四月の縁

もりひさ

四月の縁


 四月の縁を探しに行く。荒んだ白いスニーカーに足を入れて、私はアパートの扉を開けた。閉める前に少しだけ部屋の方に顔を向ける。大学に入ってから三年間使ってきた部屋の後片付けはもうほとんど済んでいた。部屋に取り残されたのは、先週五月にめくれたカレンダーだけだった。

「真香さん。そろそろ行きますよ」

 先に外に出ていたトシヒコさんの声が聞こえて、私は急いで扉を閉じる。部屋が一階にあるので、急がなくてもすぐにトシヒコさんの元には辿り着けるが、トシヒコさんが待っていると思うと私の足は勝手に小走りになっていた。

「じゃあ、行きましょうか」

「行くってどこにどう行くんですか?」

 私が真面目な顔で聞くと、トシヒコさんも真剣な顔で「四月の縁を探しに行きます」と出る前に私に告げた言葉を繰り返した。トシヒコさんが季節外れな黒いロングコートを細身の身体に纏って、顔色一つ変えずにそういうので私は少しだけ笑ってしまった。でもその内側は一年間を東京で過ごした大学生らしい服装をしている。背丈も私より大きいし、顔の彫りも深いので、こういうことがないと私はトシヒコさん年下だということを忘れてしまう。

「もう五月ですし、それにコート。暑くないですか?」

 歩き出したトシヒコさんに私がそう尋ねる。トシヒコさんは振り向かずに「買った時にこのセットだったんですよ」と小さな声で言った。その仕草がまだ年下らしいと私はまた少しだけ笑みを含む。けれどそういう些細な遠慮が私とトシヒコさんの関係には必ず必要だった。

 私はトシヒコさんのことをよく知らない。それと同じようにトシヒコさんも私の詳細な情報を持ち合わせていなかった。トシヒコという名前も出会い系サイトに登録されていた名前がそうだったというだけで、本名は違うのかもしれない。卒業したら地元に帰ると決めていたので、私がトシヒコさんに教えた真香という名前も完全に偽名だった。そちらの方が後で何かトシヒコさんとの間に不測の事態が起こった時に姿を消せるし、いわゆる恋愛で必要なことは私にとっては求めても仕方がなかった。

「あるとしたら駅の方ですかね」

 トシヒコさんと私はアパートの周りを不規則に曲がりながら大通りに出た。日差しが雲にかかって、辺りがにわかに暗くなる。しかし冷たい風や冴えた空気は完全に姿を消していた。

「どうしてですか?」

 私はつい先日切った短い髪を気にしながら、振り返ったトシヒコさんを見る。トシヒコさんは遠慮がちに目を伏せて、言葉を探していた。

「無理に答えなくても大丈夫ですけど」

 私はその様子を見て、言葉を付け加える。

「いや、その。暦上の数字は五月ですけど、まだ取り残されているものもあるなと思ったんです。昨日の夜。した後にベランダに流れてきた桜の花弁とか」

「ええ」

 私は質問の答えになっていないと思いながら相槌を打つ。

「それで?」

「えっとですね……」

この会話を聞いているのは私しかいないのに、なんでわざわざ「した」なんて濁した言い方をするのだろう。むしろその「した」の中身こそ私達の関係の主軸だった。約一年間、会える日に会って、セックスをするだけ。そういう関係で付き合っていたんだから、もっとはっきりした言い方をすればいいのに。トシヒコさんを詰まらせる言葉はいくつも浮かんだが、私はとりあえずトシヒコさんの答えを待つことにした。

 大通りには止まることなく車が通っていく。自転車がトシヒコさんの背後からベルを鳴らす。トシヒコさんは必要以上に飛び退いて道路の端に移動した。

「なんというか。かわいそうじゃないですか。僕達は次の月に進めるのに。だから四月の縁を探して……」

「探してどうするんですか?」

「五月に彼らを送り出してあげたいんです」

 そこだけは妙にはっきりと言った。携帯を取り出して時刻を見ると、後もう少しで午後になろうとしている。私はカレンダーを開けて予定表を確認した。地元の会社に最初に出社する日は四日後だった。その二日くらい前にお見合い相手が来るから、実家に顔を出すように親には言われている。今日の夜中に新幹線に乗っても、明日の朝には余裕を持って着いているだろう。   

