第十六話 ヘスティリア、女性社交界を制圧する

 ヴェルロイドは屋敷で、一人の人物と面会していた。


 ローザイヤン侯爵である。立派な口ひげを持つ、金髪の人物だ。辛うじて緑掛かっている髪色なので、一応は皇族の血を引いている事が分かる。


 ヴェルロイドは頭の中に家系図を描く。


 ヘスティリアの産みの母が先帝の愛妾であったイラスターヤ伯爵夫人。その実家がサザランド伯爵家。その本家がローザイヤン侯爵だ。


 貴族にとって一族の家の繋がりは重要なものだ。貴族の家は大体、皇族から始まっており、その皇族は臣下に下って侯爵になっているから、貴族の本家は大体侯爵家となる。


 ちなみに、アッセーナス辺境伯家はほんの三十年前まではオルイール王国の王家だったので帝国貴族としては例外的に皇族に繋がりがない。ヘスティリアが嫁に来ればヴェルロイドの子供からは皇族の血縁になるが。


 ローザイヤン侯爵は野心家として知られていて、しきりに皇族に接近する一方、ライバルの家を陥れて没落に追い込んだとの噂をヴェルロイドも耳にしていた。現在でも名家であるのだが、更なる権勢を求めているようだ。


「一度アッセーナス辺境伯にはお会いしたいと思っておりました。念願が叶って嬉しゅうございます」


 非常に丁寧な言葉遣いである。家格的には辺境伯と侯爵は同格であるし、ローザイヤン侯爵の方が二十五歳のヴェルロイドよりも十歳は確実に年上の筈だ。


「閣下は元王族ですからな。敬意を尽くすのは当然の事」


 とは言っているが、ヴェルロイドが帝都貴族の間で田舎貴族と侮られていることは、ヴェルロイドも知っている。しかしヴェルロイドは爽やかに笑ってこう言った。


「なに。王族だったのは三十年ほど前までのこと。今では帝国の貴族ですよ。皇族の血を引く貴殿の方が余程高貴だ」


 ヴェルロイドはそう言ってローザイヤン侯爵を持ち上げたのだが、直後にこう言葉を継いだ。


「もっとも、私の子の代からはこの帝国においても高貴な存在になるでしょうが」


 ヴェルロイドの台詞にローザイヤン侯爵の目が鋭くなった。ヴェルロイドはローザイヤン侯爵は皇族の血を引いているから高貴だと言いながら、しかし自分の子供はヘスティリアの子、つまり先帝の孫というより皇族の血が濃い存在になるので、ローザイヤン侯爵家よりも高貴な存在になると言ったのだ。


 これは、現状では家格がほぼ同じくらいである両家の序列が、明確にアッセーナス辺境伯家の方が上になる事を意味する。田舎貴族の辺境伯が、名門帝都貴族を序列で上回るなど、プライドの高い彼らには許せない事だろう。


 しかも、アッセーナス辺境伯領は元々軍事力に優れていた。帝国の難敵が転じて帝国北東部の守護神となったアッセーナス辺境伯家は、帝国貴族の中で最も強大な軍事力を有する。


 そしてローザイヤン侯爵も耳にしている事だが、辺境伯領はこの一年で俄かに経済を発展させ、交易商人はおろか帝都の大商人までが注目する商業の拠点になりつつあるらしい。


 強大な軍事力と、大きな経済力が結びつけば、これは脅威である。それに加えてヘスティリアが皇族に認定されてヴェルロイドと嫁げば、先帝の娘を娶ったという権威まで手に入れる事になる。


 とても田舎貴族と無視出来るような存在ではない。ローザイヤン侯爵は人好きのする微笑を浮かべながら、低姿勢な態度のままヴェルロイドに言った。


「そのヘスティリア様ですが、当家とも浅からぬ縁がございます。ヘスティリア様の母嫌が我が家に連なる者でして」


 そしてローザイヤン侯爵はヘスティリアの出生の事情を説明した。ヴェルロイドはそれを注意深く聞く。


 ほとんどはオルフェウスが語った事と同じであったのだが、細部でやや異なる部分があった。ローザイヤン侯爵が言うには、イラスターヤ伯爵夫人がヘスティリアをオルフェウスに預けたのは皇妃(現在の前皇妃)からヘスティリアを守るためだったという。


