2 黒猫の獣人
2-1
気が付けば、屋内だった。
兵が騒ぐような気配も、頬を撫でる風もなく、辺りは静かだ。
一瞬前まで、バルコニーから身を投げ空中にいたはずで、しかしどうやら後宮どころか城という雰囲気でもない。
木目の壁に囲まれた部屋は簡素な造りで、調度品の類いは最低限の質素なものに見える。後宮でアウラが与えられていた部屋とは比べようもないほど狭く、天井も低い。
座り込んだ木の板を敷いただけの床の上には魔術陣の残滓が残っている。
消えかけてはいるものの、白く発光する文様と文字が見て取れる。
陣を見て、発動した種を言い当てられるほど、アウラは魔法や魔術に精通していない。それでも状況から『転移』をしたのかもしれないと、考えるぐらいはできる。
その魔術陣が完全に消えるより早く、背後からアウラを抱えていた腕が離れていった。
不思議なことに、解放されて初めて密着していた自分以外の誰かを認識した。放されたことで、その腕が温かったことに気が付く。
「は? どういう状況?」
聞こえてきたのは疑問の声。
その声には非難の色を感じられる気がした。聞き覚えのない声であるという事実より、そのことに身が竦む。
どぎまぎしながらも振り返ったアウラのすぐ背後にいたのは、アウラを連れ出してくれた黒ずくめの獣人だ。
黒い服の背中、その裾から手触りの良さそうな、黒くて細長い尻尾が覗きゆらゆらと揺れている。
その真っ黒な尻尾の主と向かい合って話しているのが、非難の声の主だろう。
黒ずくめの彼に比べ、頭半分ほど背が低い。
身体の線が見えない、ゆったりとした造りの真っ白なローブを纏い、大きな白い帽子が頭部をすっぽりと覆っている。
さらりと揺れる肩で揃えた淡い金の髪に、大きな赤い瞳が印象的な顔は、人形のように愛らしく、美しく整っていた。
顔立ちからは少女のようにも見えるが、先程聞いた声は低めだった気もする。
鋭い視線で床に直接座っているアウラを一瞥したその態度からは、友好的でない雰囲気を感じた。
その視線にアウラは慌てて目を逸らす。
再び見た床の上からは、すでに魔術陣の残滓は消えていた。
「レオンとメイは?」
「まだ来てねえよ。いや、そんなことどうだっていいだろ。状況はって聞いてんだ」
「そうか。ああ、陽動ごくろうさま。おかげでそっちに注意がいって助かった。あと転移の魔法具、初めて使ったが便利だな。もっと数があるといいんだが」
黒ずくめの方は、もう一人の非難には無頓着な様子でそんなことを口にする。
「超貴重品な国宝級のもんをほいほい使おうと思うな。それに魔法具じゃなくて魔術具。お前の家族に一人一個ずつ、しかも緊急用だろうが。むしろここが本当に使い所だったのかすげえ疑問。そんなことより無視すんな。その女はなんだ。人間に見えるが?」
さらに重ねられた問いに対し、黒ずくめの彼は一瞬黙り込んだ。
その一拍に、微妙な逡巡と後ろめたさがあるような気がする。
「……危ないところを助けられた。命の恩人だ。丁重に扱って欲しい」
「あ……? って、おいなんだ、命って」
ほんの僅かに呆気にとられたような真っ白なローブ姿の人は、しかしすぐに気を取り直した。
「ちょっとヤバめの怪我したんだが」
「ヤバめの怪我!?」
「治療してもらった。魔法士だ」
「魔法士!? いや、それはどうでもいいわふざけんな! オレがわざわざ危険を冒して、騒ぎを起こして、陽動なんぞした意味!」
そう言いながらローブ姿の人が、黒ずくめの獣人に掴みかかった。
その白く儚げな雰囲気からは想像し難い力でぎりぎりと襟首を絞め上げている。
「ちょっ、想定外だったんだよ」
「うるせえばかやろう! 言い訳すんな! こっちはめちゃくちゃ追い回されたんだからな!」
「助かったって。くるしい絞まる」
「絞めてんだよ!」
「悪かったよ。でもお前なら危なくなる前に離脱したろ?」
「うるせえ! やっぱ最初から城に向けてぶっ放せばよかったんだ」
「雑過ぎるだろ。城攻めしようってわけじゃないんだから。それに素性はバレたくなかったし。本当に、助かった。付き合わせて悪かったよ。ありがとう」
苦笑した黒ずくめの男に、ローブの人は舌打ちを返した。
人形のように美しい顔に反した、ものすごく嫌そうな表情を浮かべながらも、絞め上げていた襟首を乱暴に解放する。
「そもそもなんで、オルディナリなんて人間の国のことをお前が知ってんのか、とか冷静に考えたら言いたいことが山ほどあるが」
「それな。実はラヴェンディアが」
「わかった。もういい黙れ。お前がバカだってことを忘れてたオレの落ち度だ。オレは今死ぬほど後悔してるが、もういい。とにかく次からはレオンかメイに行かせろ。お前が自分で危険なことはするな」
「俺かお前しかいなかっただろ」
「あ!?」
「うん。わかった。心配かけてすまん」
「心配なんてしてねえよバカ!」
盛大な舌打ちが部屋の中に響く。圧倒されるアウラを余所に、真っ白なローブの人は腕を組んでそっぽを向いてしまった。
そんな様子に苦笑して、真っ黒な獣人の方がアウラへと向き直る。
「ええと、大丈夫か?」
少し気まずそうに聞かれた質問に、アウラは呆気にとられながらもぎこちなく頷いた。
その時になって初めて、襟元を適当に整えるその爪が短く切り揃えられていることに気付いた。
アウラの喉元を掻き切ろうとしたあの鋭い爪は、一体どこへいってしまったんだろう。
「騒がしくてすまんな」
座り込んだままのアウラに合わせ、彼の方も床に膝を着いた。金色の目がアウラを見る。
先程までの気安い空気は成りを潜め、纏う空気にはどこか気品を感じさせるものだ。
「あの状況だったからな。名乗りもせずに失礼した。見ての通り、獣人だ。あの状態で見つかっていれば、本当に危なかった。改めて礼を言う。ありがとう。おかげで助かった」
獣人のそつなく整った顔が親し気な笑みを浮かべ、人間のアウラにそんなことを言った。
「俺のことは、ジルと呼んで欲しい」
呼んでくれ、とは名を呼べと言うことだろうか。その名をアウラが声に出すことを許す、ということだろうか。
期待に満ちた顔で、何かを待たれている気がするのは、錯覚だろうか。
「……ジル、さま……?」
みっともなく掠れてしまった声でそう呼べば、ジルは「うん」と頷いた。
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