ごめんなさい、椎名さん
明日には恋人を紹介すると樹からの強烈な惚気攻撃を予告され、カズヤは放課後に重い足取りで図書室を訪れる。
相変わらず人が少ない静けさは、ここ数日気を張る事の多いカズヤにとって数少ない憩いの場になりつつある。
定位置とも言える席へと向かうと先客がおり、今日も勉強をしに来たであろう図書室の少女がいた。
しかし、その他に二人が彼女の傍に立って話しかけていた。
一人は春馬、もう一人はその恋人の学級委員長こと
いつもの席に美男美女が密集していると入り難い謎の空気を勝手に感じ、カズヤは立ち並ぶ書架の影に隠れた。
「なあ、また昔みたいに遊ばないか」
「昔も今もあなた達と仲良くした覚えはありません」
「なっ。春馬が譲歩してあげてるのにそんな言い方」
「何様ですか」
聞こえてくる内容は揉めているようだった。
折角の憩いの場で修羅場を展開されて今日は帰ろうかとカズヤは考え始める。
「……勉強に集中したいのでもう話しかけないでもらえますか。それに彼が来た時に浮気だと疑われたくないので」
「そ、そんな」
「っ春馬。もういいから行こ!」
図書室の少女に冷たくあしらわれて狼狽えている春馬を涼宮が強引に腕を引いて連れて行く。
自分の隠れている書架の方へずんずん歩く二人にカズヤは逃げようとしたが、その前に二人の目に留まってしまった。
「あ、矢番。……見てたのか?」
「えーっと、話してる内容は聞こえなかったけど、途中から見てました」
「そ、そうか」
「聞いてよ、矢番くん。あの人酷いんだよ春馬の話を聞こうともしないの」
二人と会話をしていると、声で気付いた図書室の少女もカズヤの方を見た。
図書室の少女の眼差しと、彼女を批難する涼宮の同意を求める声を同時に受けて胃がきりきりと痛み始める。
普段から話すわけではないが学級委員長とクラスメイトとして交流している涼宮を否定しても以後気まずくなるし、ここで涼宮に同調してもこれから隣の席で勉強する上に今まで親切に教えてくれた図書室の少女との軋轢を生む。
瞬間、カズヤの脳が保身の為に思考を加速させる。
答えを導き出すまで僅か一秒。
涼宮に同調せず、だが決して否定はしない無難な受け答えを思いつく。
「図書室だから騒ぐと怒られるし、あの子は勉強したいみたいだから。今じゃなければ、聞いてもらえるかもな」
「そ、そうかな……?」
怪訝な顔の涼宮にカズヤは何度も頷く。
「心音。矢番くんの言う通りだし、行こうか」
さっきから押し黙っていた春馬もカズヤが困っていると察して、甘いウインクを一つだけ残して涼宮と共に図書室を去った。
嵐の去った後のような安堵にカズヤはその場に崩れ落ちそうになる。
「き、今日は席を変えようかな……」
「ここ」
「へっ?」
「あなたはここです」
情けなく胃の痛みに堪えながら避けようとするカズヤの逃げ道を図書室の少女が無慈悲な一言で塞ぐ。
獲物を捉えた肉食獣のような眼力に射竦められたカズヤは、ハイと小さく声を絞り出しながらいつもの席に着席した。
図書室で少女といつもの勉強を終えたカズヤは、昇降口を出て体に吹き付けたやや冷たい風を追うように比企山を見上げた。
冬をもうすぐ迎えるので日が落ちるのは早い。山中には舗装されている道が一筋伸びているが、遠目にも灯りが少なくて不審者でも潜んでいそうな暗さだと分かる。
そんな道を通らなければ、やや麓より高い場所にある鈴月高校の寮棟には着かない。
カズヤは遠くに見える木造建築のそれに苦笑する。
カズヤも現在は一人暮らしだ。
親の厚意でマンションの一室を借りている。
そんな状況でさえ、受験に落ちていなければとか偏差値だけで滑り止めとして選んで毎朝登校の坂道に文句を言っている後悔を噛み潰している。
そんなカズヤの不満もあの寮棟から通い、そして帰る人の苦労に比べたら駄々っ子も同然だ。
一度だけ興味本位で歩いたが、勾配がきつく夕方は足元が見えづらくて転倒しないか恐ろしくなる。何より寮自体が古く、それこそ幽霊屋敷に見えなくもない。
よく住めるな、とすら感心する。
