02 変身

 この体は竜に飲まれて胃の中で消化されたのだろうか、それとも船の残骸もろとも、大気圏落下中に燃え尽きたのだろうか。

 

『痛たたた』

 

 痛覚があるということは、生きているということだ。

 身を起こそうと体をひねると、何か感覚が違う。呻いた声も、ひゅうひゅうと掠れた吐息になった。

 真下に水溜まりがあり、覗き込むと怪物の姿が映っていた。


『り、竜?!』


 驚いて後退すると、水溜まりの中の竜も驚いて跳び跳ねた。

 ばちゃりと水滴が散る。

 全身が水に濡れていた。

 カケルは呆然とする。見上げると、どこまでも青い空が広がっており、視線を降ろすとカケルを中心として大地に穴が空いていた。穴には水が溜まっている。どうやら上からシャワーを掛けられたようだ。

 本物の空を、初めて見た。船の中には、投影された偽物の空しかなかったのだ。天から降る水は、雨だろうか。

 深呼吸すると、風の匂いがした。

 種類が分からない植物の香りも。

 カケルは、その非常に出来が良いと言われた脳を、一時的に思考停止させた。いくらなんでも、受け入れるには時間が掛かった。

 水溜まりを覗き込み、首を振ってみる。

 水面をそっとつつくと、波紋が広がった。

 恐る恐る見下ろすと、右手は蒼い鱗が覆われ、鋭い鉤爪が付いた怪物の手に変じていた。


『僕は、竜になったのか』

 

 誰も答えてくれない。だが、それが正解だと、カケルは理解した。

 竜化は移る病だったのだろうか。確かに、星にいた人間たちは、大戦の影響で怪物【竜】になってしまったと聞いているけれども。まさか、星に降りただけでそうなってしまうとは、知らなかった。

 水溜まりに映り込んだ自分の姿を、じっくり観察する。

 鱗の色は、青色。

 カケルの大好きな青い小鳥の色だ。

 うむ。

 これは中々、幸先が良いのではなかろうか。

 鼻先がしゅっとしており、尻尾は長くしなやかだ。額の二本の角は、磨かれた銀色に輝いている。よく見ると格好いい竜の姿だ。怪物は怪物でも、悪くない部類である。


『この翼で、空を飛べるのかな』

 

 コウモリ型の翼を動かしてみたが、体が浮く気配は無かった。

 空を飛べるというのは大きなアドバンテージだ。これから、この地で生きていくにあたり、助けになるだろう。飛行訓練をせねば。

 この時点で既に、カケルはだいぶ前向きだった。

 元より、帰りたい場所はない。家族の中で、カケルは一人異分子であった。司書家ライブラリアンの使命にも興味はない。昔から興味があったのは、窓の外の世界だけだった。

 であれば、この未開の大地で一人生きていくのも、別に構わないではないか。

 




 カケルは翼を引きずり、移動を開始した。

 竜がペタペタ歩くのは珍妙だが、飛べないのだから仕方ない。食べ物を探して歩き回る。ものは試しに、緑色のボールのような果実をかじってみたが、美味しいと言えなかった。

 しばらく歩き回り、歩き疲れて木陰で眠った後、腹が空かないことに気付いた。この体は補給を必要としていないらしい。

 空を見上げると、天高く舞う竜の姿が見えた。大地を這っているのはカケルだけのようだ。同種の生物と会話してみたい誘惑に駆られたが、友好的に接してもらえるのだろうか。同じ人間ですら、同じ種族というだけでは仲良くなれないのに。いや、第一、竜のいるあの高い空まで昇っていけない。

 飛行訓練しなきゃ。でも、どうしたらいいだろう。翼をバタバタして、ピョンピョン跳ねてみたが、全然飛べる気がしない。おかしいな、翼の面積的には空を飛べる大きさだと思うのだが。

 小さな動物や虫が、カケルのそばをチョロチョロ走り抜けていく。

 木の枝から果実をむしって地面に置くと、栗鼠りすのような生き物が寄ってきて果実を食べた。可愛い。

 付近に、カケル以上の図体の大きい生き物は、見当たらなかった。危険がないことは幸いだが……。

 何日もペタペタ歩いて、やっと見晴らしのよい場所まで来た。

 断崖絶壁の上に登り、はるか遠くまで眺望する。

 乾いた大地と、奈落まで落ちそうな深い谷が延々と続く彼方かなたに、シャボン玉のような淡い光の球体が見える。あれはいったい何だろう。まるで大地に転がった水晶球のような、あるいは地面にひっくり返ったお椀のような。


『もしかして、これが寂しいって、気持ちなのかな』

 

 そのシャボン玉を見ている間に、カケルは何故か不思議と切なくなってしまった。それは一種の予感だったのかもしれない。シャボン玉の正体を、第六感で気付いていたのかもしれなかった。

 人間と会話しないと、言葉を忘れてしまいそうだ。

 人間として生まれてきたのに、野の獣として生きる意味はあるのだろうか。思考を忘れ獣と化した自分は、はたして自分と言えるのか。


『いけない、いけない』


 暗い思考に陥りそうだったので、首をふるふる振って追い出す。

 まだ空を飛んでいないのだ。

 後悔するのは、飛んでからでもいい。


『あそこまで、行ってみようか』


 目標を立てるのは、カケルの趣味みたいなものだ。

 あのシャボン玉の前まで行く。

 空を飛ぶ方法を見つける。

 当面の目標は、それでいい。

 こうしてカケルは、ペタペタ、ペタペタ、また何日も歩いた。

 シャボン玉はなかなか大きくならない。実は、相当大きいシャボン玉だったのだと、近付こうとして初めて気付いた。なかなか手強い目標だ。

 まあいい、のんびり歩いて行こうと、この時は思っていた。

 しかし、想定外の出来事が起こった。

 空から、女の子が落ちてきたのだ。

 いや、正しくは女の子の乗った飛行機が、目の前で墜落した。

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