2 試しの水儀

 藍色の生地に、赤や山吹色で細かい刺繍が施された儀式用の衣に着替えると、人相の悪いツァギールが、シャーマンの聖性を帯びた。頭頂部に獣の頭蓋骨が飾られた頭巾を被り、骨の首飾りをシャラシャラと鳴らしながら先頭を進んでいく


 右手に東のシャーマンのユルトがあり、こちらを見ている人物は遠目に女人だと分かる。

 試しの水儀は白い森で行われ、森に入るには西と東のシャーマンの許諾が必要だという。


「この先は樹延と、シャーマンの俺と、村長のトノウさんだけだ。お前たちは戻ってミグのそばに居ろ」


 サムラは素直に従い「待ってるからな」と樹延の肩をつかんで離れた。

 ぶすくれているオルツィは、まだ納得しようとしない。


「シャーマンなら、下手人が誰なのか神託降ろせばいいのに。この役立たず!」

「あぁ? 神託ってのは人間の都合よく降りて来るもんじゃねえよ。特定の霊を呼び寄せるとか、都合よく質問に答えますとか、全部インチキに決まってんだろ」


「あんたなんかインチキ以下よ! もっと別の方法があったのに」

「しつこい女は嫌われるぞ。なあ?」

「いぁ……」

 いきなり振られた樹延だが、はいと答えるわけにもいかない。


 オルツィのなだめ役をサムラに任せ、三人は白い森へと進んで行く。

「神託は都合よく降りてこないか。今回ばかりは俺もそれを願ったが、うまくいかないものだな」

 トノウが苦笑する。


 歴代のシャーマンは特定の霊魂の降霊や、時に神を憑依させ、自分たちのタイミングで預言を得てきた。だがツァギールの神託は、いつどこで来るか本人にも分からないという。一日のうち多くを瞑想に割いているが、瞑想中に来るとは限らない。


「誰のものでもない声が天から降ってくる。子どもの頃からずっとこうだからな。声の主が誰か知りたくて、シャーマンになったようなもんだ」


「オルツィにもそのがあるな。あいつはよく森の声を聞いている」

「幻獣も話すのでしょうか」

 樹延の呟きに、二人が同時に振り返る。


「幻獣? 青き狼≪エジン≫か?」

「水の中で聞こえました。『示せ』と、男の声で」

「俺は聞いたことがないな。ツァギールはどうだ」


「ねえよ。けど、幻獣ならありえるかもな。例えば鴆鳥ちんちょうは森の毒虫をよく食べるが、土葬された人肉も食う。死を食べる鳥だから、死体の魂魄が一時乗り移ってもおかしくねえだろ。同じように蒼き狼≪エジン≫は人の命を吸う」


 確かにあの時、オルツィの命を持っていくなら己の命をと強く願った。『示せ』というのは、オルツィを助けた対価として樹延の命を示せという意味だろうか。


 望まれるなら、この命などいくらでも。オルツィの為というなら、一つも惜しくはない。


 白い森は、近づくほどに白さを増していく。葉を落として枝だけになった冬木が白く見えるのとは全く違う。雪が積もったのとも違う。そういうのは茶色が見え隠れするが、ここは葉も枝も白色以外はない。


 巨人の干からびた骨が手指を広げているのだ。地面も白い落ち葉に覆われている。間から見える空や丘だけに色があり、距離感がおかしくなる。白い牝鹿めじか≪ブフ・ノイオン≫が棲むというが、白すぎて隠れる場所など無いように思う。


 右手前方に青色のものが見え、何だろうと考えていると魚が跳ねた。


「あれは湖ですか?」

「どっちかといえば池だな。お前の墓場になりそうだ」

 ツァギールが笑うでもなく冷静に言う。


 ここはバイカル湖の浮島だから、つまり湖の中の湖になるわけだ。水は染料を溶いたような藍色だが、近づいてすくってみると透明なのだった。


 岸辺で、手足を縄で縛られる。二人に担がれて、湖のちょうど中央辺りに突き出た岩へと向かっていく。水は胸の深さまであるようだ。


「これで明日の朝まで凍死か溺死しなければ、お前の無実を神が認めたことになる」

 二人がかりで岩に括りつけられた。想像以上に水は冷たい。


「生きて戻ってこい」

 小さくトノウが呟く。


 だがはっきり言って自信はなかった。死ぬのは怖くないが、水の冷たさはいかんともしがたい。まさに今、歯が鳴るのを必死に我慢しているのだ。


 朗々とよく通る声でツァギールがまじないを唱える。樹延には理解できぬ言葉だ。唱えながら樹延に向け、首飾りの筒に入った白い灰を振りかけていく。


 儀式が終わり二人が引き上げると、あるのは真っ白な沈黙だけだった。

 風はなく、湖面は揺らぎもしない。枝がこすれる音もなく、静かすぎて耳の奥が痛くなる。


 いや、痛いのは耳だけでなくなってきた。

 季節は夏で、凍てつく寒さというわけではない。だが冷たい水に体温を奪われ、体の奥から震えが止まらなくなる。樹延の意識外で本能的に体を温めようと働いているのだろうが、辺りが暗くなる頃にはその体力すらも失われた。


