3 冷たい体

 引き上げられたまま自力で立つことすらできず、ツァギールに乱暴に担がれてユルトへ戻った。「飲め」と流し込まれたのは、ものすごく強い酒で、また咳込むはめになったが、胃が燃えて体温が少し上がったようだ。


 サムラが湯を沸かしてくれていて、桶に足をつける。痺れと傷とで声が出るほど痛んだが、次第に生きた心地がしてきた。


 濡れたほうを脱ぎ、毛皮を被って震えていると、白湯を持ったオルツィと二人になった。

 受け取ろうとするが、手が震えてできない。黙ったままオルツィが器を口元へ運んでくれる。


「熱っつ!」

 一口目で叫ぶが、冷まそうともせず、仏頂面で飲ませようとしてくる。迫る湯が口に触れる寸前まで、全力でふうふうするが、流しこまれた熱さに舌が腫れた。


「怒ってますか?」

 オルツィの口がへの字になっている。


 戻って来ない方がよかっただろうか。本気でそう考えていると、急にグッと器を傾けられ、今度は鼻から吹き出しながら盛大にむせた。仕置きなのか。


 横でオルツィに見下ろされながら、鼻の根元を押さえて痛みに耐える。


「あなたに死んでほしくないって言ったの、忘れたの?」

「覚えてます」


「人には『オルツィさんを失いたくないんです』って言ったくせに、ずいぶんね」

「すみません。皆さんにお互いを疑ってほしくなかったので、つい」


「つい? 呆れた。あなた賢いはずよね?」

「すみません」

「ツァギールなんて、初めからあなたにやらせるつもりで、試しの水儀と言い出したのよ」

「わかってます」


 オルツィは黙った。いや、黙らせてしまった。

 まいったな。こういう時、どうしたら女人の機嫌を取れるかと少し考えて、寒さに震える手でオルツィの髪を撫でる。振り払われるが、もう一度。


 しばらく攻防を繰り返していると、オルツィの肩の力が抜け、への字が諦めたような顔になった。


「樹延さんて、意外と頑固よね」

「許してくれますか」

「どうしようかしら」

「すごく寒かったんです」

「……もう、ずるいわ」


 オルツィは毛皮の下に入りこむと、隣にぴったり身を寄せてきた。裸の樹延は慌てて膝を引き寄せ股間を隠すが、「そんなことしなくても見ないわよ!」と言われてしまう。


「ミグさんとのこと、皆には言いたくなかったのではありませんか」

 誰にも言わないでと会話したのを覚えている。


「樹延さんだって、扶蘇ふそ皇子のこと」

「オルツィさんにだけ秘密を話させるわけにいきませんから」

疾医しついは取ったけど、ほとんどしたことなかったんじゃなかったの?」


「はい。なので本当は抽斗ひきだしの中を見ても、見分けがつかないと思います。鴆鳥ちんちょうの毒なんて見たこともないですし」

「だと思ったわ」


 オルツィの髪に頬をつける。ミグも嗅いだであろう、オルツィの甘い匂い。この香りと温もりに、きっとミグも今の樹延と同じ気持ちになったはずだ。友人にはなれなかったが、殺されても仕方ないとまでは思えない。


「あったかいですね、オルツィさんは」

「まだ寒い?」

「少し。あとツァギールさんが見ています」


「いつから?」

「最初から」

「またなの⁉ 湖に突き落としてやるわ」


 兄は戸口に寄りかかって腕を組み、存在を隠そうともせず二人を見下ろしている。着替えのほうを持ってきたなら、早く渡してくれればいいものを。


「ツァギールさん、もう一度ミグさんのご遺体を見せてもらえますか」

「いいぜ。来な」


 温もりからは離れがたいが、樹延は告げた。

「私が下手人を突きとめます。オルツィさんはここで少し待っていてください」


 瞑想用のユルトでツァギールと二人、遺体に被された布をめくる。既に変色し異臭を放ち始めているが、樹延は大きく息を吸った。

 まずは注意深く髪の毛をかき分け、外傷がないか頭部を観察する。目に見える傷や痣だけではなく、皮膚の下にも注意が必要だ。


 医術を学んだ時、暗殺された相国の遺体を見る機会があったが、見た目には傷一つないのに、きれいにくびが折れていた。闇仕事を生業とする刺客の技だと知り、ぞっとしたものだ。