カズヤがため息を着くと、後ろの昇降口から靴を履き替えた図書室の少女が歩いて来る姿を見つけた。
「君もいま帰り?」
「はい。あなたは寮の方を見てたようですけど、どうかしましたか?」
「よく俺が寮を見てるって分かったな」
「あなたの事なら」
豊かな胸を張って自慢げな少女だが、当然のように理解されているカズヤとしては不思議でしかない。
「それじゃあ帰りましょう」
「ああ、うん。お疲れ」
「え?」
「え?」
歩き出す少女を見送ろうとしたカズヤだったが、意外そうな顔で振り返った彼女と同じ声が漏れてしまう。
「もしかして、一緒に帰ろうって話だったか?」
「それ以外に何かあるとでも?」
「俺が悪かったから、そんな冷たい声で言わないでくれ」
「さあ、早く」
「えー……うーん」
少女から一緒に帰ろうと誘われているが、カズヤとしては頷き難かった。
嘘でも椎名さんと交際している手前、他の女子と帰宅している姿を誰かに見咎められたら浮気というスキャンダルまたは嘘だったと露見する。
そもそも椎名さん本人と帰宅していない時点でカズヤは自身の嘘がもう皆に見透かされていてもおかしくないと思っていた。
「何か躊躇う理由があるんですか」
「君と帰ったら浮気にならないかって考えてる」
「なりません。大丈夫です」
さあ、と少女が手を差し出す。
その勢いに圧されて隣に並ぶと強引に手を繋がれて二人で帰り道を行く事になった。
嘘の恋人への浮気に胸ではなく胃が痛くなる気分でカズヤは悶々と歩き続けた。
「今日は勉強させづらくさせてすみません」
「何の話……って、竜胆たちのことか」
「はい。わたしの隣に座る事を躊躇わせてしまったみたいですし」
「いや、もう気にしてないよ」
「もう、って事は気にしてはいたんですね」
「そこは拾わないでくれよ」
「見逃したりしませんよ。あなたの事なら一切」
図書室の少女が穏やかに笑う。
言い方が一々引っかかるなとカズヤはなんとも言えない気持ちになりながら、美しい笑顔を前に深くは考えない事にした。
「竜胆とは友達だったのか?」
「いえ。両親が知り合いで小さい頃から知り合いではありましたが、関係が複雑で説明に困ります」
「幼馴染ってやつか。俺もいたけど、地元を離れた後は連絡取ってないな」
「地元から離れて? では、今は一人暮らしですか?」
「うん」
一人暮らしだと認めると、少女がキラキラと目を輝かせる。
一人暮らしに憧れがあるのか、何が琴線に触れたか分からないカズヤは視線から逃げるように顔を背けた。
元々第一志望だった高校も、第二志望だった鈴月高校も偏差値は勿論のこと、地元から離れているからという理由で選んでいる。
他人に憧れられるような事情ではないので気まずかった。
「いいですね。……私は実家からの通学ですけど、いつもいない者扱いされるから息苦しくて。だから一人暮らしって憧れます」
少女はさっきと一転してやや陰りを帯びた面持ちでそう呟いた。
実家で肩身が狭い思いをしているのか、複雑な事情を孕んでいそうな雰囲気を醸し出していた。
カズヤはその姿を見て思わず。
「よかったら、今から俺の家に来る?」
「えっ?」
「えっ? ……って、また声被った」
心底驚いたようで勢いよく振り返った少女とまた同じような声が出た自分にカズヤは可笑しくて笑ってしまった。
「どうする?」
「……お邪魔して、いいですか?」
「おう。君が良ければ」
カズヤは二つ返事で了承し……次の瞬間にあ、と気づく。
嘘とはいえ他に恋人、それも人気者らしい椎名さんがいる身で他の女子を家に誘うのは危険な行為ではないかと思い至った。
人目は何処にあるかも分からない。
しかし、さっき見た少女の様子を放っておけず反射的に口についた言葉を撤回すれば、また彼女を悲しくさせてしまう恐れがある。
「ごめんなさい。椎名さん」
「何がですか?」
「え?」
「え?」
何度目か分からない同じ声の重なりにまたカズヤは笑わされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます