4 温もり

 今までになく強く、オルツィの腕をつかんでいた。

「話がしたいんです。それに寒くて。少しだけでいいので、そばにいてくれませんか」


 死は寒い。血が通わなくなったミグの体はどんどん異質なものへ変化していくし、あと少しで自分もそうなっていたと思うと、ただただ寒かった。温かい命に触れていなければ、体の末端から壊死していき戻れなくなりそうな、そんな寒さだ。


 オルツィは隣に座り、炉をかいて火を強くする。一瞬火が高く燃え上がり、熱が顔を覆った。炎を見ていると、記憶が少しずつ溶け出していく。


「さっきは話せませんでしたが、岩に括り付けられた時、白い牝鹿めじか≪ブフ・ノイオン≫に会いました。真っ白でとても大きく、神々しい姿で。『示せ』と私に告げたんです」

「喋ったの?」


「そう思います。落ち着いた女人の声でした。生還できたのは幻獣のおかげです。実は蒼き狼の時も、男の声で『示せ』と聞こえて。幻獣がオルツィさんを救ってくれました」


「そうだったの。わたしは何も覚えてないわ。声も聞いたことないし」

「ツァギールさんも聞いたことはないそうです」


「森と湖が樹延さんを受け入れ、幻獣が認めたってことかもね。不老不死に選ばれたのかもしれないわ」


 焚き木がパチッとはぜる。オルツィと共有するこの静かな時が、とても愛おしいものに思えた。だから打ち明けていた。


「最初に不老不死の話を聞いた時は、まさかと思いました。でも幻獣たちを間近に見て、今は本当かもしれないと感じています。その力を手にできれば、扶蘇ふそ殿下が継承するはずだったしんを取り戻せるのかもしれない」


「不老不死が欲しい?」

「……どんなに生き永らえたところで、扶蘇殿下はもう二度と現れません。たとえそれが、私をここに向かわせた蒙恬もうてん将軍の遺志だとしても、秦を取り戻すことに意味があるのか考えてしまいます」


「確か扶蘇皇子の末の弟が皇帝になったのよね?」

「実権を握っているのは、丞相じょうしょう李斯りしと、趙高ちょうこうという二人です」


「偽の勅令で扶蘇皇子を自決させ、蒙恬さんまで追い込んだ悪い人たちね。悪者から取り戻すのは良いように思うけど、樹延さんはその後のことを考えてるのよね」


「このままでは胡亥こがい陛下までもが愚君となってしまいます。始皇帝の血を受け継いでいる以上、賢君となる素質がおありのはずなのに」


「じゃあやっぱり、悪者はやっつけたいわね」

 たくましいオルツィの言い方に笑ってしまう。


「幻獣のことで一つ疑問があるんです」

「なに?」


「不死は天が授ける永遠といえますが、若いままで時を留めて人生を謳歌したいというのは、あまりに卑俗的な気がします。幻獣が、人の欲望のために不老を与えてくれるものでしょうか」

「言われてみればそうだけど……」


 死生有命。人の生き死には天に定められたことで、人の力ではどうにもならないという意味だ。オルツィも樹延も、蒼き狼≪エジン≫と白い牝鹿≪ブフ・ノイオン≫の力で死を免れた。


「過去に不老不死を授けられた人はいないのですよね?」

「ほとんど伝説よ。すごい昔に不老不死を手に入れ、中華を支配して黄帝と呼ばれるようになった人がいるとかね。でも二年前、蒙恬さんは選ばれなかったみたい」


「蒙恬将軍が? 手に入れようとしたのですか?」

「詳しいことはシャーマンと村長だけの秘密なんだけどね。うまくいかなかったとだけ聞いたわ」

 蒙恬もうてんはそこまで村に入り込んでいたのか。


 だが蒙恬は、始皇帝へ偽りの報告をしていたという。村と幻獣を守るためだとトノウには説明していたようだが、樹延には引っかかるのだった。


 うまくいかなかったのなら、不老不死は幻だったと伝えればいい。わざわざ大鹿の血を幻獣の血と偽り届け、あたかも不老不死を手に入れたように振るまう必要性は何か。蒙恬ほどの人物が、始皇帝に処断されるのを恐れたからとは思えない。


「うまくいかなかった場合に何かが起こる。シャーマンと村長のみが知る何かが……。それを隠すために偽ったのか」


 二体の幻獣が睦み合うと不老不死の力が授けられるという。蒼き狼≪エジン≫はおす、白い牝鹿≪ブフ・ノイオン≫はめすで、対になっている。同じく不老不死の対は何かと考えると、永遠の死だ。


