クジラの歌…誰にも聞こえない52Hz…

真崎いみ

クジラの歌…誰にも聞こえない52Hz…


太陽の光が白いカーテンのようになびく深海の中。新種なのか、はたまた絶滅した種か。もしくはシロナガスクジラと何かの雑種かもしれない。

歌をうたうことでコミュニケーションを図るクジラたちの鼓膜に響かない声で歌をうたうクジラがいた。

たった一頭きりのパレードを、孤独と呼ぶのか。


俺の歌はきっと誰にも届かない、と薄々気が付いていた。


中学二年生のときに初めてギターに触れて以来、鈴村千都はその音色に心奪われて音楽を趣味に没頭していた。やがて中学三年生の頃、受験勉強の合間に親友の尾上いつきと二人でバンドを組んだ。

いつきは声変わりを終えても尚、男性としてはやや細い声質を気にしていたが千都は中性的なその声を気に入っていた。


ぎらりと殺人的な目映さを以て太陽が地球を照らす季節、夏。千都は油断していた社会の期末テストで赤点を取り、見事に夏休みの補習授業を獲得した。

授業は退屈で、窓際の席に座る千都の片腕を太陽が焼いた。下敷きをうちわ代わりにパタパタと扇ぐも、生温い風が生じただけで全く涼しくない。

午前中で終わる補習授業を終えて家路につき、口うるさい母親に捕まることを危惧した千都はいつきと供に他の生徒が帰り、しんと静かな教室に残っていた。

癖のように持ち歩くギターの弦を時折、爪弾く。高く細く、音が零れていく。

「何か、おもしろいことしてーな。」

いつきは千都のギターの音色を聞きつつ、机に突っ伏しながら呟いた。この年代の男子が抱える気力体力の持て余しは等しく、二人にもあった。

「おもしろいことって?」

「スタンド・バイ・ミーみたいな冒険とかさ、あるじゃん。色々。」

えらく大それたところに目を付けたものだと、千都は唸る。

「この季節に死体は見たくないけどな。」

「そのままの意味じゃなくて、比喩なんだけど…。」

冗談通じないヤツだな、といつきは苦笑した。そして席を立ち、窓際まで行ってガラスサッシを開ける。いつきの柔らかい毛質の髪が風に煽られた。一瞬だけ感じた清涼感はすぐにむっとした湿気でかき消されてしまう。山沿いにある学校の配置から、周囲の木々に生息する蝉たちの大合唱が聞こえた。

「ミンミン鳴いてる蝉ってなんて言ってると思う?」

いつきの会話はぽんぽんと鞠が跳ねるように、話題を変える。

「知らね。」

千都が素っ気なく答えるといつきは、ふっふっふ、とからかうように笑った。

「セックスしてー、って鳴いてんだって。」

中学男子によくある猥談だった。

「それにしても、鳴けばセックスできるってすごいよな。まさしくセックス・アピール!」

「何、うまいこと言った気になってんだ。お前…。」

千都が呆れてため息をつくと、いつきの話題がまた飛んだ。「ゆきは本当、淡泊だよなあ。前に隣のクラスの青柳に告られてたけど、返事はどうしたん?」

「何で知ってんだよ。」

別に報告することもないだろうと思い、誰にも言っていないはずなのに。

「せまい町の小さな中学の連絡網をなめんなよ。」

「怖えーな。」

太陽を背に、いつきは振り返りニッと笑う。

「で?今、独り身ってことは断っちゃったんだ?」

「…まあ。好きでもないのに、付き合えないだろ。」

千都の答えに、いつきはうーんと首をひねった。

「好きじゃなくても、キスはできるんじゃね。」

「それ聞かれたら女子に刺されるぞ。」

「例えば!例えば、の話だって。そーゆーことを繰り返してたら、いつか好きになったりとかするんじゃないかなーって。」

手のひらをひらひらと振って、いつきは言う。

「身体から始める恋も良いんじゃないかって、俺は思うわけ。」

でも、といつきは千都を見た。

「女子からすれば、ゆきのそういう硬派なところが良いんだろうな。」

「…。」

千都は答える代わりにギターを奏でた。今でこそギターに夢中だが、始めた理由は不純だった。当時、いつきがはまっていた海外のバンドをコピーしようと思ったのだ。少しでもいつきに近づきたくて、言葉を覚える赤子のようだったことを覚えている。


