商人の息子は辺境伯の令嬢に逃避行ごっこを要求される

神崎 雨空

商人の息子は辺境伯の令嬢に逃避行ごっこを要求された

 トン、トトン、トントン。と小さく指で窓を叩いた。

 これから会う彼女と一緒に決めたサインであるそれは、心地よいリズムで暗闇に響く。


 もう今は真夜中と言ってもいい時間帯。彼女はすでに寝てるかもしれない。

 とても残念だが、寝てたら寝てたで明日来たら良い話だ。別に急ぎの用があるわけでもない。彼女に先日帰って来た旅の土産話をいち早く聞かせたいだけである。


 少し待っても反応が返ってこなかったので、今日は諦めて帰る事にしようか、などと考えていたら。


 ――ガララッ

 窓が勢いよく開かれると、一つ年下の美しい少女が満面の笑みを浮かべて俺を迎えてくれる。


「ロイ! 久しぶりね! 会いたかった!」


 彼女は夜中にも関わらず大きな声で歓迎してくれた。とても嬉しいがバレるとまずい。特に彼女の父親である辺境伯には。

 俺はたしなめてから小さな声で言った。


「久しぶりだなアリシア。もう限界なんだ、入ってもいいか?」

「あ、ごめん。どうぞ、入っていいよ」


 以前、俺がアリシアと夜中に会っているのがバレて、アリシアの部屋は屋敷の一階から三階に移動することになった。


 しかし、そんなことで諦めるような俺では無く、ほとんど凹凸の無い壁を指だけで三階まで登ってアリシアに会っている。アリシアの笑顔を見るためだけに。


 俺は商人の親父に付いて行き、色んな国と地域を見て回ったが、アリシアより美しい女性を見たことがない。

 

 背中の中ほどまで綺麗に伸ばされた薄い茶色の髪。真っ白できめ細かな肌。鼻筋は通っていて、目はぱっちりと大きく開いている。

 俺の貧相な語彙力で表せることなんて、とてもできない美少女である。


 言うまでも無いが、今日のアリシアも非常にかわいい。寝る前だったのか髪を下していて白いワンピースのパジャマを着ていた。


 そんなアリシアにいつも通り見惚れていると、彼女はいつも通り俺に旅の話を求めてきた。


「どこへ行ってきたの? 結構長かったよね、最後に会ったのは一か月も前だよ」


「もうそんなに経ったのか。フィアゴ自治領まで行ってきたんだよ。今回もたくさん話を持って帰って来たぞ」


「いっぱい聞かせてね。ロイの話はいつも面白いから」


 アリシアは辺境伯の一人娘で、蝶よ花よと育てられ、ほとんど外に出た事が無かった。

 幼い頃に喘息が出てしまって、両親以外との外出を禁じられたらしい。

 それを禁じた辺境伯も仕事で忙しく中々家に帰れないため、彼女が外に出る機会はめっきりと無くなってしまった。


 アリシアの喘息がほとんど完治した事は不幸中の幸いだが、まだ外出許可は出ず、外の世界を飛び回る俺の話をいつも聞きたがる。

 

 俺は俺で、アリシアと会える口実を探している為、少しでも何かあれば彼女に話しに行くし、旅商であった珍しい話を脚色しまくって彼女に伝える。

 もはや商売のためではなく、彼女の笑顔を見るために親父に付いて行ってると言っても過言ではないだろう。


 しかし、アリシアの父親からしてみれば、俺は彼女に付き纏う煩い虫みたいなものである。はっきり言って辺境伯からのイメージは最悪だ。

 それもそのはず、彼女と会っているところをすでに数回発見されているからだ。その度に逃げ回っているため大事にはなっていないが、彼女と会うハードルはどんどん高くなった。