「当時から彼女は皇妃様にそれは敵視されていましたからな。皇妃様に先んじて子供を産んだなどと知れたら母子ともに命が危ない。それで隠すために平民に預けたと聞いております」


 オルフェウスを選んだのは、当時帝都でもかなり名の知れた商人だったからだそうだ。そういう事情なら、オルフェウスが選ばれたのも、彼が帝都の実績を投げ捨てて南へと蓄電した理由も分かる。先日ヴェルロイド自身が襲撃を受けたように、皇妃や皇太子妃には少しなら兵を動かす権限があるのだ。平民の商人が帝都在住のまま身を守るのは困難だっただろう。


 イラスターヤ伯爵夫人がヘスティリアを取り戻そうと考えたのは。夫である伯爵が亡くなった事以上に、皇帝が代替わりして時間が経ち、前皇妃から完全に実権が失われたからなのだろう。


「ルクティリアはヘスティリア様に会いたがっております。なにせ一人娘、愛する恋人との娘ですからな」


 イラスターヤ伯爵夫人はルクティリアという名前らしい。一人娘という事は夫との間に子が無かったという事だろう。もしかしたら先帝が愛人を囲うために、形だけの結婚をイラスターヤ伯爵にさせたのかもしれない。よくある話だ。


 生き別れた娘に会いたいと言われれば同情を誘われる話ではあるのだが、もちろんこれはそんなに情緒的な話ではない。


「ヘスティリア様はルクティリアの庶子ですが一人娘。ですから、ルクティリアが認知すれば伯爵家の継承が可能です」


 庶子を認知して家を継がせる例はままある事である。ただ、夫人の庶子、つまり不倫で生まれた娘は当主の血を引いていないので、普通なら家を継ぐ正当性がない。しかしながらそれが先帝の娘であるなら話は別だ。当主がおらず認知するのは夫人で、後見役としてローザイヤン侯爵が後押しをするのなら、問題無くヘスティリアはイラスターヤ伯爵家当主になる事が出来るだろう。


 なるほど。ローザイヤン侯爵がわざわざ面会を求めてきた理由はこれか。ヴェルロイドは内心で頷いた。そして、彼の狙いも理解出来た。


「なるほど。しかしヘスティリアは現在、バレハルト伯爵家の養女で、私の婚約者だ。イラスターヤ伯爵家を継ぐとなればどうなるのでしょうな」


 ローザイヤン侯爵はにこやかに笑いながら言った。


「そうですな。まずバレハルト伯爵家との養子縁組は解消し、それからルクティリアがヘスティリア様をイラスターヤ伯爵家の次期女伯爵と認定し、そして改めて閣下と婚約し直すという事で如何でしょう?」


 それは、他家の養子が次期伯爵に認定されるのはおかしいので、バレハルト伯爵家からヘスティリアが出てから、改めて彼女をイラスターヤ伯爵家嫡子に認定する事になるだろう。


 しかしここで問題が一つ生じる。


 ヴェルロイドとヘスティリアの婚約は、あくまでバレハルト伯爵家とアッセーナス辺境伯家との間で結ばれた契約なのである。結婚は家と家の結び付きのために行われるものだ。それが結婚前に家を移ってしまったらおかしな事になる。


 なので、ヘスティリアがイラスターヤ伯爵家に移る場合は、自動的に婚約が解消されてしまう事になる。そのため、ヴェルロイドとヘスティリアが婚約関係を維持するには、再度イラスターヤ伯爵家のヘスティリアと婚約を結び直す必要が出てくるのだ。


 これがローザイヤン侯爵の狙いである。彼はヴェルロイドとヘスティリアの婚約関係を解消したがっているのだ。


 理由は簡単で、先帝の娘などいう宝を、アッセーナス辺境伯家などに嫁がせたくないからだ。アッセーナス辺境伯家に大きな名誉と権威を与えて貴族序列で辺境伯家が躍進する事になってしまうというのもある。しかしそれよりもローザイヤン侯爵とすれば、田舎貴族などよりもっと効率的に権力に繋がる家に、ヘスティリアを嫁がせたいのだ。


 ローザイヤン侯爵家の子弟に嫁がせれば、直接的にローザイヤン侯爵家に皇族の血を入れられるし、もしくは他の有力家にローザイヤン一族から出た皇族として嫁がせる事が出来れば、その家に大きな影響力を行使出来る。