冬休みに中学生でもできる短期の新聞配達をし、更に月のおこづかいを貯めて中古のギターを購入した。

千都がたどたどしく一音ずつ確かめるようにギターを弾いていると、いつきはすぐに反応を示した。中学の屋上で練習する千都の隣に座り、歌をうたうようになった。いつきがうたう外国語の歌詞は、何かの魔法の呪文のようで不思議な印象を受ける。どこの国の言葉なのかを聞くと、わからないと言われて千都は首を傾げた。多分、検索エンジンにかければ一発で引っかかるだろうと思うが、いつきはそれをしないと言い切った。

『だって、動画サイトで知ったからさ。知ってるのは曲とヴィジュアルだけなんだ。でも、それってミステリアスで格好良くね?』

彼には独特の美意識があるようだった。


千都が一番最初に弾き切ることのできた曲を奏でると、いつきも気付いたようだ。

「あ、それ聞くの久しぶりだなあ。」

そう言うと、次の瞬間にもいつきは歌を口ずさむ。瞳を伏せて懐かしむように、そして愛おしむように紡がれる無国籍の歌詞の意味はやはりわからない。

子守歌のように安らかに、民謡のように親しみやすく、賛美歌のように喜びをうたっているようだった。

二人だけのセッションを邪魔されるのはいつだって唐突だ。ガラ、と教室の重い木の引き戸が開く音が響く。

「そろそろ帰れよー。」

今日は、所属しているクラスの担任に遮られてしまった。もっといつきの歌を聴いていたかったのに。返事をしつつ、千都は小さなため息をつく。

「仕方ない、帰るか。」

いつきは広げたままだった教科書やノートの角を揃えて、学校指定の鞄に詰めていく。千都も頷いて、鞄を背負った。他愛もない会話は昇降口まで。いつきとは、校門をはさんで真反対の家路に着く。

「じゃあ、また連絡するから。」

そう言うと、いつきは本来は持ち込み禁止のスマートホンを振って見せた。

「おう。」

スマートホンの代わりに手を振って応え、千都は灼熱に揺れる道路の逃げ水を追うのだった。


男子同士でする猥談や、色恋沙汰の話にイマイチ気分の乗らない自分がいた。今日もいつきと話したセックスの下りに全く心が躍らなかった。

夜、千都は自室のベッドに寝転びながらぼんやりと天井の木目を眺めながら考えていた。

自分は周囲より、きっと性的な成熟が遅いだけなのだ。そのうち自然と性に目覚め、恋愛にも積極的になれるはず…だと思う。ただ、女子の膨らみかけた胸やスカートから伸びる足に視線が奪われる代わりに、親友であるいつきの白い喉元や長い手の指先に目が行くのが気になった。無意識に彼を目で追っていた。

その理由を探るために思考の海に潜ろうとした刹那、スマートホンのバイブレーションが僅かに震えてメールありのランプが光った。千都は画面をタップして、スマートホンを操作する。差出人は、いつきだった。

「…あ?」

【ナイトプール、なう!】

メールには写真も送付してあり、夜の暗いプールにいるいつきのピース姿の自撮りが写っていた。背後に見える校舎の様子から、通っていた小学校であることが窺い知れる。

「うわー…、アホだ。」

中学三年生の今、問題を起こしたら内申点に大きく響くだろう。千都は大きく手を額に当てため息をつき、ベッドから起き出した。親にコンビニに行くと嘘をついて外に出て、自らの自転車にまたがった。ぐっとペダルを踏みしめて小学校を目指す。

正直に校門から通ればプールに辿り着く前に職員室の教員に見つかるだろうことを予想して、千都は小学校を囲むフェンス沿いを自転車を手で押しながら辿っていく。職員室のある校舎から隠れているプールの更衣室の近くに着くと、フェンスに足をかけて身体を持ち上げた。