 最初は、一階の彼女の部屋に忍び込むだけだったが、塀が高くなり、罠がしかれ、部屋が三階に移り、挙句の果てには衛兵まで置かれる始末である。


 そんな大変な苦労も乗り越えて見る彼女の笑顔は格別である。今日も俺は、旅の話を彼女が眠くなるまで聞かせよう。


「フィアゴ自治領に入ってすぐ驚いた事は領民の活気だよ。王様が居ないからか何なのか皆がそこら中で踊ってるんだ。それに貴族がやる社交ダンスみたいな物じゃなくて、もっと情熱的なんだよ。みんなが楽器を持ち出して歌を歌い踊る。フィアゴ自治領はそんな国だったよ」


「とっても楽しそう! 情熱的なダンスってどんな感じなの?」


「今踊ってみようか? こんな感じだよ」


 俺はフィアゴ自治領で見たダンスを大げさにした物をアリシアに見せると、アリシアはくすくすと口を覆って笑った。

 

「他には他には?」


 アリシアは目を輝かせて話の続きを催促してくる。

 彼女は自然についての話をよく好む。深い森や綺麗な海、何もない砂漠の話だって嬉しそうに聞く。なので今回も自然の話を持ち帰って来た。


「今回見た中で一番すごかったのは、フィアゴ自治領の南東付近にあるザビスってとこだ。とにかく渓谷が深くて深くて。朝方吊り橋でその渓谷を渡ったんだけど、下を見ても底が見えないんだ。真っ暗で何も見えなかった。多分あれは地獄への入り口だね」


 彼女は俺が喋ってる間は激しく相槌を打ちながらニコニコと笑顔を浮かべて聞いてくれるので、ついつい饒舌になってしまう。


「すごいすごい! 怖くなかった?」


「怖かったさ! 途中で強風が吹いて横から叩きつけられるみたいだったよ。吊り橋を掴んで振り落とされないように必死だった」


 本当はそよ風が少し吹いただけだが、そういうことにしておいた。土産話をゼロから作り出した事はないが、一を百ぐらいにすることは全く厭わない。俺の目にはそういう風に見えたんだ。仕方ないだろう。

 

「大変! よく落ちなかったね。無事でよかった」


 彼女にこうして心配されるのは少し心が痛い。笑顔にするために話を大きくしてるのに、暗い顔にさせたら本末転倒じゃないか、反省しよう。


「俺は運動神経が良いから全然余裕だったけどな」


 自信満々に胸を張ると彼女は安堵し、また微笑みを見せてくれた。良かった。


「もっともっと聞きたい!」


「そういえば、向こうに階級制度が無い事もびっくりしたな。仕立ての良い服を着た少女とこの国でスリをしてそうな少年が手を繋いで歩いてたり、街中でキスしてたりしたんだ。流石に目を逸らしちゃったけど、そういうところも情熱的だったよ」


「すごいね。街中でキスなんて。それに、良いなあ。好きな人とずっと一緒に居られるんだね」


 そう言うと彼女はもの悲しげに諦めたような笑顔を見せる。


 しまった。話選びを失敗したな。

 アリシアがいずれ政略結婚するようになる事が頭から抜けてた。


 彼女はすでに16歳。辺境伯の娘で美しいアリシアには、政略結婚の話が山ほど来ている事だろう。彼女と同世代で結婚してる娘も多くなってきた。


 噂によると、彼女の父である辺境伯が娘かわいさに結婚の話を止めてるらしいが、もう限界が来ているのかもしれない。

 彼女のその美しい容姿は侯爵や大公まで話が届いてるとの噂だ。いくら親馬鹿な辺境伯であっても大公家からの結婚の話は断れないだろう。


 もうすぐ彼女は本当に俺の手の届かないところまで行ってしまうかもしれない。

 彼女を連れ出して逃げたいと考えた事は数えきれないほどにある。しかし、実行したことは一度も無い。実行することなんてとてもできない。


 なぜなら、アリシアは辺境伯令嬢で、俺はただの商人の息子なのだから。身分が許さない。

 