 冷たさも痛みも感じなくなり、体のどこかを動かそうとしても反応しない。

「ハ……ッ、ゲェホッ!」


 いつの間に意識が飛んでいて、折れた首が水に浸かっていた。意識を取り戻せなくなれば、そのまま溺死だ。呼吸を整える間にも、視界が暗くなっていく。


 「見吾死哉」と書かれた黒い山高帽の死神と、漆黒の鴆鳥ちんちょうの姿が重なり、湖の上を優雅に歩いて近づいてくる。逃げることも、叫ぶことも樹延にはできない。


 われに出会えば死ぬ。ようやく出会えたのだ。

 だがその時、樹延の視線の先に扶蘇ふそ皇子が現れる。死神と鴆鳥は、目標を樹延から扶蘇へと変えた。


 扶蘇は振り返り、少しだけ笑う。それは扶蘇を昏睡状態にする直前、樹延が最後に見た顔だ。水の冷たさに胸を突き刺された気がした。

 なぜ扶蘇が死神に出会わねばならなかったのだ。英明であればこそ、魅入られてしまったのか。


 顔に湿った風をはっきりと感じる。

 目を開けると、大きな鼻面が目の前にあった。白い鹿だ。目を見開き、白い鼻の穴をふくらませ、樹延を感じとっている。


 暗い湖だが、空には星々がうるさいくらいに輝いているので、白い牝鹿≪ブフ・ノイオン≫の姿がはっきりと見えた。全身が真っ白な毛に覆われ、体長は鹿の大きさをゆうに超えている。鼻の先まで全部白だ。


 牝鹿が黒い瞳をゆっくり瞬く。鴆鳥と同じ、黒の中に一点だけ光がある目だった。


 すると、バキンと鋭い音と共に樹延の体が大きく揺れた。そして背後の岩と一緒に背中から水面へ落ちていく。

 括り付けられていた岩が、真っ二つに割けたのだ。岩と共に湖底へと引きずり込まれる。


 湖上の牝鹿と、沈んでいく樹延の目が合う。その瞬間、水中に女の声が響いた。


『示せ』


 突如、息ができない苦しさを痛烈に感じ、全身でもがいた。縛られて使えない手足が呪わしい。岩に括り付けられた縄は緩んでいるのに抜け出せず、全身を無茶苦茶に捻って揺らした。


 口から息が漏れ出す。上下の奥歯を噛みしめ、縄から抜け出す事だけを考える。落ち着けと言い聞かせるが、沈んでいく速さに焦るばかりだ。ほどけない。抜けられない。苦しい。もう息が続かない。


 ついに息を吐いてしまった。吸ったところで入ってくるのは水だけで、今まで感じたことのない恐怖と苦しみに頭が破裂し、目の前が真っ白になる。


『命を示せ』


 今まさに意識を絶とうとしている頭の中で、女の声だけが響く。命ならば扶蘇を死なせた時からとうに差し出しているが、違うのか。


 水底が胎動する。下から上へと力が伝わる。沈み続ける体に浮力を感じた。岩ごと、急激な流れに持ち上げられていく。


「がっはッ!」

 一瞬だけ水上に顔を出せた。たくさん水を飲んでしまったし、思うように息は吸えていない。それに岩の重みで、体は再び水中へ吸い込まれていく。


 もう一度全身をあらゆる方向にひねり、何度も岩を蹴ると、括り付けられていた縄からは抜け出せた。だが手足はまだ縛られたままだ。

 次は足の縄を外そうと、手の爪が剥がれる勢いでつかみ、前後左右に猛烈に動かす。結び目が解ける気配はない。


 これが最後だ。このわずかな息が尽きるまでが、残された時間だ。

 それでも樹延は水に抗った。


 どうして扶蘇ふそ皇子が死神に出会わねばならなかったのか。始皇帝の長子という運命だとしても、抗うべきだったのではないか。初めて感じたのだ。


 皇子として扶蘇は死んだ。他でもない扶蘇の意思だ。だが皇子でなくなったとしても、生きる道があったのではないか。それを見つけるのが教家として己の務めだったのではないか。


 縄が緩みはじめる。足を引き寄せ、勢いで縄の間に拳を突っ込み、ありったけの力をこめて広げる。腕も足も破れて骨が飛び出しそうだ。一本、二本、縄が千切れる。


 ついに縄を抜け、上へ上へと両足で水を蹴る。息が苦しくなる。間に合うか。上下の顎に力が入る。水面は見えている。あと少し、もう少しだ……!


 水上に顔を出し、大きく息を吸い込む。縛られた腕は使えないので、また沈みそうになるのを懸命に足を動かして耐える。少しでも休もうなら、容赦なく冷たい水に鼻上まで飲み込まれる。


 息を吸い、潜り、溺れそうになるのを繰り返しながら、果てしなく遠いと思われた岸辺に爪を立てた。息をするだけで体がバラバラになりそうだ。


 不意に力強い手に腕をつかまれ、ぐいと引き上げられる。

「扶蘇殿下……?」


 そんな気がしたが、腕の主は扶蘇とは似ても似つかぬツァギールだ。

 ついさっきまで、星が輝いていたと思ったが、ツァギールの背後が白んでいる。夜明けだった。

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