「よっと。」

カシャカシャと鳴る金属音がやけに大きく聞こえる。案外、この不法侵入に緊張しているようだった。

プールサイドに続く扉は確か壊れているはずだ。一定のリズムで揺すれば、かんたんに開く。千都は記憶をよみがえらせながら、砂利を踏みしめた。ふと見ると思った通り、扉は破壊の気配なく開いていた。小学生の頃、一緒にこの扉の秘密を暴いたいつきの仕業だろう。

「…。」

飛び込み台に立ち、プールを見渡すといつきが中央で服を着たまま仰向けに浮いていた。満足そうに目を閉じて、ぷかぷかと水面を漂う様子はクラゲのようにも見える。

「おい。こら、このやんちゃ坊主!」

千都が僅かに声を張ると、いつきが驚いたように目を開けた。

「うわっ、びっくりしたー…。なんだ、ゆき。お前も来たのか。」

さっぷさっぷと泳いで、いつきが千都の元へと近づいてくる。その弾みで水面に丸い波が生じた。普段、その他大勢の児童の存在により見たことのない波形だった。

「びっくりしたのはこっちだ。受験生が問題起こすなよ。」

プールから引き上げようと手を差し伸べると、いつきはにっと笑い千都のその手を強く引っ張った。

「!」

千都は足で踏ん張ろうとして、濡れたプールサイドに滑り呆気なく水中に引きずり込まれてしまう。どぼん、と音と大きな飛沫が立った。

白い泡が周囲を包み、耳の鼓膜を濡らして音が響きにくくなる。一瞬上下左右がわからなくなって、焦って瞼を持ち上げると目の前にいつきの顔があった。その瞬間、空気を吸い込もうとして水を大量に飲み込んでしまう。

やばい、と思った。このままでは溺れる。

ふう、と吹き込むように温かい酸素が千都の口の中に注がれた。気付けばいつきと口移しで、酸素の共有をしていた。小さな気泡が触れあった唇の端から漏れていく先を見て、上という方向の概念が沸く。夏の太陽に温められた余韻を残す水よりも、爛れるように熱い唇だった。

やがて互いの肺に残る酸素も尽き、いつきに手首を掴まれて水面へと浮上した。

「…。」

しばらく二人は呼吸が荒く、整うまでに時間が掛かった。

「な、んで…、」

千都が呆然といつきを見る。ぱたぱたと前髪の毛先から雫が滴り落ちて、瞳を伏せているいつきの目色がわからない。

「こらー!!勝手にプールに入るな!」

若い男性の声が静寂を破り、響き渡る。どうやら先ほどのスプラッシュ音は小学校の校舎にまで届いてしまったようだ。

「やば、おい!逃げるぞっ。」

千都はいつきの腕を掴んで、慌ててプールから上がる。そして隠した自転車の元に二人で走った。待ちなさい、と言う制止を振り切って千都といつきはフェンスをよじ登り、校外へと着地する。

「いつき、乗れ!」

千都は先に自転車にまたがって、いつきに二人乗りを命じた。いつきもまた大きく頷いて、千都の自転車の荷台に乗る。背後を確認すると、千都は全力でペダルをこいだ。

背景がすさまじい早さで後転していく。風を切り、濡れた服が気化熱で冷えていった。月の伴走と供に、二人を乗せた自転車が町を駆けた。

「千都ー!」

いつきは気分が高揚したかのように名前を叫ぶ。

「何!」

千都も負けじと声を張った。

「好き!お前が、好き、だよ!」

こつん、と叫び終えたいつきが額を千都の背にくっつける。温もりが濡れた服に滲むようだった。

「…ごめん。」

呟かれた言葉に、先ほどまでの勢いはない。細く、掠れるような声音に千都の心が震えた。

「何で、謝るんだ?」

千都は問う。

「…迷惑、だろ。」

「別に。」

「お前、優しいから。」

んー、と千都は考える。

「いつき、身体から始める恋でも良いって言ったじゃん。」

「言いましたね…。」

何で敬語なんだよ、といつきの様子に千都は吹き出した。そして、胸がすとんと腑に落ちた。

そうか、この感情は好意だったんだ。友愛でも、親愛でもなくこの好意は、恋愛だ。

「良いじゃんか。キスから始めようぜ。」

「え、…どこ行くんだよ。」

戸惑ういつきを乗せて、千都を行き先を決める。

「コインランドリー。服乾かさねえと、家に帰れねえだろーが。」


ここら地域の店は閉店の時間が早い。ひっそりとした商店街に煌々と光るコンビニで下着だけを買う。びしょ濡れの中学生男子二人組を見てもいぶかしむような顔を一つも見せないアルバイト店員は、優秀だと思った。