 それに、俺はアリシアの事を愛しているが、アリシアの気持ちを聞いたことが無い。聞けるはずもないし。そもそも聞く意味すら無い。


「ロイごめん。今日はもう眠たくなっちゃった。また明日来てくれる?」


「もちろん。またこの時間にアリシアに会いに来るよ」


 アリシアは将来の結婚に辛くなったのか、本当に眠くなったのか分からないが、今夜の話はここまでとなった。

 明日もまた困難な障害を乗り越えなければ彼女に会えないのだが、アリシアに会える嬉しさでそんな物は吹っ飛んでいる。


「ううん。この時間じゃなくて、明日は夜明けの少し前に来てくれる?」


「分かったよ。おやすみアリシア」


「おやすみなさい、またねロイ」


 俺はそう言うと、侵入する時に使ったギリギリ人ひとりが通れるような小さな窓から外に出て飛び降りた。

 そして、高い塀をよじ登って辺境伯の屋敷の外に出る。ここまで来てやっと一安心だな。


 それにしても夜明け前とは珍しい。いつも長く話をしたいから早く来いとばかり言うのに。何か用事でもあるんだろうか。

 まあいい、明日も仕事は待ってくれない。

 早く帰って早く寝て、いっぱい働いてアリシアに会いに来よう。明日が楽しみだ。



 ――・――・――・――・――・――・――・――


 次の日、仕事が終わってから長めの仮眠を取り、アリシアと話すための準備万端な俺はまたもや、三階にある彼女の部屋の壁にくっついていた。

 合図を出すと今日はすぐに窓が開く。


「ロイ、入ってきていいよ」


 小さな声で彼女が許可を出すと、迷わず俺は部屋の中に飛び込んだ。


 彼女の事を一目見て思ったことは、いつもと違う。ということだった。

 俺はいつも夜にアリシアを訪ねるため、彼女の服装は毎回パジャマやワンピースなどの寝る事に適した服装だったが、今日はなぜか動きやすい旅装に身を包んでいた。彼女の隣にはバッグも用意されている。

