猫みたいな隣人
学校から徒歩十分の距離にあるマンションで、両親が息子の一人暮らしに真剣に悩んだ末に立地と安全面からの妥協点として選ばれた場所だ。
学生の一人暮らしにしては、立派に過ぎるセキュリティと広さである。
フロントのオートロックを通過し、カズヤは借りている三階の部屋まで会話も無く図書室の少女を誘導する。
いつも階段で行くが、図書室の少女への負担を考えてエレベーターを選び、その間も沈黙が続いている。
本来なら話題提供でもして帰り道を和ませるべきであり、静かな時間は長引くほどに緊張感の重さだけを増していく。
しかし、幸か不幸か現在のカズヤにそんな事を気にする余裕がなかった。
思えば、誰かを部屋に上げる事など初めてだった。
それは実家でも同じである。
今も昔も少数ながら友達はいたし、放課後や休日に遊んだ時間だってそれならにあるものの、人を招いた経験だけが皆無。
寂しそうな少女の横顔にこのまま帰してはならないと衝動的になって誘ってしまったカズヤの脳内にはプランすら無い。
相手をどう饗せばいいかも分からない。
「家に何があったっけ……何か飲みたい物ある?」
「いえ。お構いなく」
「あれ? これ家に入ってからやるやり取りじゃ……」
いよいよ矢番の標札が入った扉の前に着き、ここに来て来客用のお菓子などを備えていなかった事を思い出して歯噛みする。
あるとすれば、昨日の晩に作った味の濃さと量だけを重視した男飯。
それと、隣に住んでいる家族が一人暮らしの少年の生活を案じて厚意でくれるタッパーに詰められた残り物。
カズヤは鍵を取り出し、鍵穴に挿して捻る手が重く感じた。
「何だか不安そうな顔をしてますけど」
「取り敢えず、上がってくれ。来客用のお菓子とか買ってくる」
「帰り道で調達すればよかったのに」
「仰るとおりです」
少女は気にしませんよと口にするが、その声色が呆れの色を多分に含んでいる。
己が如何に日頃から配慮のない人間であるかという人を家に招いた経験の無さだけでは言い訳が付かない事を痛感し、悲泣の涙を堪えてカズヤが扉を開く。
それと同時に隣の扉が開いた。
「あ、お疲れ。いま帰りなんだ?」
肩口までの黒髪を揺らして一人の少女がカズヤに微笑んだ。
「そうだけど」
「また勉強? お疲れじゃん」
「そっちも蕎麦屋のバイトか」
今出てきたばかりの少女は帰ってきたカズヤを労いながら、オーバーサイズのパーカーからすらりと伸びた白い足の先で、履いたばかりの靴に爪先を入れるように床を叩いている。
「男手も欲しいんだけどなー」
「勧誘なら勘弁してくれ。勉強で手一杯なんだからさ」
「へー。ベンキョウ、ねえ」
ついと生気の強い黒の猫目がカズヤの後ろにいる図書室の少女を捉えた。
その眼差しが勉強で忙しいと言い訳するカズヤの言葉が矛盾していると指摘しているようだった。
「学校の友達」
「あ。その子が好きな子?」
「くぉふっ……そ、そうかもな。って何て知ってんだよ」
「帰宅部の男が急に筋トレとかランニング始める理由なんて簡単に見当付くし」
いつも通り玄関口で少女と世間話を始めてしまったカズヤは、何故かいつも以上に攻撃力の高い彼女の発言にダメージを受けて蹌踉めく。
「あの、カズヤ君。この人は?」
「カズヤ君……!?」
「へえ」
二人の会話を静観していた図書室の少女が口を開いた。
ずっと客人を部屋の前で放置してしまっていた事に気付いたカズヤだったが、それよりも名前呼びされた事に驚いた。
呼び方は「矢番くん」だった筈である。
そもそも俺は君の名前を知らないのに君は俺の名前知ってるんだな、と声に出したら説教間違い無しの感想も驚きのあまり口に出そうだったのを堪えた。
「あ、えーと……この子は
「そ、そうなんですね。仲が良いみたいで驚きました。カズヤ君、学校では浅木樹さんとしか話しているところを見た事が無いので、てっきり他に友達はいないのかと」
「ま、まあ」
それだけ葉桜海しか見えていなかったというのは決して口にしない。
カズヤは友達の少なさと失恋を一挙に自覚させられるダブルパンチに吐血しそうになった。
「あたしにも紹介してよ」
「え……?」
隣の家の少女――弓野奏もまた図書室の少女が気になっているようで、カズヤに紹介を求めていた。……が、これがカズヤを大いに戦慄させる。
名前……名前……?
そんなものは知らない。
しかし、ここで正直に名前を知らないなんて口にすれば、奏の目には名前も知らない女子を家に上げる不審な男として映り、図書室の少女からはこの半年間で名前を記憶していない最低男として認識される。
再び、保身の為にカズヤの思考が一瞬で高速回転し、この場を切り抜ける立ち回りを考案する。
「この子はいつも一緒に勉強する子で、名前は……と、バイトの時間はいいのか?」
「あ、たしかに」
「急いだ方がいいんじゃないか?」
「んー。まあ、そうだね」
奏がスマホで時刻を確認して顔を歪める。
カズヤは知っていた。
奏とはいつも完全下校時刻前まで図書室で勉強をして帰った時に玄関で鉢合わせて世間話をしている。
その中で彼女がいつも会話を切り上げてバイトに急いでいる時もあった。
今のカズヤは、その経験から会話中にふと気付いたようなふりをして奏のバイトを理由に話を終わらせ、紹介を自然に中断して有耶無耶にしよう作戦……を実行したのだ。
「じゃあ、また今度聞かせてよ」
「ああ。バイト頑張って」
「……ん」
奏はどこか納得していないような顔で二人の横を通り過ぎていく。
その時にカズヤに肩を擦り付けるようにぶつけて行った。痛くはないが、偶然とは言えない接触にカズヤも触れ合った右肩を擦る。
「何だ?」
「……猫みたいな人ですね」
「ああ。俺達とは違う高校に通ってるらしいけど、そこでの過ごし方を聞くと日向ぼっこが好きだったりとかして何か猫っぽいって思う」
「はい。そうなんでしょうね」
図書室の少女は、ぐいとカズヤの右肩に自身の左肩を押し付けてグリグリと押し始める。
「え、なに?」
「早く家に入れてください。客人ですよ」
「急にめっちゃ図々しいじゃん」
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