1-2
威嚇のつもりか、彼の爪がアウラの皮膚を浅く切り裂く。
鋭い痛みに身が竦む。僅かに集中が乱されたが、止めるという選択肢はすでにない。
怖いという気持ちはもちろんある。それでも、喉元に突きつけられた獣人族の鋭い爪を極力意識の外に追いやり、彼の傷に向けて手をかざした。
アウラの体内を巡る魔力に意識を凝らし、集中する。
なんのために、そんなことも考えない。
そうしたいから、そうするのだ。理由もわからないまま、ただ全力で祈り願う。
どうか、この人がこれ以上の痛みや苦しみを感じることのないように。
アウラが今以上の傷を負う前に、獣人の手がぴたりと止まった。見開いた金色の瞳が、アウラに向けられている。
「魔法、士か……? おまえ……なにを……」
鋭い爪を持つ手が、呆然と自らの脇腹を探っている。どうやら治療は上手くいったらしい。傷口の辺りを、信じられないものを見る目で見下ろしている。
たぶん、上手く治療できたはずだ。
満足感に酔うことができたのは一瞬だが、ひとまず納得のいく結果が得られた。
彼の表情からは苦痛の色が消え、一緒に敵意も霧散し、酩酊感にも似た疲労に眩暈を起こしているアウラとは異なり、元気そうにも見える。
一足飛びに後退し距離を取った彼の、今その表情には浮かぶのは困惑で、アウラの喉元と、自身の爪に付着した赤い色を見比べ戸惑っている。
なぜ治療などされたのか、アウラの真意を図りかねているのだろうが、真意も何も、別に大した意味はない。
こんなところで死体になられては問題があるし、なんとなく、そうしたかっただけだ。
選択肢の少ないアウラの人生における、ほんの僅かな反骨精神かもしれない。
恩を感じて欲しいと思っているわけでもなし。アウラとしては、動けるのならさっさと逃げて欲しい。
その時、獣人の頭上で獣の耳がぴくりと動いた。
舌打ちと共に、金色に光る目が部屋の奥に見える扉を見た。扉の向こうには廊下が続いている。
彼は一瞬、バルコニーの外に視線をやり、そして再びアウラを見た。
忙しない視線が、その葛藤を示しているのだろう。
「ああもう、くそ……! おい! お前、傷付けるつもりはないから、声は出すな。騒ぐなよ」
言うや否や、マントのフードを目深に被り、獣人の証である耳を隠す。
アウラが言葉の意味を理解するより早く、機敏に立ち上がったその人は、流れるような動きで、一緒に立たせたアウラの背後へと回った。腰に回された腕に身体を抑えられ、抜き放たれ首元へと突き付けられた剣に動きを封じらる。
バルコニーから見える部屋、そこから続く廊下への扉が無遠慮に開け放たれたのはその時である。
その時になってようやく、獣人が逃げ果せるための人質とされたのだと思い至った。そして、アウラでは、彼が思うような役には立てないのではないか、という虚しい疑念が頭を過る。
武器を携えた兵たちが無遠慮な様子で部屋に敷かれた絨毯を踏み荒らす。王太子妃の部屋へと踏み込むには、あまりにも荒々しい。
先頭に立ち兵たちを従えていた人間の男性は、月下でバルコニーに立つアウラと、背後でその身を抑えた黒尽くめの人を見て、目を見開いた。
その人間の男性は、明らかに一兵卒とは異なっていた。服装も、纏う気配も、何もかもが。
綺麗な顔をしているように思う。そつなく整った容貌はどこか見覚えがあるのは、きっと婚儀の際に隣に立ったせいだろう。
初めて正面から、遮るものなく見るアウラの夫に違いない。
その表情がアウラの目の前で徐々に、嘲るようなものへと変わっていった。
ろくに知らないアウラの夫が、その整った相貌を歪めて笑った。
期待などするつもりはなかったが、優しさや慈しみとは無縁そうな表情だと思った。
嫁いで三年が経つ今も、アウラは自分の夫のことをほぼ何も知らない。
嫁ぐ時に聞かされたのは、オルディナリ王国に嫁ぎ、結婚するのが王太子であること、魔法は決して使ってはならず、従順でなければならないこと、二度と母国の土は踏めないこと。
端から名を呼び合うような関係を想定していた者は誰一人いなかったのだと思う。王太子も、そしてアウラ自身も含めて。
「これは、これは……なんとまあ、本当に侵入者だ。その上、賊を探しに気配を辿って来てみれば、我が妻が! は! なんという裏切りか! おい見ろ! 魔女が後宮に賊を引き入れたぞ!」
獣人に動きを封じられたまま、アウラは心のどこかが冷えていくのを感じた。
まだ、冷える余地があったことに驚く。
心を通わせる何かを期待していたわけではなかったと思うのだが、それでも目の前に立つ王太子、法の上ではアウラの夫であるその人に、多少なりとも何かを期待する気持ちはあったのかもしれない。
アウラが嫁いできて、夫婦とされて、ただの一度も正面で顔を合わせたことがなく、言葉はおろか視線すら交わしたこともない夫だったとしても。
いや、だからこそ、期待を抱くことができたのだろうか。
妻であるアウラが刃物を突き付けられている、この状況を前にして、邪魔な王太子妃を賊とまとめて処分する好機、そんな打算を隠そうともしていない。なんなら歓喜に沸いているような、そんなこの人に何かを期待していたのだと思うと、一層の虚しさが込み上げてくる。
だが、生まれた国ですら、アウラを顧みる誰かなどいなかったのだから、魔法を、魔法士を厭うこの国で、そんな存在に出会えるはずもないのだ。
「……頭がおかしいのか? 俺が言うのもなんだが、この状況でこの女が俺を引き入れたって? 羽交い絞めにされ剣を突き付けられてるこいつが?」
それなのに、いや、だからこそ、背後から聞こえてきた獣人による疑問の声に、ちょっとだけ泣きたくなった気がしたのかもしれない。
アウラを抑えるその腕が、痛みを与えてくることがないからだろうか。
配慮のようなものを感じ取ることができるからだろうか。
敵意を失くしたその目に、蔑みも嫌悪も感じる痛みも感じられなかったからかもしれない。
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