 どこかから帰って来たばかりなのだろうか。


「どうしたんだその服装」


「ロイ。私と逃避行しよう」


 俺が彼女に率直な疑問を投げかけると、彼女は訳の分からない事を言い出す。


「逃避行ごっこだよ逃避行ごっこ」


「意味不明だよアリシア、説明してくれないか?」


「ロイが前に言ってたここから一番近い海を見に行きたいの。こそこそと隠れて出て行って今日中には屋敷に戻ってくる。どう? 素敵でしょ?」


「なんだそれ。無茶苦茶じゃないか。辺境伯にバレたらとんでもない事になるぞ」


 彼女が急におかしな事を言い出すから少し笑ってしまう。

 辺境伯の令嬢がなんだってそんな事を。


「良いの。今日パパは家に帰ってこないから。一日ぐらい大丈夫だよ」


「しかしだな、アリシア……」


 今日は仕事が休みだし、辺境伯が居ないとなれば、馬を使って海に行って戻ってくるぐらいは、まあ、できなくも無い。

 でも、だからと言って商人の息子が貴族の令嬢を連れ出すなんて言語道断だろう。誘拐犯と間違えられても文句が言えないレベルだ。

 夜中に未婚の辺境伯令嬢の部屋まで来てる事を棚に上げて、そんな事を思った。


「ロイお願い。今日しかもう機会が無いの。私、一度も見たことない海を見に行きたい」


「よし。俺が連れてってやるよ。すぐに行くぞ」


 俺の意思とは関係なく勝手に口から言葉が出ていた。

 理性はダメだと言っていたんだ。でも、彼女に涙目で迫られて断れる男がどこに居ようか。


 返事を聞いた瞬間の嬉しそうな笑顔を見るともう、無理だった。ここから約束を反故にできる男はもっと居ない。


 大丈夫。夕暮れを少し過ぎた当たりには帰ってこれるだろう。海に行って戻ってくるだけだ、大事にはならない……はず。

 そんな希望的観測を含む言い訳を心の中で二回程唱え終えると、すぐさま行動に移し始めた。

 もう今は夜明け秒読みの時間帯。動き出すなら暗い方が何かと得だし、逃避行って感じもするだろう。


「私、一回その窓から出てみたいと思ってたの。ロイ、私をこの鳥かごから連れ出して」


 捕らわれの姫さながら、彼女はメルヘンチックに救出を求めた。

 なら俺は騎士として彼女をここから連れ出そう。


「仕方ねえな、俺が先に出るから良いって言ってから通り抜けて来いよ」


 いくらまだ暗いとは言え、堂々と門から出るのはまずいし「逃避行っぽく無い」と彼女は言う。


「良いぞ、先にバッグから寄越せ。通れそうか?」


 アリシアからもらったバッグを肩にかけると、とてつもない重さで肩がちぎれそうだった。

 ここからアリシアも背負って三階から降りることに若干ビビるが、そんな事はおくびにも出さない。なんたって今の俺は、捕らわれの姫を助ける騎士なのだから。


「よいしょっと。行けそう? ロイ大丈夫?」


 アリシアの華奢な体は小さな窓を悠々と通り抜け、俺の首に腕をかけて胸に身を任せる。

 彼女の身体に初めて触れた感想は、すごく柔らかい、以上だ。バッグの重さにそれ以上考える事が出来なかった。


「よし降りるぞ」


 そう言って凹凸のほとんど無い壁を握力だけで降りていく。いつもなら一瞬で飛び降りるが、今日はそうも行かない。姫が居るのだから。

 

 やっとの事で降り切った俺は、首に腕を回していた彼女の温もりが無くなってしまう事を少しだけ残念に思ってしまう。


「行こう! ロイ!」


 そんな俺の手を引きながら彼女は笑顔で呼びかけてくる。

 逃避行は始まったばかりだ。


 流石に衛兵の前を素通りするわけにもいかず、もう一度俺は高い壁を登って降りた。

 一人で登るより身体的に辛い。でも精神的には全く辛くなかった。


 そうして近場の馬小屋で、早くは無いがデカくて強そうな馬を借りた。そこそこ値は張ったが二人と重いバッグならこんなもんだろう。これでも十分間に合うはずだ。


「私、馬に乗るのも初めて!」


 アリシアはことあるごとに笑顔を見せた。久しぶりに出る外、初めて乗る馬。彼女が海を見る時の表情も今から楽しみだった。


 大人しい馬だったため、アリシアを乗せる事には苦労しなかったが、俺が乗るときはとても嫌そうにしていた。生意気な奴め。


「ねえ。逃避行だよロイ。私楽しいよ」


 これが逃避行と言えるかどうかは少し疑問だが、楽しい事に異論はない。俺は何度も頷くと馬に蹴りを入れて走らせた。


「出発だアリシア! 海を目指すぞ!」


「うん!」


 幸い俺とアリシアが目指す海は、俺からすればとても近く、領境を越える必要すらない。関所を越えなくて良いためアリシアの顔さえ隠しておけば見つかることはまず無いだろう。


 往復しないといけないため、馬を程よい速度で歩かせながら海に向かう。道中は色んな話をアリシアにした。

 俺が初めて馬に乗った時のこと、馬から落ちて転がり傷だらけになったこと、治安が悪い地域で盗賊に追われ命からがら逃げ出したこと。

 初めてする話もあるし、アリシアに二回目、三回目を頼まれてする話もあった。


「またあの話聞きたい! 天空の鏡の話!」


 その中でも、彼女が何度も聞きたがる一番好きな物語がある。遠い山に存在する天空の鏡の話だ。


「本当に好きだなその話」


「だって一番ワクワクするんだもん」


 俺は仕方ねえなと呟いて話始める。


「あれはまだ、俺が親父の旅商に付いて行き始めたばかりのことだった。親父は一攫千金を夢見て山を越えた先の町で商売をしに行ったんだ。その時は意味が分からなくて、これは後から聞いたんだけどな」


「道のりはとても厳しかったことを覚えてる。俺はまだガキだったから付いていくことに必死で、無我夢中で馬にしがみ付いていたと思う。旅商に出てからどれぐらい経ったか分からなくなった頃に事件は起こった」


