白き魔女と黒の忌み王子
ヨシコ
1 輝く月の夜
1-1
いつも通りの静かな夜。頭上には、夜空を切り取ったように円を描く月が青白く浮いている。
オルディナリ王国に嫁ぎ王太子妃となったアウラが、この部屋で生活するようになって今日でちょうど三年になる。
その記念すべきかもしれない今日も、いつも通りの停滞した日常だった。
自室にも、自室から続くバルコニーにも、そのバルコニーでぼんやりと見上げる夜空にも、なんの変化も感じられない。
空模様と、月の満ち欠けという変化が精々といったところだ。
先程この部屋から離れたどこかで騒ぎがあったらしい気配はしたが、アウラには関わりのないことだ。誰かが様子を見に来ることもないので、たいしたことではなかったのだろう。
いや、もしたいしたことだったとしても、アウラにはおそらく関わりはないだろう。
見上げる月は、これまで幾度も見た満月と同じ。大した感慨もない。
いつもと同じ夜空、いつもと同じバルコニー。
しかし、何かが意識の端に引っかかった。小さな違和感。いつもとは違う何か。
これは、血の匂いだろうか。
あるはずのない血の匂いに、アウラは辺りを見回した。
浴室、寝室、着替えの間と応接室。王太子妃の部屋は扉で区切られた四部屋である。廊下に続くのは応接室のみだが、バルコニーは四部屋分が一つに繋がっており、どの部屋からでも出入りが可能になっている。
そんな横に長いバルコニーの左右の端は、満月の明りに照らされてもなお暗く見える。
応接室とバルコニーを区切る硝子張りの扉は開け放したままだ。本来その扉を覆うカーテンも開いたままで風に揺れている。
そしてそのカーテンの陰、薄闇の中で、いつもはない何かが見えてしまった。
気付かなかったことにして部屋の中に入り施錠して寝てしまう、という選択肢が頭を過る。しかし、どうにも血の匂いが気になってしまう。
確認のため近付こうと足を向ければ、その何かがびくりと震えるように動いた。
「……っ」
続いて聴こえてきたのは苦しそうな呻き声で、声を出したのは黒い大きな塊。
その塊が、苦しそうに息を吐き蠢く。
人だ。
そう思ったのは、アウラを射抜くように睨みつける、金色の瞳と目が合ったから。
その双眼を認識してしまえば、黒い大きな塊は人にしか見えなかった。
全身に黒い服を纏い、黒い髪に金の瞳を持つ、男性。男性に、見える。
苦しげな息を吐き、警戒心や敵愾心を露にアウラを睨み上げるその人は、どうやら傷でも負っているのか、まともに動くことができないらしい。ほとんど動けない様子ながらも脇腹を庇う仕草をし、そして身を捩るように動くたび、血の匂いが一層濃くなっていく。
アウラがいるこの場所は、大陸の西側に位置するオルディナリ王国の後宮である。
もちろん王族以外の男子禁制。忍び込むことも招き入れることも身の破滅へと直結している。そもそも、そう簡単に忍び込めるような場所でもないはずだ。
その後宮の王太子妃のバルコニーに、知らない誰かがいる。
この部屋に足を踏み入れる権利を持つアウラの夫、オルディナリ王国の王太子ではない。
苦しげな彼の頭部には、髪と同じ黒色で艶やかな毛並みの、猫のような三角の耳がピンと立っている。
大陸の東側に住まう、人間とは異なる種族、獣人族。その耳から察するに、猫の獣人だろうか。
この大陸は、深い森に隔たれ東西に二分されている。
西側に人間族が、東側に獣人族が住む。
アウラが嫁いで来たこのオルディナリ王国は人間の国だ。
そんな場面に遭遇したことがあるわけではないが、おそらく獣人に対しては排他的だろう。
この国の人々は、魔力があるだけの人間、魔法士すらも忌み嫌うのである。
そんなこの国で、種族すら違う獣人がどんな扱いを受けるだろう。想像するだけでも恐ろしい。
目の前のこの人は、きっと真っ当な扱いを受ける民ではないのだろう。奴隷として連れて来られたのかもしれないし、見世物にでもされていたのかもしれない。
主人の元から逃げ出して、よりによって後宮に迷い込んできてしまったのかもしれない。
何があったのかは知らないが、王宮の、まして男性禁制のこんなところで見つかってしまえば、問答無用で殺されてしまうだろう。殺されるよりもっと恐ろしい目に会う可能性だってある。
「……は、くそ……こんなところで……!」
獣人が苦しそうな呻き声を上げる。声を聴くに、やはり男性のようだ。
ほんの少しの逡巡の末、アウラは蹲るその人に近付いた。
そんなアウラの行動に危機感を覚えたらしい獣人は、身体を起こそうとして、しかし仰向けに体勢を崩す。辛うじて肘で上半身を支えてはいるが、腰の剣を抜くことすらできなかったようだ。
身を覆うのは黒い服に軽装備。裾が長めの上着の切れ目から覗く真っ黒な尻尾は、猫のようだ。やはり、猫の獣人かもしれない。
近付いてみれば、その顔から判断できる歳の頃はアウラと同じか、少し年上だろうか。たぶん二十歳を過ぎたぐらい。
苦痛に歪む顔は、甘さがありながらも精悍に整っている。
傷口を抑えているらしい右手の隙間から、溢れ出る液体が見えた。右脇腹に傷があるようだ。
バルコニーの床を濡らす液体は、あまり楽観視できる量には見えない。
アウラは僅かに顔を傾け、月を仰いだ。
夜空に浮かぶ月は新円を描いている。これも巡り合わせだろうか。
アウラの思考を後押しするように、耳元で何かが囁いた気がした。
ドレスを汚してしまうと、何かと面倒な事態になるかもしれない。
慎重に血だまりを避け、獣人の傍らに立つ。そのまま床に座り込めば、彼はびくりと身体を仰け反らせた。
可能であればきっと飛び退いて距離を取ったのだろう。
そうしたくともできないらしいその人に、恐る恐る手を伸ばす。
こういう時、怯えさせないようにするために何かを言えばいいのかもしれない。でも、アウラではどんな言葉も思いつけなかった。
アウラを睨みつける金の瞳に浮かぶのは、生きようという強い意志。目の前に在るのは、死から逃れ藻掻く眩い命だ。
人間の国で傷を負い、それでもなお、この人は生きようと足掻いている。
「くるな……っ」
敵意に満ちた獣人の左手が、アウラへと伸びてきた。
もしかしたら殺されるかもしれない、そう思ったけれど、だからといって手を止めるという選択はなかった。
殺すつもりなら警告などしないだろうし、彼の声には戸惑いが多いように感じられた。
何よりも、アウラの中にある意地のようなものが、手を止めることを拒んだ。
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