そして毒蜘蛛は可憐な蝶を手に入れた

 トゥルシ城にて。

「セラフィーナ、そろそろ休憩にしよう」

 イヴァーノはペリドットの目を優しく細める。

「だけどイヴァーノ、まだ処理するべきことはたくさんあるわ。書類だって溜まっていることだし」

 セラフィーナは目の前に溜まっている書類を見て苦笑する。

 これらは全てトゥルシ侯爵家当主の仕事である。

 現在トゥルシ侯爵家に残っているのはセラフィーナだけなので、彼女が当主代理として仕事をしているのだ。


 トゥルシ侯爵家では、セラフィーナの義妹いもうとフルヴィアだけでなく、セラフィーナの父アブラーモと義母ははボーナも立て続けに亡くなって混乱状態に陥っていた。


「だけど、さっきからセラフィーナは根を詰め過ぎているよ。僕が連れて来た従者達に紅茶を入れさせるから休もう」

 イヴァーノは少し強引にセラフィーナに仕事を切り上げさせた。そして自身が連れて来た従者達に紅茶とお菓子の準備をさせる。

「それに、前よりも健康的になったとは言え、セラフィーナはまだ痩せ過ぎているからね」

 イヴァーノは心配そうな表情である。


 アブラーモとボーナが亡くなって以降、イヴァーノはセラフィーナを案じてトゥルシ城へ泊まり込んでいた。自身が連れて来た従者達に栄養バランスが取れたら食事を作らせて痩せ過ぎてボロボロだったセラフィーナに食べさせた。そのおかげで彼女のアッシュブロンドの髪には絹糸のような艶が戻り、肌の荒れも治っていた。ラピスラズリの目にも輝きが戻り、目の下の隈も消えている。しかし、やはりまだ細過ぎるのだ。


「ありがとうイヴァーノ。それなら、お言葉に甘えてそうするわ」

 セラフィーナは柔らかく微笑んだ。まるで女神のようである。

「それにしても、ボルジア公爵家から使用人まで派遣してくれて本当に助かったわ。トゥルシ侯爵家の使用人はいつの間にかいなくなっていたからどうしようか困っていたの」

 セラフィーナは困ったようにラピスラズリの目を細めた。


 アブラーモとボーナが亡くなった後、彼らが揃えたトゥルシ侯爵家の使用人は誰一人いなくなっていた。


「大変だったね。昔、ルーチェ様がご存命だった頃にトゥルシ侯爵家で働いていた使用人達を探してみたらどうかな? 僕も手伝うから」

 イヴァーノはセラフィーナにそう提案する。

「そうね。ありがとう、イヴァーノ」

 セラフィーナは安心したように微笑む。

 イヴァーノはその表情を見て満足そうに微笑んだ。

「あ、この本だけ戻して来るわね」

 セラフィーナは席を立ち、部屋を出る。

 そしてセラフィーナがいなくなってから、イヴァーノはペリドットの目を冷たく細めた。その目には光が灯っていない。

(やっぱりセラフィーナを虐げるような使用人は必要ない。して正解だった。まあ奴らには生きているだけでも幸運だと思ってもらおう)

 イヴァーノはククッと口角を吊り上げた。


 実はヴァスコ、フルヴィア、アブラーモ、ボーナだけでなく、イヴァーノはトゥルシ侯爵家のセラフィーナを虐げる使用人達にも制裁を与えていた。しかし、使用人達に関しては殺したわけでない。イヴァーノはセラフィーナを虐げていた使用人達を男性向けや女性向け、それから男色家向けの娼館であったり、労働力を欲している悪質な工場等に売り飛ばしたのだ。使用人達は無給無休で奴隷同然のように働かされているらしい。

 一方セラフィーナを虐げていた使用人達を売り飛ばしたことで多額の利益を得たイヴァーノ。彼はその利益を復興が滞っているトゥルシ侯爵領の為に使っていた。それにより、トゥルシ侯爵領は災害前の活気が戻ったのである。






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 そして数日後のこと。

「セラフィーナ、今まで助けになってやれなくて本当にすまない」

 セラフィーナの兄レアンドロが留学先のナルフェック王国からトゥルシ城へ戻って来たのである。

「お兄様、お気になさらないでください。こうしてお兄様とお会いできて嬉しいですわ」

 セラフィーナは元気そうなレアンドロの姿を見てホッとする。そして少し申し訳なさそうに目を伏せる。

「お兄様、わたくしの方こそ申し訳ございません。トゥルシ侯爵家がこんなことになってしまって……」

「セラフィーナのせいではない。そもそも、悪いのは父上だ。……まあ父上を止められなかった私にも責任はあるが」

 軽くため息をつくレアンドロ。

「だけど、イヴァーノ殿のお陰で非常に助かりました。ありがとうございます。イヴァーノ殿が手紙を送ってくださらなかったら本当にどうなっていたことやら」

 レアンドロはイヴァーノに目を向ける。

「礼には及びませんよ、レアンドロ殿。それにしても、亡くなった侯爵閣下がレアンドロ殿の手紙もセラフィーナの手紙も全て捨てていたなんて思いませんでしたよ」

 イヴァーノは苦笑する。


 セラフィーナが兄のレアンドロと連絡が取れなかったのは、アブラーモやボーナにセラフィーナ宛の手紙を全て捨てられていたり、レアンドロへの手紙を出さずに捨てられていたのだ。