 そんないくらでも効果的に使えるお宝を、なにも有力家とはいえ滅多に帝都にも出てこないアッセーナス辺境伯家にやることはない。婚約をやり直すと約束だけしておいて、ヘスティリアをローザイヤン一族に取り込んだ後に約束を反故にするつもりなのだ。


 と、ヴェルロイドは正確に洞察出来た。彼はそれほど自分の事を鋭い男だとも思っていないので、これは自分が鋭いのではなくローザイヤン侯爵のやり口が見え透いているのだと考えた。侮られたものだ。


 う〜ん。ヴェルロイドは考える。あるいはローザイヤン侯爵の提案に乗って、ヘスティリアをローザイヤン一族に「送り込む」のも面白いかもしれないとは思う。このお髭の立派な侯爵様は知らないかもしれないが、ヘスティリアは大人しくヴェルロイドとの婚約解消に応じたり、違う家に粛々と嫁いで行くような女性ではない。恐らくはローザイヤン侯爵の意図を飛び越えてとんでもない事をやらかして、ローザイヤン一族を内側から無茶苦茶にしてしまうだろう。


 ただ、ヴェルロイドとしては、そんな大騒ぎをしてこれ以上ヘスティリアとの結婚が遅れるのは避けたいところだった。なるべく早く結婚式をして、帝都に基盤を構えた後に、一度ヘスティリアを連れて領地に帰らねばならない。


 そのためにはこれ以上ヘスティリアに活躍されては困るのだ。ヴェルロイドはヘスティリアの「計画」は聞いて知っていた。それだけでも、ハイネスと約束した半年後の帰郷が難しくなるのだろうと分かったのだ。これ以上の面倒事はごめん被る。


 ヴェルロイドは事更に笑顔を浮かべた。しかしその笑顔は、いわゆる貴族的な笑顔ではなく獰猛な、猛々しいものを含んでいた。それを見たローザイヤン侯爵が一瞬怯む。それはそうだろう。これは戦場で敵を威嚇する表情なのだ。


「お話は伺ったが、必要ないな。ヘスティリアは自分を捨てた母親を恨んでいる。なのでイラスターヤ伯爵夫人には会いたくないと言っている」


 嘘である。正確にはヘスティリアは、自分の母親には全く興味がないようなのだ。彼女曰く「自分を産んでくれた事には感謝しているけど、それ以上はどうでもいい」との事。子供の頃は母親の事を知りたいと思ったこともあったけど、今となってはもうなんとも思ってないらしい。


 それを聞いてローザイヤン侯爵は若干渋い顔になった。


「いや、それはヘスティリア様が誤解していなさる。ルクティリアは断腸の思いでヘスティリア様と別れたのです。今では後悔しているのですよ」


「それは事実としても、それを彼女が受け入れるには時間が必要だろうな。長年放置していた母親が許せぬ気持ちは私にも分かる故、説得は出来ぬしするつもりも無い。まぁ、結婚して、子供でも産まれれば母の気持ちも分かるようになるのではないか?」


 つまり、ヴェルロイドは現状のままヘスティリアと結婚するつもりだという事だ。ローザイヤン侯爵の表情がますます渋くなる。


「それではヘスティリア様がイラスターヤ伯爵家を継ぐ事は出来ませんぞ?」


「まったく構わぬ。アッセーナス辺境伯家としてはヘスティリアが伯爵家の養子だろうが皇族だろうが、私の嫁になるのであればなんでもいい。彼女はもう当家にとって不可欠な存在故」


 ローザイヤン侯爵はうぬぬぬっと唸ってしまった。ヴェルロイドの態度は完全に侯爵の意図を読み切っての門前払いであると感じられたからだ。伯爵家の養子よりも、嫁入り道具代わりに領地まで持参出来る伯爵家の次期当主として嫁いだ方が、アッセーナス辺境伯家にとっては利益が大きいのである。なので侯爵は、田舎貴族かつ若くて世間知らずなヴェルロイドなら、この大きな利益に飛び付いてくると思い込んでいたのである。


