惚れ薬を所望する後輩にビタミン薬を渡した

神崎 雨空

惚れ薬を所望する後輩にビタミン薬を渡した

 たったったったと階段を駆け上がる軽快な音が聞こえると、いつものように少し憂鬱になった。また騒がしいあいつが来る。俺の集中をかき乱す騒々しい女だ。

 わざわざ誰も居ない早朝に実験室を独占して、思考の世界に入り浸っているというのに。


 化学実験室のドアが勢いよく開かれると件の女子生徒、仁科静香にしなしずかが入ってきた。そしてすぐに、大きな声で話かけてくる。


「先輩、おはようございます! 今日は雨が降るみたいですよ傘持ってきました? あ、前貰った薬めっちゃ面白かったですよやっぱ先輩ってすごいですね。そういえば数学の課題で分からないところがあるんで後で聞いてもいいですか?」


 情報量が多すぎる。

 結局のところ仁科が俺に何を求めてるのかわからない。いつもいっぺんに喋るな、実験室で大きな声を出すな、とあれほど言っているのに仁科は守ったためしが無い。 少しはご両親の想いを汲んで名前の通りに生きてやれと思う。そもそもドアを閉めてから話かけろよと頭が痛くなるが、とりあえず俺はいつものように挨拶だけ返した。


「おはよう」


 彼女はドアを勢いよく閉めて、両手に試験管を持つ俺に向かって近づいてきた。


「先輩今日は何やってるんですか?」


 また質問が増えた。おそらく仁科の中でさっきの問いかけの返事は全て自分の都合のいいように変換されてるんだろう。そういうことが何度かあったため今更驚きはしなかった。

 それはさておき、何をやってるのかなんて頭の悪い仁科に言っても絶対に理解できないため説明する気も起きず、俺は適当に言い放った。


「ああ、薬品を混ぜてるんだ」


「いつもそればっかりじゃないですか、少しは私にも教えてくださいよ」


「説明するだけ無駄だろう」


「でも、一生懸命聞きますよ」


 説明しても無駄な事は否定しないらしい。まあ、自分の頭のレベルを理解できてるだけ上出来かもしれない。

 しかし、だからと言ってこの煩い後輩に講義する気は無く、試験管の中の薄い青色をした液体に目を向けたままボソボソと呟いた。


「また今度な」


「絶対ですよ、あと何か面白い薬ください」


 仁科は実験室に来る度にいつも俺が作った薬をねだる。断じて面白いものではなく未来を先取りした素晴らしい薬なんだが、実験に付き合ってくれるのは素直にありがたい。動物のモルモットで試しただけの薬を人間のモルモットで試せるのだから。


 ちなみに最近俺が作った薬は全て仁科が被検体第一号になっている。


「今日はこれだ」


 そう言って俺は半透明の小さなケースをモルモット改め仁科に手渡した。そこにはオレンジと白で半分ずつ彩られたカプセル剤がたっぷりと入っているのが見える。動物の方のモルモットでは思った通りの反応を示し実験成功を収めたが、未だ人では試せていなかった物である。


「朝昼晩、毎回食事が終わった後にできるだけ早く水と一緒に一錠だけ飲め、あと中止する時用のこれも」


 いつも人間で試すのが初めてなので、毎回全てをリセットできるタブレット状の解毒剤のような薬も俺は一緒に渡す。いくら馬鹿は風邪をひかないといっても俺の薬すらも跳ね除けられるとは限らないからな、保険のためだ。


「今回も何の薬か教えてくれないんですか?」


「ああ、教えることによって結果が変わるかもしれないからな。特にお前は」


 プラシーボ効果。プラセボ効果とも呼ばれる現象を仁科はもろに受ける。

 今から二か月ほど前、ビタミン剤を渡して嘘の実験を伝えたことがあり、数日後その通りになったときは笑いを堪えるのが大変だった。


「わかりました、また結果が出たら教えてあげますね」


「話が早くて助かる」


 仁科は煩くて頭の悪い後輩だが、こういうところに理解があるのが良いところだ。


「そういえば、先輩何だかんだ言っていつも私のために新しい薬用意してくれてますよね、ありがとうございます」


 何を言ってるんだこいつは。


 モルモットのためにわざわざ薬を用意する化学者などどこに居ると思ってるんだ。普通逆だろう。どうやらこいつは自分がモルモットだと気づいて無いらしい。やれやれ、このモルモットの頭の悪さは本当のモルモット並みだなと呆れ果ててしまう。