 指で少し押して感触を確かめながら、耳、顔と下りていき、喉に幾筋もの引っかいたような傷を認める。胸部と腹部に触れ、硬直した手のひらを返し、袖をまくる。


鴆鳥ちんちょうは羽根から毒を出すのですよね。触れるとどうなりますか」


「見た目に変化は起きねえが、毒液が触れた箇所は強烈な痺れで動かせなくなるらしい。羽根には小さい針みたいのが付いていてな、刺されたところから毒液が体内に入ると、全身が麻痺して、呼吸すらできなくなる。苦しい死に方だ」


 それだけ強い毒を飲んだら、まず喉がやられる。息が吸えない恐怖は樹延も味わったばかりだから、喉を掻きむしり苦しんだミグの最期を思うと胸が痛む。


「襲われたり、抵抗したような跡はありませんし、手がかりになるような特徴も見当たりません。服を脱がせてもいいですか」

「好きにしな」

 だが衣の紐がなかなか解けない。


「ミグさんはいつもこんな硬い結び方をしているのですか?」

「知るかよ。オルツィに聞け。脱がせたことがあるだろ」


 言い方にむっとして、自力で解こうとするも、全く解けない。ツァギールが短刀で紐を切り衣を脱がせると、二人で顔を見合わせた。


「袍の合わせが逆だな」

 右が上になっている。遺体を起こしてみつまで全部脱がせた。男の樹延も惚れ惚れする筋肉質な体をしている。


 腕や胸、腹にも傷や痣はないが、背中を見ると肩の骨の下あたりに、うっ血した小さな細い痕が、縦に四つずつ並んでいる。右と左に一列ずつだ。そして下に下りていき、尻を返すと、男根の先端に白く乾燥したものが貼りついている。樹延は指でつまんで剥がした。


「これは本人のものと思っていいですよね」

「だな。死ぬ直前まで女とやってたのか」


 背中のうっ血は女の爪痕だろう。

 情事の直後に毒を含まされた。飲水に混ぜでもしたのだろう。だから抵抗の跡がない。そして袍は自分で着たわけではないから、合わせが逆になってしまった。


 月門ユエのような刺客ならば、こんな初歩的な失敗はしない。毒を盛れば死ぬと分かっていながらも、死人を目の前に気が動転し、焦って着せたのが手に取るようだ。


「オルツィが一番濃厚じゃねえか」

 実の妹を下手人扱いする兄に少なからず怒りを覚え、言い返す。


「東のシャーマンはどうですか。とても美人だというお話ですから、ミグさんと関係があったのかも」

「さあな。オルツィ以外にも、こいつと関係してた女はごまんといるぜ」

 ツァギールは半笑いだった。


 頭が痛くなる。村の女性一人一人に聞いて回るしかないだろうか。正直に答えてくれるのが一体どのくらいか、想像がつかない。

 足先まで観察したが、その他に異常は見当たらなかった。


 ユルトの外に出ると、バイカル湖の輝きが目に痛い。

「下手人は見ず知らずの刺客じゃなく、村の人間なんだな。信じたくねえけど」

「そうですね」


 言葉少なく、歩き出そうとした時だ。

「うっ……クゥ」


 苦しげなツァギールの声に振り向くと、手の甲に奇妙な紋様が浮き上がっている。ユルトの壁に描かれているのと同じだ。手だけではない。胸元や首、そして顔にまで、赤黒く紋様は次々に広がる。しかも紋様からは血が浮き出て、じわじわ滲んでいる。


「ツァギールさん⁉」

 痛がったり苦しんでいる様子はない。呼吸は静かだが、瞳はかっと見開かれ、ここではない場所を見ているようだ。

 もしや神託なのか。触れたり話しかけてはいけない気がして、そばで見守る。


 紋様は全身に広がっているのだろう。紋様の形の血染めが衣に描かれていく。

 やがて焦点が戻ると、ぐったりとツァギールの体が傾ぎ、倒れ込みそうになる。慌てて支えると「悪ぃな」と顔を上げた。


 内出血のような紋様はなくなり、肌に血だけが残っている。


「傷がない……? 痛みはありませんか」

「ない。いつもこうなる」

「これが神託ですか」

「信じてなかったって顔だな。本物だろ?」


 ありえない現実に、震えそうになりながら頷く。ツァギールがどんな声を聞いたのか興味はあったが、とても軽い気持ちで尋ねられるものではなかった。


 ユルトへ戻ると一気に体が重たくなり、炉の前でぐったりと座り込んでしまう。


「ひどい顔色よ。疲れたでしょうから、話は後にして、今はまず休んで」

 オルツィは心配そうな顔で樹延の背中に手を当てると、離れようとした。


「オルツィさん」

 その腕をつかんでいた。

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