 しかし、ヴェルロイドは太々しい顔で侯爵を見下ろしている。大柄かつ戦場経験豊富なヴェルロイドには迫力がある。ローザイヤン侯爵は気圧されて汗をかいてしまった。


 だが、侯爵とて帝都の貴族界では切れ者の野心家として知られる人物だ。しつこいので有名な男でもある。彼は目に力を入れて反撃の糸口を探る。


「ヘスティリア様ご本人の意向を伺いたいですな。ヘスティリア様はどちらにいらっしゃいますか?」


 ヴェルロイドはニヤッと口元を歪めた。当然来る質問だと思っていたのだ。


「ヘスティリアは忙しくてな。不在だ。女性社交を忙しく渡り歩いておる。……皇太子妃殿下と一緒にな」


 それを聞いてローザイヤン侯爵が愕然とする。


「皇太子妃殿下とですか⁉︎」


「そうだ。どうも妃殿下と昵懇の間柄になったらしい。仲良く女性社交で交流を深めているらしいぞ」


 しまった。先を越された。とローザイヤン侯爵は歯噛みする。皇太子妃はブレフラージュ侯爵家の出だ。フレブラージュ侯爵家がローザイヤン侯爵と似たような事を企んでヘスティリアに接近してきたに違いない。


 しかし、ローザイヤン侯爵は内心で首をひねる。皇太子妃といえば次代の皇妃で、まだ皇族と認定されていないヘスティリアとは身分的に大差がある人物である。その皇太子妃とこんなに短期間に友誼を結んで、女性社交を共にして親密振りをアピールするというのはどういう事なのだろうか。


 皇太子妃となれば社交に出席するだけでも会の格が上がるような存在であり、同じ社交で同席するだけでも名誉とされるほどなのだ。それが渡り歩くと表現出来るほど一緒に過ごしているのだとすれば只事ではない。


 ひょっとすると、フレブラージュ侯爵ではなく、皇太子妃自身がヘスティリアの取り込みを狙っているのかもしれない。その皇太子妃の行動が、皇太子、あるいは皇帝の意思を反映したものであった場合、帝室がヘスティリアを取り込む事を目指しているのかもしれない。


 とすると、そのヘスティリアをローザイヤン侯爵家で取り込もうとすれば、それは帝室の意図を妨害することになりかねない。皇族の血を手に入れても、皇帝や皇太子の不興をを買っては元も子もないではないか……。


 結局、ローザイヤン侯爵は計画を断念する他なかった。ヴェルロイドは客観的事実だけを語ってローザイヤン侯爵の誤解を誘う事で、侯爵の意図を挫くことに成功したのである。


  ◇◇◇


 ヴェルロイドの言った通り、ヘスティリアは皇太子妃と一緒に社交に出まくっていた。お茶会やら観劇やら園遊会やらと、楽しく遊びまわっていたのだった。


 伯爵令嬢の義姉アンローゼの紹介で出ていた社交よりも、当たり前だが皇太子妃の出る社交の方が格が高い。


 出席者も伯爵令嬢の出る社交は子爵以上侯爵以下だったものが、皇太子妃と社交を楽しむ相手は伯爵以上でほとんどが侯爵以上、そして大体が夫人となる。結婚していない令嬢と夫人とでは、夫人の方が身分が高い。


 その格式高い社交に、ヘスティリアは堂々と乗り込んだのである。しかも皇太子妃の紹介で。ヘスティリアの気分的には皇太子妃を引き連れてだ。


 皇太子妃はヘスティリアに、彼女とヴェルロイドを襲撃した事を知られ、そして自身の密かな計画まで看破された事で、ヘスティリアを恐れるようになってしまっていた。実際、この二つを皇帝なり皇太子にヘスティリアが報告すれば、皇太子妃は罰せられるだろう。皇太子妃は大きな弱味を握られてしまったのである。


 しかしながらヘスティリアは皇太子妃を脅すような事は一切せず、表面上は友好的で皇太子妃を立てるような態度に終始した。これが逆に皇太子妃にとっては大きなプレッシャーになり、彼女はヘスティリアの要求に逆らう事が出来なくなってしまっていたのである。


 ヘスティリアは「私が皇帝になる」と豪語したわけであるが、具体的にそのために行動を起こすような事は何もしていなかった。単に社交の場で有力貴族夫人と楽しく交流しているだけだ。


 皇太子妃の見るところ、ヘスティリアは所作や作法は優雅で上品だったが、貴族夫人らしい教養はあまりないようだった。ただ、非常に広範な知識を持ち、さまざまな経験をしてきたからか、話がとにかく上手くて面白かった。


 このため、ヘスティリアはすぐに、皇太子妃の友人たちである上位貴族夫人たちに受け入れられた。それはもちろん、ヘスティリアが緑の髪を持ち、皇太子妃が常に一緒にいて彼女の身分を保証していたからでもある。