お見合い相手は上京する前から決められていた。自分のことながら本当に律儀でよくできた娘だと、私は溜息をつきながらトシヒコさんを見る。

「あ、ピアス開けたんですね」

 耳たぶで陽を反射して輝く、銀色の球体を見て私は今更ながらに言った。それからトシヒコさんの返答も聞かずに「じゃあとりあえず川の方に行きましょうか」と理由もなく行き先を決めた。それが私にとっての精一杯の時間稼ぎだった。

 数段の階段を登って川沿いの歩道に出ると、近くの保育園の子供達が列を成して、知らない春の童謡を歌っている。先に歩道に出たトシヒコさんは微笑んで「今のも、四月に取り残されてるんですかね」と私の顔を覗いた。

「子供達がですか?」

「いえ、あの歌です」

「どうなんですかね」

 特に考えも巡らせずにそう告げる。

「でも、春の童謡ですよね。だったら季節的にはまだ五月も春だから問題ないのかな……」

「四月の童謡ってあるんですか」

「え?」

 私は軽はずみにトシヒコさんに尋ねて、日陰のベンチに座る。でも、もし四月の縁から五月の方へと突き落としてしまったら、少なくともあの童謡はもう四月の歌にはなれない。そんなことは起こりようが無いはずなのに、私は心のどこかでそうなってしまえと願っていた。私がこの場所に戻れなくてあの童謡だけがここに残るなんて、そんなの不公平だ。

「やっぱりなんでもないです」

 トシヒコさんはきょとんとした顔で向き直って、川の向こう岸へと目を細める。同じように私も川の方を見た。光の粒をまいて、水面を緩やかな風が撫でている。向こう岸に並んだ桜並木を吹き飛ばすほど風は強くない。そして散るほどの桜も木々にはもう残っていない。川の歩道は四月に来た時よりも明らかに閑散としていた。

「真香さん」

「はい」

 トシヒコさんは立ったまま、妙に真剣な面持ちでこちらを向いた。眉毛の部分が押し出て、ほとんど影になっている瞼がよく見える。私が目を合わせるふりをして、いつも目線を着地させる場所だった。

「お世話になりました」

 トシヒコさんは頭を下げながらそう言った。

「いえ、こちらこそ」

 私もちゃんと立ち上がって頭を下げる。どこか拍子抜けたような気持ちを携えたまま、近くの店でお昼ご飯を食べて、アパートの前であっさりと別れた。四月の縁は結局探さなかった。

 アパートの扉を開けると、途端にぼやけていた今日の記憶を鮮明に思い出した。四月の縁を探しに、トシヒコさんが私を誘った理由がすぐにわかって私は心の中で笑った。アパートの前でもお礼くらい言えるのに、トシヒコさんは最後まで真面目だった。

 玄関に吊り下げられて、取り残された五月のカレンダーが四月の方にめくれている。四月の最後の日までは私もかろうじてこの部屋に住み、大学生の面影を残していることができた。友達もそれなりにいたし、ただ単に身体の関係だけだったけど、異性との交流も持つことができた。限られた条件の中で、最大限に立ち回れる大人にいつの間にか私はなっていた。多分こういう思い出を地元で振り返った時に私は楽しいと思ってしまうのだろう。

 フローリング床の奥にカーテンを取り払われた生身の窓が見える。窓を開けると、ベランダの手すりに桜の花弁があった。緩い風が頬を掠めて、ベランダの端にひっそりと佇んでいた桜の花弁を揺り落とした。

 その花弁に手を引かれるように、私はベランダの手すりに手を掛ける。地面は近い。どう身体をぶつけても、せいぜい打撲くらいだろう。腕に力を入れて、左足を持ち上げる。近所の裏庭を手入れしているおばさんが通りかからないかと心配になったが、どうせ明日にはいないのだからと自分を説得した。

 冷たい金属の感覚を手の平に感じながら、ゆっくりと手を離す。ぽすんと情けない音を立てて、私のスニーカーは地面に着地した。振り返ると随分と暗くなって、生活の気配も消えかかった部屋が覗いている。雲から抜けた日差しがちょうど花弁のあった手すりの部分に、暖かい日向を作っていた。私の四月の縁はそこにあった。

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