「何を馬鹿な事言ってるんだ。新しい薬をお前で試してるだけだ」


「でも、いつも先輩が渡してくれる中止するときの薬って結構高いですよね。私調べたから知ってますよ。いつも飲まなくて毎回余るからいらないって言ってるのに。先輩優しいですね」


 聞こえないように舌打ちする。


 ガサツだが変なところに鋭いやつだ。馬鹿なんだからそんなところに気付くな、被検体が居なくなったら困るからに決まってだろう、と心の中で毒づいてしまう。


 しかし、仁科が言ってることは本当の事なのだ。最初に渡したカプセル錠は正真正銘、俺が作製したもので、実験室の薬品も拝借しているため安く作られてるが、二番目に渡したタブレットは市場には流通しているものの、普通の高校生のバイト代程度では手が出せないそこそこ値が張る代物である。まあ、俺は普通じゃないから買えるんだが。


「うるさいぞ、用が済んだらさっさと出ていけ」


「あ、話そらしましたね。それに数学の課題の事まだ聞けてません」


 仁科は俺に数学の問題集を見せつけてくる。


「あともう少しで一段落つく、それまで待ってろ」


 俺は仕方なくそう答えた。話をそらすことには成功したが、実験という夢のような時間はもうすぐ終わりを迎えるらしい。


「はーい!」


 元気よく間の抜けた声で返事すると、俺が使っている実験机の真向かいに移動し、数学の問題集とノートを開け、ああでもないこうでもないと言いながらシャーペンを動かし始めた。


 それを横目で確認すると、俺はすぐに実験器具を片付け始める。おそらく、本当にキリの良いところまで作業していたら始業時間までに課題は終わらないだろう。


 そんなこんなで、全ての片付けが終わった俺は仁科の横の椅子に腰掛けて進捗を確認する。なるほど、全くと言っていいほどに進んでいない。やはり俺の勘は正しかったらしい、早めに片付けて正解だった。


「どこが分からないんだ」


「全部です」


 想定の中では最悪の答えだが、可能性として考えていただけ褒めて欲しいものだ。


「これはこの公式、こっちの問題は二問目の応用だ。一つずつ焦らずに考えていけば答えは出る」


「なるほど、やってみます」


 集中して問題集と向き合う仁科を見て少し安心する。少なくないミスはあるが始業時間には間に合いそうだ。


 一問解くごとに俺に答え合わせをせがんで来るのは正直言って面倒くさいが、本人のためだと思って我慢していたとき、ふと仁科の横顔を見てて思いだしたことがある。


 この煩くて馬鹿なモルモットは、校内で多くの男に好意を寄せられているということだ。その噂を聞いたときはこの馬鹿のどこが良いんだと考えたものだが……。


 確かに、横顔は綺麗だなと思った。


 ぱっちり開いた目に長いまつ毛、鼻筋が通っていて形の良い涙袋まで付いている。


 多分、いつも気にしていないだけで正面の顔も整っているんだろう。今なら人気があることも多少は頷けそうだ。


 そんな失礼な事を考えてると仁科が急にこっちを見てきて目が合う。少しドキッとしたのは絶対に悟られたくはない。


「何か顔についてますか?」


「いや、別に……」


「そうですか? まあ、それはさておき先輩、最後の問題解けましたよ」


 いつの間にか、問題集は終わりを迎えていたらしい。


 問題が解けて自信満々の仁科から解答が書き込まれているノートに目を移し、問題集と照らし合わせながら検算していく。


 ――どうやら答えは違うみたいだ。


「間違ってるぞ」


「ええーめっちゃ自信合ったんですけど!」


「単純な計算ミスだな。方法自体は合ってるからもう一回計算しなおしてみろ」


 できれば検算してから答え合わせさせてくれると楽なんだがなと思い、今回は仁科の顔に目を吸い寄せられないように我慢する。仁科が実験室に入る前の憂鬱な気分はいつの間にかどこかに消え去っていた。