 皇太子妃が身元保障する緑髪の女性。つまり本物の皇族だ。ちょっと前まで皇族の名を騙る怪しげな女だったヘスティリアが、どうやら本物の皇族だった事が分かって貴族女性達は驚倒した。


 ヘスティリアは以前の社交で失礼な態度や嘲りを見せた相手を全て覚えていて、そういう女性達のところにわざわざ近付いては「ね? 私は嘘など言っていませんでしたでしょう?」などと言って圧力を掛けて回った。彼女に対してかなり無礼に振る舞った貴族令嬢などは震え上がり、アッセーナス辺境伯の屋敷に贈り物を持って謝罪に来たくらいである。


 皇族であるヘスティリアに失礼な態度をとってしまったという弱みを握られた貴族女性達はヘスティリアに逆らえなくなる。彼女達はヘスティリアに従順な、いわゆる「ヘスティリア派」を形成する事となった。


 皇太子妃はヘスティリアに従順なのでその派閥の貴族女性達も事実上ヘスティリア派に属している事になるし、それ以外にも純粋にヘスティリアに魅了された者、単純に皇族であるヘスティリアの権威に擦り寄って来た者などがヘスティリア派に加わった。


 こうして、ヘスティリアはそれこそあっという間に、帝国女性貴族界で最も大きな派閥を率いる事になったのである。


 これに気が付いて愕然としたのが皇妃だった。


 皇妃は公務があるので、皇太子妃がいる場合は、皇太子妃に社交界の舵取りを任せて社交に出る頻度を減らすものだ。なので女性社交界がいつの間にかヘスティリアに制圧されている事に気が付くのが遅れてしまった。気が付けば、ヘスティリアはどの社交でもまるで女皇帝のように闊歩し、女性貴族は争って彼女の前に跪く有様だった。すぐ側にいる皇太子妃を無視してだ。


 これは大変な事だ。女性社交界の序列は前皇妃を別格にすると、皇妃が一番上で二番目が皇太子妃だ。そうでなければならない。いくら先帝の娘とはいえ、正式に皇族認定すらされていないヘスティリアが、皇太子妃の上に出るなんてあってはならない事なのである。


 しかし、皇太子妃は完全に毒気を抜かれてヘスティリアの言う事にただ頷くだけ。他の貴族女性はあからさまにヘスティリアを慕っていた。中には恐れている風な者もいる。既に皇妃が少し介入したくらいでどうにかなるものではなさそうだった。


 皇妃は困り果てた。貴族夫人が夫である貴族当主に与える影響力は馬鹿に出来ない。夫人達が夫に強く働き掛ける事で帝国の政策が決定した例などいくらでもあるのだ。つまり、女性社交界を制圧したヘスティリアは、帝国の政策に強い意向を示せる状態にあるといえる。


 臣下がこのような状態になるのを防ぐために、皇太子妃は社交に注力して、女性貴族界を掌握する事に心を配らなければならないのだ。それなのにあの使えない嫁は! 皇妃は息子を醜く罵る皇太子妃の事があまり好きではなかったが、今回のこれで更に大きく評価を下げたのだった。


 しかし事は重大である。皇妃は自分の力では解決出来ない事を悟ると、夫である皇帝に対処を依頼した。皇帝は話を聞いて仰天した。


「何かの間違いではないのか? ヘスティリアが帝都入りしてから、まだ二ヵ月は経ってはいまい?」


 帝都入りしてすぐに呼び出してから、皇帝はヘスティリアについての対処を先延ばしにしていたのだ。さりとて放置していたわけでもなく、法的な問題点や前例を部下や紋章院に命じて調べさせている最中だった。二ヵ月ではまだ終わっていなくても無理はない。


 その隙にヘスティリアがそんな暗躍を見せるとは。さすがにそこまで皇帝に予想しろという方が無茶だろう。しかし、皇妃がこのような事で嘘を吐く筈がないので、どうやらヘスティリアが女性社交界で皇太子妃をも上回るカリスマ的な存在になり仰せている事は間違いないようだ。


「仕方ない。ヘスティリアを呼んで、事情を聞く事にしよう」


 皇帝はそう決断して、ヴェルロイドとヘスティリアに召喚の使者を出したのだが、これも当然、ヘスティリアの計算の内なのであった。

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