「山を越えれば目的地ってところまで来たのに、その山が聞いていたより高かったんだ。なんてったって頂上が雲に隠されて見えなかったからな」


「うんうん! それでそれで!」


 彼女は何度も聞いた事のある話なのに、楽しそうに続きを求める。


「そんな高い山を目にしても親父は諦めなかったんだ。目には金貨しか映ってなかったよ。まだ幼い俺が居るって言うのに山を登り始めた。あんなに辛い思いをしたことは今まで無いよ」


 この話をするといつも彼女はここで笑う。今回も同じように笑っていた。


「覚えてるのは山登りの最中、たいてい雨が降ってたことだ。半分以上は雨に降られながら登ったと思う。そんな中でも黙々と山を登り続け、やっとの思いで頂上にたどり着いた俺が目にしたものは」


「なになに?」


 彼女は目を輝かせながら聞いてくる。知ってるくせに聞いてくる。


「天空を映す巨大な鏡だった。雲一つ無い青空が、上にも下にも広がってたんだ。青空の上に立ってるような気分だった。あれは幻だったんじゃないかと今でも思うぐらい綺麗だったよ」


「やっぱりすごいよ、何回聞いてもすごい。私も見てみたい。その天空の鏡」


 俺だってアリシアをそこに連れて行きたい。

 数少ない、脚色をする必要も無いほど素晴らしい景色なのだから。アリシアだってきっと感動するはずだ。


 でも、無理なんだ。

 今から行く海とは訳が違い、途方もないぐらい遠い。最短でも往路だけで一か月はかかるだろう。


「いつかそこにも行こうよ!」


「ああ、おう。行こうな」


「絶対だよ!」


 彼女の笑顔を見てると俺は断ることはできず、できもしない約束をしてしまった。

 


 ――・――・――・――・――・――・――・――


「なんか変な匂いしてこない?」


 馬を歩かせてもう数時間が経っていた。出発する前は地平線に隠れてた太陽が、今はもう登りきっていた。

 そろそろ海に着く頃だ。


「磯の匂いだよ」


「磯?」


「海の匂いだ」


 俺が答えると、俺たちが乗っている馬は丁度小高い丘の、頂上に立った。

 目の前の景色が広がって逃避行の目的地、海が見える。

 アリシアが十六年間見たことない海。俺が海の話をしてから四年間見たいと言って止まなかった、待望の海である。


「海! 海だよロイ!」


「ああそうだぞ。あそこが目的地だ」


 アリシアは大きな声で叫んでくる。

 馬にはくっついて乗ってるのでそんなに大きな声を出さなくても聞こえるが、初めて見た海に興奮してるようだった。


「ねえ早く早く! もっと早く!」


 馬に無理を言って結構なスピードで走らせてるが、アリシアの声を聞いてさらに速度が増してるようにも見える。


 どんどん海が大きくなり、砂浜も見えてきた。


 もう目と鼻の先に海が来たところで、俺たちは馬を程よい木に留めておくことにした。

 まず俺が先に降りて、馬からバッグを下して肩にかける。続いて両手を開くと、アリシアが俺の胸に飛び込んで馬から降りた。


「行こう! 早く早く! ロイ!」


 アリシアが俺の手を引いて走り出すと俺もつられて走り出した。左肩のバッグはすこぶる重く、右側の手はアリシアに繋がれているため体勢は悪いが、わんぱくなお嬢さまに負けじと走った。


 すぐに、地面には真っ白い砂が混じり始め、海に着いた。


「すごい。広い。すごいよロイ。ロイってすごい!」


 海の広大さに頭をやられたのか、語彙力が壊滅している彼女におかしくなってお腹を抱えて笑った。

 それに、すごいのは俺では無く海だ。


「すごいだろ? 入ってみるか?」


「うん! 一緒に遊ぼう!」


 大きな声で返事をすると、勢いよく靴を脱いでズボンを捲り海に走っていく。

 とてもじゃないが今のアリシアは辺境伯の娘には見えなかった。せいぜい漁師の娘だろう。

 俺もすぐにアリシアと同じような格好になって海に向かった。


「すごく冷たいよロイ!」


「ああ、そうだな。まだ春になったばかりだからな。夏に来ると全身浸かって泳ぐこともできるんだぜ」


「私泳げるようになりたい!」


 また、できもしない約束をしてしまいそうになった俺はアリシアに向かって海水を手で飛ばした。


「うわ! 冷たいんだけど! やったな?」


 彼女もまた俺に向かって海水をかけてくる。俺とは違って全く容赦の無い攻撃にびしょびしょになった。


「やりやがったな」

 