「できました」


「うん、合ってる」


 ノートを凝視してた俺は短くそれだけを告げ、立ち上がる。そろそろ始業時間の予鈴が鳴るため教室に帰る準備をしようとすると、突然腕をひかれた。


「なにすんだよ」


「すいません先輩、あの……」


 先ほどと打って変わって歯切れの悪い仁科。調子が狂いそうになるも急かすことはせず、二の句を待った。


すると、仁科は静かに言った。


「……先輩に作ってほしい薬があるんです」


 仁科にこんな事を言われるのは初めてだ。モルモットが作ってほしい薬とはどんな物だろうかと正直少し気になってしまう。俺は驚きと興味が入り混じった感情で尋ねる。


「どんな薬なんだ?」


「それはちょっと……」


「じれったいな、俺に作れない物なんて無いんだからさっさと言え」


 さすがに大言壮語が過ぎるが、こいつの場合プラシーボ効果でなんとでもなるはずだ、と仁科が欲しがる薬への興味が俺を突き動かしていた。


「あの、それは……惚れ薬です……」


 蚊の鳴くような声で仁科はつぶやいた。


「惚れ薬?」


 顔を耳まで真っ赤にした仁科が僅かにうなづく、察するに仁科には惚れさせたい誰かが居るらしい。少しだけ、俺の中で得体のしれない何かが沸き起こった。


「先輩作れますか……?」


 仁科は顔を赤くしたまま、こちらも見ずに聞いてくる。余程惚れ薬を頼むのが恥ずかしいらしい。


 なんでも作れると言った以上断ることはできないが、普通に考えて薬を飲んだだけで人を好きになるはずがないだろう。常識を知らないのかこの馬鹿は。そもそも異性に人気がある仁科がなぜそんな物に頼るんだ。と心の中で仁科への文句がとめどなく溢れてくる。 


 だがしかし、仁科の愛嬌ありきの話にはなるが、似た様な物は作れるかもしれない。


「相手に少しでも気があれば惚れさせることができるかもしれない、ぐらいの薬なら作れるかもな」


「気があればですか」


「ああ、全くのゼロじゃ無理だな」


「……」


 どうやら仁科が惚れさせたい相手はなかなか手ごわいみたいだ。なぜだか分からないが少し安心した。


 「お前にはいつも俺が作った薬を試させてもらってるからな。惚れさせる約束はできないが一週間くれたら特別に作ってやるぞ、どうする?」


 仁科はこちらを向いて少し悩み、絞り出すように言った。


「……お願いします」


「分かった。一週間後の今日、この時間に取りに来い」


「はい! ありがとうございます!」


 いつもの仁科に戻ったようだ。やっぱりこの馬鹿な後輩はこれぐらい煩くて良いのかもしれない。あんなにしおらしくされると調子が狂っていけない。


 この会話が終わるとすぐに予鈴が鳴った。それを合図に俺たちは実験室の戸締りをして各々の教室に向かう。


 次の日の早朝、俺は実験室で惚れ薬擬きを作っていた。いつもなら煩い後輩が煩くドアを開けて入ってくるのにその日の実験室は静かだった。


 その次の日もその次の次の日も。約束の一週間までの間、実験室は静かなままだった。


 少し寂しかった。


 約束の日、俺は惚れ薬擬きを完成させた。100%ではないがかなりの確率で惚れさせることができる物を作製した。作製してしまった。おそらく顔の良い仁科が使えば成功するだろう。


 しかし、あれほどモルモット扱いしていた仁科に、この薬だけは渡したくなかった。


 なぜなら俺はこの一週間で仁科に好意を抱いている事を自覚したからだ。認めたくない。認めたくはないが、あれほど煩い思っていたドアの音も聞こえなくなると寂しい。


 いつも集中をかき乱してくると思っていた女が来なくなると、まだかまだかと待つようになり逆に実験に気持ちが入らなくなった。週の後半は試験管よりドアを眺めてる時間の方が長かったくらいだ。