「本当に父上は何てことを……。私のミドルネームが父上の名前でないことが唯一の救いです」

 レアンドロは亡きアブラーモを恨みながら苦笑した。

「お兄様、イヴァーノ様はすぐにお兄様がトゥルシ侯爵家の当主となれるように手続きをしてくださいました。この書類にサインをして国王陛下から承認が下りれば、お兄様はトゥルシ侯爵家の当主でございます」

 セラフィーナは安心したようにラピスラズリの目を細めてレアンドロに書類を渡す。

 レアンドロは書類を隅々まで確認し、『レアンドロ・オレステ・ディ・トゥルシ』と署名した。

「それで、トゥルシ侯爵家当主となられるレアンドロ殿にお願いがあるのです」

 イヴァーノは真っ直ぐレアンドロを見る。ペリドットの目は真剣そのものだ。

「何でしょうか? イヴァーノ殿にはこの件で大変お世話になっているので、可能な限り協力しますが」

 レアンドロはきょとんと首を傾げる。

「はい……。セラフィーナとの結婚のご許可をいただきたいのです」

 イヴァーノはセラフィーナとレアンドロを真っ直ぐ交互に見る。

「まあ……!」

 セラフィーナは少しだけ驚いたようにラピスラズリの目を見開いた。

「確かにセラフィーナは亡くなったヴァスコ殿と婚約しておりましたね。イヴァーノ殿の申し出は、ボルジア公爵家とトゥルシ侯爵家の繋がりの為でしょうか?」

「それもありますが、僕自身、昔からセラフィーナに惚れていました。セラフィーナが兄の婚約者になってしまってからは、ひたすら自分の気持ちを抑えていましたが……やはりこの気持ちを押し留めることは出来ませんでした」

 真剣な表情のイヴァーノである。

「そうですか……」

 レアンドロは少し考え込み、セラフィーナに目を向ける。

「セラフィーナ、君はイヴァーノ殿の申し出をどうしたい?」

 ラピスラズリの目を優しく細めるレアンドロ。

わたくしは……」

 セラフィーナはチラリとイヴァーノの方を見て、ほんのり頬を赤らめる。

「イヴァーノの申し出をお受けしたいと思います。彼は大変な時にわたくしを支えてくれましたわ。それがわたくしにとって何よりも嬉しかったのです」

 アブラーモ、ボーナ、フルヴィアから虐げられていた時、セラフィーナの支えになってくれたのはイヴァーノである。それゆえにセラフィーナの中でイヴァーノの存在は大きくなっていた。彼の本性など全く知らずに。

「セラフィーナ……」

 イヴァーノは嬉しそうに微笑んだ。

 セラフィーナのその言葉を聞き、イヴァーノの心は温かなもので満たされていく。

 まるで毒蜘蛛の毒が抜かれていくような感覚である。

「……分かりました。イヴァーノ殿とセラフィーナの結婚を許可しましょう。イヴァーノ殿ならきっとヴァスコ殿よりもセラフィーナを幸せに出来るでしょう」

 レアンドロは満足そうに微笑んだ。

「ありがとうございます」

 イヴァーノは真っ直ぐレアンドロの目を見てお礼を言う。

「セラフィーナ、僕を受け入れてくれてありがとう」

 そうセラフィーナを見つめるイヴァーノのペリドットの目は、キラキラと輝いていた。

「イヴァーノ、わたくしはまだ未熟なところもあるけれど、貴方を支えられるように頑張るわ」

 セラフィーナは女神のような笑みを浮かべていた。

 イヴァーノはようやく心の底から望んでいたセラフィーナを手に入れたのだ。






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 そして迎えた成人デビュタントの儀。

 イヴァーノは婚約者になったセラフィーナをエスコートして王宮入りする。

(社交界にもセラフィーナを害そうとする奴はいるかもしれない。だから僕がセラフィーナを守らないと。……セラフィーナを害する者は僕が排除する)

 イヴァーノのペリドットの目はスッと冷える。その目には光が灯っていなかった。


 毒蜘蛛は可憐な蝶の為に今日も策略という名の罠を張り巡らせる。

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