 どうやら俺は俺で大人げなかったらしい。こうして俺たちは、まだ冷たさが残る初春にずぶぬれになり、早々に海から退却して服を乾かしていた。


「ねえロイ。海って楽しいね」


「そりゃよかったよ。連れ出してきた甲斐があった」


「うん。連れてきてくれてありがとう」


 彼女は優しげに微笑んで俺に礼を言う。


 この時間がいつまでも続けば良いのに。


 しかし、帰りの事を考えると、もうそろそろ出発しなければならない時刻だろう。楽しい時間はすぐに終わる。アリシアと居る時間はいつも短い。


「そうだな。じゃあ、そろそろ帰るか。逃避行ごっこもこれで終わりだ。屋敷に戻ろう」


「…………」


 俺はアリシアに問いかけるが、彼女からの応答は無かった。アリシアに目を向けると、彼女はぼんやりと海を眺めている。


「アリシア?」


「帰りたくない」


 アリシアは俺に視線すら向けず、ただそれだけを口からこぼした。


 俺だって本当は帰りたくなんかない。でも帰らないといけないんだ。


「だめだよアリシア、一緒に帰ろう。皆心配するよ」


 俺はたしなめるように言うと、アリシアからの返事は無かったが、彼女はゆっくりとこちらを向いた。彼女の表情からは、何を考えてるか読み取れない。


「ねえ、逃避行ごっこじゃなくて本当に逃避行したいって言ったらどうする?」


「え」


「私、家に帰らずロイと一緒に生きていきたい」


 正直、アリシアの言葉は涙が出そうになる程嬉しかった。このまま彼女の手を取って逃げたくなる。

 でも、だめなんだ。俺はまだ商人として半人前だし、アリシアと俺が食うに困らない程稼げない。そもそも彼女は辺境伯令嬢なんだ。身分が違い過ぎる。

 俺が彼女の華奢な手を取ると、彼女は不幸になってしまう。


「……だめだ。アリシア。帰ろう」


 俺は苦虫を嚙み潰したような顔でアリシアとは目も合わせずに言い捨てる。

 俺の中で木霊する悪魔の囁きを理性で抑えつけるが、彼女の顔を見るとその手を取ってしまいそうになる。

 幸せになってほしいと願う彼女を俺の手で不幸にしてしまう。


「結婚の話が来たの」


 雷に打たれたように俺の頭はグラグラと揺れた。彼女の言葉を上手く咀嚼できない。

 結婚? 彼女が?


「相手は侯爵家の長男で35歳の人なんだって。話も纏まってきてて、近々その人と会う約束もしてるの」


「私その人じゃなくてロイと一緒に居たい」


「ねえロイ。私が他の男の人と結婚しても良いの?」


「いやだ」


 限界だった。俺は彼女の手を取って言った。


「アリシア、一緒に逃げよう。俺と結婚してくれ」


「うん。うん。うん。ずっと一緒だよ」


 アリシアは泣きながら何度も何度も頷いた。

 その時の彼女の顔は俺が今まで見てきた中で一番美しい笑顔だった。



――・――・――・――・――・――・――・――・――・――



「そういえば、この重いバッグの中身はなんだ?」


「えへへ、これはね家から持ってきたの」


 アリシアはそう言ってバッグを開けて俺に見せつける。

 中には眩しくなる程の金貨がカバンいっぱいに詰まっていた。


「結婚資金だよ。これで新婚旅行に行こう。いや新婚逃避行かな?」


 そうして彼女と俺の逃避行は続いて行った。


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商人の息子は辺境伯の令嬢に逃避行ごっこを要求される 神崎 雨空 @Kanzaki_Ryuichi

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