 もう受け入れよう、どうやら俺は仁科静香が好きらしい。


 そこでだ、今机の上には二つの液体が詰まった小瓶がある。一つは俺が作った惚れ薬擬き、もう一つはビタミンの粉薬を水で溶いただけの偽薬が入っている。


 あろうことか俺は、仁科に惚れ薬と偽ってただのビタミン薬を渡そうかと悩んでいた。あれほど邪険に扱っていた後輩が今更惜しくなったのである。


 しかしながら、俺も化学者の端くれだ。小さくはないプライドがある。一度作れると言って一週間も待ってもらった物を別の物にすり替えて良い物なのか……。


 そんなことを考えていると実験室のドアが静かに開いた、仁科静香が音も立てずに入ってくる。


 あれほど待ち望んでいた反面、今日ほど来てほしくなかった日は無い。忘れたんじゃないか、やっぱりいらなくなったんじゃないかという俺の期待はものの見事に打ち砕かれたらしい。


 仁科は静かに俺の横まで来るといつもとは違う簡潔な挨拶をする。


「先輩おはようございます」


「おはよう」


 俺はいつもと同じように返した。


 沈黙が落ちる。一週間前は俺の返事も待たずに話続けていたというのに今日は違うみたいだ。


 まあ、惚れ薬の事があるしな。


「できてるぞ」


 と言って俺は机の上を指すが、ここで卓上に小瓶が二つあることに気付いた。どちらの瓶を渡そうか迷いに迷ったあげく片付けるのを忘れていた。恋は人を盲目にするなんて良く言うが、頭も悪くするらしい。


「あの、どっちですか」


「す、好きな方を選んでいいぞ」


 最後まで決めきれなかった。

 優柔不断で化学者失格の俺は、よりにもよって仁科に選ばせることにした。


「じゃあ、こっちをもらっていいですか」


 ――仁科は本物の惚れ薬擬きの方の小瓶を選んだ。両手で手に取ると大事そうに胸の前で握りしめている。


「先輩、ありがとうございます」


「ま、待て……正解はこっちだ」


 突然、俺の意思とは関係なく言葉が口から飛び出し、偽薬の方の瓶を仁科に差し出していた。恋は目だけでなく頭も口も手も悪くするみたいだ。


「えへへ、間違えちゃいましたか、ありがとうございます」


 仁科はそう言って惚れ薬擬きを机に戻し、俺から偽薬の小瓶を受け取った。


「一滴でも飲ませればお前のことが好きになるかもしれない薬だ、慎重に使えよ。お前の愛嬌ありきの薬だからな、それを飲ませてから好きだとでも言ってやれ。多分成功するだろう」


 惚れ薬擬きのために用意していた説明はスラスラ俺の口から出て行った。中身がただのビタミンなので何の意味も無いが、仁科の笑顔だけで告白は成功するかもしれない。


 ただ俺は、説明してる最中も失敗を願わずにはいられなかった。


「わ、わかりました。がんばります」


「……うむ」


「そ、そうだ先輩、惚れ薬のお礼をあげます!」


「め、目を閉じて口開けてください!」


 突然いつもの仁科になり、意味の分からない要求に俺は戸惑ってしまう。


「は、早く」


「わかったわかった」


 仕方なく俺は仁科の指示に従い、目を閉じて口を開けて待っていると、仁科が俺の口の中に何かをねじ込んできた。とても酸っぱい。


「こ、これでいいんですよね、もう目を開けていいですよ!」


 目を開けるとそこには、顔を真っ赤にした仁科が俺を見つめていた。長いまつ毛は小刻みに震え、目を潤ませている。手に持っている偽薬の小瓶はすでに空になっていた。



「先輩好きです、ずっと好きでしたし、これからも好きです」


 

▽▲▽ ▽▲▽ ▽▲▽



 あれほど失敗を願っていた告白はどうやら成功したらしい。その後どんどん俺は仁科に魅了されてしまった。


 おそらくプラシーボ効果のせいだろう。偽薬だと分かっていても効くなんてとてもおそろしい効果だ。

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