商店街を抜けて、住宅街の外れにあるコインランドリーに向かった。中を覗くと幸いなことに店内に人はいない。

「面倒だから、乾燥だけでいっか。いつきも脱げよ。」

千都は着ていた衣類を脱いで、乾燥機に放り込む。

「下着も!?」

買った下着に履き替える千都を見て、いつきは目をそらしつつ挙動不審になる。

「いや、だって、下着が一番濡れてたら気持ち悪りぃじゃん。肝心な部分が隠れてんだから良いだろ。」

「そこしか隠れてませんけどね!?」

よく見ると、いつきの顔が真っ赤に染まっていた。

「形もボクサータイプだし。…水着と一緒だって。」

千都は困ったように笑う。だが、いつきとしてはそういうわけにはいかないようで。

「あー…。うー…。」

いつきは踏ん切りが付かないのか、何か呻いている。

「…。」

その様子を、千都はじっと見守る。そして。

「脱がしてやろうか。」

「自分で脱ぎますごめんなさい。」

千都の申し出をいつきは早口で拒否して、ようやく服に手をかけるのだった。

いつきの希望で背中合わせに座って、千都は乾燥機で回る衣類を見つめた。二人分の服が一緒くたになっていく。

「…。」

「…。」

しばらくの沈黙を守るように、コインランドリーに備え付けのラジオからリクエストされた歌が流れていた。それは人気アイドルがうたう、今の時期にぴったりなサマーソングだった。明るく弾けるような可愛らしい歌声に電波が悪いのか少々の雑音が混じる。

「…乾いても、塩素臭いんだろーなー。」

いつきがどうでも良い話題を紡ぐ。自分でもどうすれば良いのかわからなかったのだろう。

「洗剤使ってねーからな。びしょ濡れよりはマシだけど。」

千都もその話題に付き合った。

「えーと、その。その節は大変申し訳ありません。」

「全くだ。」

謝るいつきは再び、黙り込んでしまう。

「…。」

「…焦れったいな。」

千都はぽつりと呟く。

「え?何、」

その呟きが聞き取りづらかったのだろう、いつきが僅かに振り返った。千都はその瞬間を逃さずに、すかさずいつきの唇にキスをする。

「っ…ぅ。」

千都は体をよじる間も、角度を変えていつきの唇を貪る。逃げようとするいつきの後頭部に手を差し入れて固定した。「ゆ、き、」

自分の名前を呼ばさず、いつきの開いた口に千都は舌先を少し入れる。いつきの肩が跳ねて、噛まれるかな、と警戒したがそんなことはなく恐々と受け入れられた。

熱く滑る舌の感覚が気持ちいい。初めて経験する粘膜と粘膜の接触だった。

やがて、千都は満足してそっといつきを解放した。唇の先と先が、ゆっくりと離れていく。名残を惜しむように混ざり合った唾液が糸を引いた。

「…千都。」

いつきの声音が震えていた。

「何。」

「お前にも性欲ってあったんだ。」

風情の無い言葉選びに、千都は軽い力でいつきの頭頂部に手刀を食らわせる。

「何だよー。なんで殴るんだよー。」

「ちょっとムカついた。」

唇を尖らせる千都を見て、いつきは笑った。

「ごめん、感動したんだ。」

「性欲に?」

うん、といつきが頷く。

「淡泊なお前が、俺に性欲を抱いてくれたことに。」

「…まあ。」

「あー。明日も補習か!」

いつもの調子を取り戻したいつきが、背伸びをする。そして、ふと呼気を漏らしながら呟くのだった。

「夜が終わらなければ良いのになあ。…本当に。」


この声は誰にも聞こえない周波数、52Hzのはずだった。でも、どうやらクジラは二頭いたようだ。

唯一無二で、たった二頭きりの52Hzのクジラたち。


彼らに真夏の月の祝福あれ。


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