 失敗すれば避けようのない死が訪れる。だが死んだのは蒙恬もうてんではなかった。


 そこまで考えて、怪訝そうなオルツィの視線に気づく。心配させないよう、別の言葉を口にした。


「不老不死は要りませんが、オルツィさんを助けてくれた蒼き狼≪エジン≫には、生涯感謝したいと思います」

「わたしも、樹延さんを助けてくれた白い牝鹿≪ブフ・ノイオン≫に感謝するわ」


 オルツィの手に自分の手を重ねた。指が絡まり合い、温もりが一つになるのを感じる。手を触れ合うだけなのに、心まで重ね合わせているように思える。


 幻獣を神と同一視するのは、蒼き狼を男神、白い牝鹿を女神になぞらえ、結ばれることで豊穣と繁栄をもたらすという信仰なのだろう。

 不老不死と避けられない死、男神と女神、西と東——。

 樹延の中で何かが繋がりかける。


「オルツィさん、ミグさんの婚約者がどなたかご存じですか」

「えっ、この状況で? そばにいてほしいって、そういうことなの?」

「違います。でも大事なことなんです」


 繋いだ手が離れてしまいそうになったので、樹延は上からぎゅっと握った。


「ミグさんは亡くなる直前まで、女人と一緒だったんです。遺体に痕跡がありました。この島には、オルツィさんの他に東の方だけです」

「樹延さんは、わたしが相手だとは思わないの?」


「それは……」

 聞きたくないというか、想像したくないというか。たとえ気持ちの上では切れていたとしても、若い男女の体はどうかわからない。


「オルツィさんは、浮気したミグさんを許さないでしょう?」

 あくまで樹延の希望だったが、オルツィが「そうね、ありえないわ」と言いきってくれたので、心底安堵した。


「婚約者は、桃花タオファという人よ。わたしより二つ年上だって」

「桃花さんですか。東の村でお会いしました。可愛らしい方ですよね」


「えっ、もしかして夜の?」

「違いますよ。お話ししただけです」


 余計な事を口走ってしまった。眉を上げたオルツィに、ツェグ婆のタペストリーをあげてしまったとは絶対に言えない。すぐさま樹延は話を次へと展開させた。


「二人が付き合うきっかけは聞いていますか。西と東は日常的な交流はないですよね。その方も幻獣守ですか」


「ううん、去年のエルドィン祭だって。二年に一度、夏至の日のお祭りでね。西と東の村人が総出で丘を囲んで、大きな一つの輪になって踊るのよ。それで真夜中になると、出会った西と東の男女が輪を抜けて、一晩を過ごすの」


「オルツィさんもですか」

「わたしっ!? ないない! わたしはないわよっ、そんな出会ったその日にすぐなんて」

 だがオルツィの慌てぶりはなにか怪しい。樹延は横目でじとっと見つめた。


「とにかく、エルドィン祭りがきっかけて二人は付き合い始めたんだって。わたしと付き合ったのはずっと後よ」


 毒を口にする直前まで女人といたというので、真っ先に思い浮かんだのは、東の幻獣守の虞姫ぐきだった。

 樹延に協力を拒まれたため、代わりにミグを選んだのではないか。そして殺害したのは用済みになったか、ミグが裏切ったからだ。


 だが死体を出してしまっては余計な騒ぎを起こすだけで、東の村とにとっての利点が見えない。西の恨みを買っては、協力関係など望みようが無くなるだろう。

 だとするとツァギールの言うようにただの痴話喧嘩なのか。


「言いにくいのですが、ミグさんには他にも浮気相手がいたというのは知っていますか」

「うん……、噂では聞いてる。東のことはよく知らないけど、西にもいたって」


 同じ男として人間性を疑うが、死人の悪口は言うものではないだろう。


「話してくださりありがとうございます。私はこれから東のシャーマンのところへ行きます」

 立ち上がると、頭がくらりとして視界が暗くなる。片膝をついたところをオルツィに支えられていた。


「無茶よ、少し休まないと」

「早くしないと逃げられてしまいます」

「向こうのユルトなら、いかだを作りながらサムラとトノウさんが見張ってるわ。待ってて」


 オルツィは湯気の立つ腕を持ってきてくれた。らくが入ったあつもので、人参や菊芋が入っている。初めて食べたが酪がもったりと濃厚で、これは力になりそうだ。


「おいしいです。ツァギールさんは料理が上手ですね」

「悔しいけどわたしよりもね。ねえ、わたしも一緒に連れていって」

 そう来ると予想はしていたが、やはり気はすすまない。


「オルツィさんにとって、決していい話にはならないですよ」

「それでもミグに何が起こったのか知りたいわ。一度は好きになった人だもの」


 オルツィの目には未練も迷いもない。ただ真実を知りたいのだ。

 樹延は頷き「行きましょう」と立ち上がった。

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