がする。

 なんとか平静を装い答えれば、腕を組みむっつりと黙っていたセラが声を上げた。


「セラうるさい。……では、あんたの夫、あれは、オルディナリの王太子で、間違いないな?」


 それを改めて確認されると、少し困る。

 状況的には間違いなかった気はする。あの時先頭に立ち、王太子妃の私室に踏み込んできた人物は王太子なのだと思う。

 薄っすらとした記憶だが、あの顔に見覚えもある。

 だが、確信をもって「間違いありません」と断言する根拠は見付けられない。


「おそらく」

「……おそらく?」


 正直に曖昧な答えを返せば、ジルは不可解そうに首を傾げた。


「……お恥ずかしながら、これまできちんと、顔を合わせたことはございませんでしたので。ただ、見覚えはあるように思いましたし、あの……口ぶりからも、間違いはないかと思います」


 それを聞いたジルは何かを考えて、結局うまく呑み込めなかったらしい。とても不可解そうな顔をしたまま背後を振り返った。


「なあセラ、人間と俺らの結婚って、なんか違うもんなんだっけ?」

「オレに聞くな、知るかよ」


 間髪入れずに答えたセラも、なんだか微妙な表情を浮かべている。

 ただ、アウラと目があった瞬間、その表情はとても不愉快そうなものに変わった。視線など合わせてしまって、申し訳ない。


 可能な限り人に遭遇しないように、万一遭遇してしまっても視線を合わせないように、これまでは気を付けていたのに。

 どうも調子が狂う。もっと気を付けなければ。

 余計なことを言わないように、余計なことをしないように、不愉快な思いをさせないように、煩わせないように、過不足の無い会話をしなければ。


 やがてくるであろう、呆れるような溜息や叱責が恐ろしい。罵倒や、詰る声が怖い。


「わたくしは、一応魔法士と呼べなくもない、者ですので……オルディナリでは……その、良く思われていない方も、多くいらっしゃったようです。その、王太子殿下も、含めて」


 良く思われていない、というのは我ながら控えめな表現ではある。

 オルディナリ王国の人々にとって魔法士は、ただそこにいるだけで周囲に不幸を振り撒き、災厄をもたらす存在だと思われていた。

 人によっては、ただ姿を目にしただけで悲鳴を上げるほどの疎まれ方だった。


「オルディナリの魔法士嫌いは東側にも伝わってるぐらい有名だ。自分らだって魔力があるから生きてられるってのに、滑稽な話だがな。どこまで本当かは知らんが、魔法士はなぶり者にした挙句火炙りにするんだとよ。それなのに、魔法士のあんたが王太子妃ってのは? その口ぶりだと生まれは他国だな?」


「西ででかい魔法大国があったな。確か……ええと……」


 セラが述べた内容に、ジルが記憶を呼び起こそうと頭を捻った。


 魔法士を火炙り、はさすがに誇張がされている。

 少なくとも現代の話ではないだろう。アウラが知る限りでは。


 だが、アウラが嫁いだ国は、他国ではそういう噂が流布されているような国だ。

 禁忌を犯し呪法士と呼ばれる魔法士の成れの果て、そんなものですらないただの魔法士が、蛇蝎の如く嫌われる国。

 アウラの母国はそうと知りながら、それでもアウラを王太子妃として嫁がせた。


「思い出した。マギアだ」


 そう、アウラはマギア王国に君臨する、王の実子である。

 大陸の北西に位置する大国マギア。多くの魔法士を抱えた魔法大国とも呼ばれる。


「はい。生まれはマギア王国です」


 彼の国を評し、不遜なる悪魔の国、と言ったのは、オルディナリ王国の者だった。


 悪魔の国からやって来た、悪い魔女。

 それが、アウラに与えられた呼び名である。

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