1-3
「あー、賊がなんかほざいてるな。本来であれば盗人のような汚らわしい者にいちいち返す言葉など持たぬが、状況の説明ぐらいは聞かせてやる」
面倒臭そうに肩を竦めた王太子が、それでもどこか嬉々として口を開いた。
「貞操観念が死滅している尻軽な魔女と、魔女が誑かし引き入れた下賤の男が城内、よりによって後宮で睦み合い、この国と私に対し弑逆を企んでいるところを夫である私が見咎めた、という状況だ」
王太子の言葉に、アウラは目を瞑る。
これ以上、この世界に見たいものなんてない気がした。
何も見なくていい。もう、終わればいい。
いっそ、先程背後の獣人の爪で切り裂かれてしまえば良かったのかもしれない。そうしたら、こんな現実に向き合うこともなかった。
確かにアウラは背後のこの人を治療した。この国では疎まれる魔法を使って。
でも後宮に引き入れるなんてことはしていないし、もちろん弑逆なんて考えたことすらない。
アウラはもうずっと、この後宮の片隅で、ただ一人静かに時が過ぎるのを待っていただけだ。
絶望など既に感じない。悲観などもうし尽くした。
諦観だけを抱いてこの人生が終わるまでの時を淡々と過ごしてきたのだ。
でももう、いいのかもしれない。
こうやって直接悪意を向けられ、言葉を叩き付けられれば、僅かに残っていたかもしれない期待すら絶えたように思う。もう、十分だ。
アウラが後宮に男を引き入れたと言うのなら、王太子がそう言うのなら、きっとそれが事実になる。
疎まれている王太子妃の不貞だ。庇う者がいるとも思えない。
大義名分を手に入れたこの国が、忌まわしい魔女を許すことはないだろう。
少なくとも目の前のこの人にとって、王太子妃の、しかも正妃の座に居座り続けるアウラの存在は忌々しく、また邪魔なものでしかないのだろうから。
罪人として断罪されるのだろうか。母国に戻されるのだろうか。
いずれにせよ、この先アウラがまともな扱いを受けることはないだろう。形骸化した王族としての扱いすら消え失せたら、その後に残されるのはどんなものだろう。
いっそ、一思いに殺してくれればいいのだ。
待っていた終わりが、思っていたよりも早く来ただけだ。どうせ、これ以上生きていても何もありはしないのだから。
背後の獣人がどこのどういう人物なのかは知らないが、治療ができてよかったと思う。
アウラの魔法が、まだ生きたいと願うこの人の助けになれたのかもしれない。
そう思えば最後の最後で、アウラが生きた意味が見出せる気がする。せめてもの慰めになる。
王太子はまだ気付いていないようだが、この人は獣人だ。詳しくは知らないが、身体能力は人間を遥かに凌駕すると聞いている。
治療をした今なら、アウラが追い詰められたと感じるこの状況からでも、逃げることができるかもしれない。
逃げて欲しい。アウラが生きた、証として。
「……なるほど」
アウラの背後で、獣人が低く呟いた。
「おい。お前の夫とやらはああ言っているが、どうする? この後あいつに慰めてもらえるという展開はなさそうだぞ。だが、治療の礼だ。お前が望むならここから連れ出してやってもいい」
潜めた声が、背後から聞こえてきた。
思わず振り仰げば、嘲りも蔑みもない金の瞳が見返してきた。
恐れも、侮蔑も、魔女と呼ばれるアウラに対して何も感じていないように見える。
「男の方は捕らえろ! 魔女は殺しても構わん!」
「いや、逆だろ。せめて俺を殺せよ」
王太子の号令に、剣を携えた兵が迫ってくる。
その行く手を遮るべく、アウラを解き放った獣人は素早い動きで開け放していた部屋とバルコニーを隔てる扉を閉めた。携えていた抜身の剣を閂のように差し込む。
「悩む時間はない。今すぐ決めろ。決められないなら置いていく」
確かに悩む時間はないだろう。窓を叩き割ろうとする音が聴こえる。アウラを詰る怒鳴り声が聴こえる。
首筋には鋭い爪で浅く切り裂かれた傷がある。この人に剣を突き付けられもした。
それなのに、それでも、アウラには目の前の獣人よりも、この国の王太子の方が恐ろしいと感じる。
身の竦むような罵声が、アウラの背中を押した。考えるよりも先に、答えていた。
「……て、い…って」
久しぶりに出した声は、掠れて上手く言葉にならない。
それでも、僅かでも声が出た。アウラはまだ、声を出すことができる。
「はっきり答えろ。後でそんなつもりじゃなかったなんて言われたくない」
「……っれていって!」
自らの掠れた声に後押しされて、今度こそ、アウラはその思いを口にした。同時になぜか涙がこぼれた。
そんなアウラを見て、獣人が不敵に笑う。
「よし」
再びアウラの腰に回した腕がその身を抱え上げ、床を蹴った。
アウラ一人を片手で抱えたまま飛び上がり、部屋の方に身体を向けバルコニーの手摺の上へと軽やかに着地する。
「承知した。確かに聞いたぞ。後で文句言うなよ」
懐を探り掌に乗るサイズの、水晶玉のような石を取り出した彼は、その石を握り込んだ手で被ったフードの端を抑えた。
窓が破られ、兵が二人を取り押さえるため、あるいは殺すために駆け寄ってくる。
「舌噛むなよ。口閉じてろ」
獣人の足が、乗っていたバルコニーの手摺を蹴った。
男の腕に抱かれたまま、アウラの身体は空中へと投げ出される。
不思議と、恐怖は感じなかった。三階のバルコニーから落ち地面に叩き付けられる恐怖よりも、その場にとどまる方が余程恐ろしい気がする。
獣人が握り込んだ拳から白い光が迸り、その光が空中に魔術陣を描き出す。
僅かな浮遊感を覚え、落下する速度が減じたような気がした。
アウラの眼前には、広い夜空が広がっている。
遮るものなく仰ぐ空には、青白い月が輝いていた。
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