第三章 黒と白の爪痕

1 沈黙の背

 ツァギールの言う通り、夜が明けると風雨はどんどん強くなり、湖は濁った灰色の水がところどころうねるほどだった。


 借りた書物を読む樹延ジュエンの横で、オルツィは槍の手入れをしている。

「止みそうにありませんね」

「こんなに降るなんて珍しいわ」


 ここのユルトは移動式ではないため、布張りではなく丸太を組んだ、頑丈な造りになっている。


「村のユルトは大丈夫でしょうか」

「飛ばされはしないけど、水は洩ってるでしょうね」

「ツェグお婆さんの屋根を修理しておけばよかったです」

 

 すると、バイカルアザラシの毛皮で作った外套を着こんだサムラが戻ってきた。撥水性があり、温かいのだそうだ。


「うー、今日は寒ぃ。舟は見つからなかったぜ」

 水滴を払い、炉の火に手をかざす。


 蒼き狼≪エジン≫の出現で人も舟も水流に呑まれたが、どうやら舟はすべて木っ端みじんか漂流してしまったようだ。


「じゃあいかだを作るしかないわね」

「東のシャーマンのところに舟があったから、誰か来てる。借りれりゃ一番楽だけどな」

「あちらもしばらく動けないのは同じね」


 寝起き用のユルトにはオルツィと樹延にサムラ、瞑想用のユルトにはツァギールとトノウ、ミグが泊まっている。食事も寝るのも別で、樹延とミグが顔を合わせることがないよう図らってくれているのだった。


 嵐は翌日も続き、止んだのは夜中を過ぎてからだ。

 雨の音にも風の音にも邪魔をされず、静かな時が過ぎてゆく。

 空が白んできた頃だ。


「サムラ……ッ! サムラ起きてっ! ミグが、ミグが」

 ひどく慌てたオルツィの声が悲鳴のようで、樹延は跳ね起きた。


「ミグがどうした?」

「来てちょうだい」

 ただ事ではないとサムラも感じたのか、すぐに毛皮を羽織ってオルツィの後に続く。


 獣道ともいえない足場を進むと、膝上まで茂る枝草が足に冷たい。雨を含んだ土はやわらかく、苔を踏むと水が染みだしてくる。岩を飛び越え、上から垂れ下がるシダをくぐり、何かが飛び出てきそうなほら穴を通り過ぎた。


「あそこに……」

 蒼白な顔でオルツィが指さす先に、見覚えのある背中がうつ伏せに倒れている。

「ミグ! おいミグ!? どうしたん……っ」


 ミグの体を揺するサムラが思わず動きを止めたのは、広い背中が既に息をしていないからだ。

 樹延も首筋に手を当て確かめるが、脈はない。


「何が起こったの。どうしてこんな……」

 口元に手をあて、ふらふらとオルツィは後退した。


「とりあえずユルトに運んでトノウさんに報告しよう。ジュエン、手伝ってくれ」

「はい」


 サムラが頭側を、樹延が足を持って慎重に運んだ。服には血痕はなく、頭部にも外傷があるようには見えない。ついさっきまで生きていた温かさだが、仰向けにした顔は苦悶の表情だった。


 瞑想用のユルトに遺体を運び入れ、全員で囲む。ツァギールがかがみ込み、苦しみで見開かれたままの瞳を閉じてやった。


「服が雨に濡れてないから、あの場所に行ったのは夜中を過ぎてからか。トノウさん、こいつが出て行ったのに気付いたか? 俺は分からなかった」


「俺も気付かなかった。眠りこけていたよ。オルツィはどうしてあの場所に?」

「ミグに呼ばれていたの。雨が止んだら夜明けに話があるって」

 話の内容には見当がついたのか、トノウはそれ以上聞こうとしなかった。


「体に不調があるとは聞いていなかったが、急な異変なのだろうな」

 全員が頷くが、樹延だけは違った。

「……鴆鳥ちんちょうの毒ではないでしょうか」

 ミグの顔の近くで匂いを嗅ぐ。


「先ほど遺体を運んだ時も、甘い匂いがしました。口元が特に強く感じます。この蜜を煮詰めたような匂いは、鴆鳥に羽根で触られた時と同じです」


「ジュエン、鴆鳥に会って触られたって⁉」

 サムラがすっとんきょうな声を出す。


「はい。でもなぜか生きています。ツァギールさん、この島にも鴆鳥はいますか?」

「いいや。俺は見たことねえし、記録にもねえ」


「そうだよな。鴆鳥がこんなところまでは来ねえよ。あいつら飛べないし」

 サムラがうんうんと頷く。少し迷ったが、樹延は切り出した。


「ではツァギールさんの薬味箪笥やくみだんすに、鴆鳥の毒はありますか」

「ジュエン!?」

「何を言っているか分かっているのか」


 サムラとトノウは慌てたが、ツァギールは鋭い視線で樹延を見据える。


「あるぜ。何が言いたい」

「何者かが盗み出したか使った形跡はありませんか」


「お前も薬味箪笥を見たよな。抽斗ひきだしが一体いくつあると思ってる? どこに何が入ってるか把握してんのは俺だけだ」

「そうですか」


「ミグが殺されたって言いてえのなら、動機はお前が断トツだぜ。ミグに殺されそうになってたもんなぁ?」

 ツァギールが樹延の胸倉を掴んで引き寄せる。


「お前なら、書物を取りに来たついでに薬味箪笥から毒を取り出せるんじゃねえの。ミグがオルツィと密会すると知って、やったんだろ」

 額に青筋を浮かせ、ギラギラした瞳で威嚇してくる。


「仕えてた皇子が自殺したっていうのも、本当はお前が殺したんじゃねえのか?」

「やめてよ! 樹延さんはそんなことしない。動機ならわたしにもあるわよ。ミグを恨んでたもの」


 するとサムラが目を丸くして身を乗り出す。

「えっ、うまくいってたんじゃないの?」


「わたしは遊ばれてたの。だからとっくに別れてたのに、ミグはよりを戻したいなんて言ってきたのよ。人の気も知らないで。今朝呼び出されたのだって、わたしは話したくなんてないけど、応じないならまた樹延さんに危害を加えるって言われて」


「うぇ……、最低じゃん」

「だから樹延さんに動機があるというなら、わたしにもあるの。手を離しなさいよ」


 ちょっとだけ眉を上げ、ツァギールは樹延を突き放した。

 気まずい沈黙に耐え兼ね、サムラが「なあ、この中で下手人捜しなんてよそうぜ」と弱々しく言う。


「そうだな。俺もこの五人の誰かがやったとは思わない」

 トノウの締まった声には安心感がある。五人は顔を見合わせた。


しんの刺客が紛れていたんだ。他に外部からの侵入者がいた可能性はないか」

 トノウが問うと、ツァギールがユルトの外を親指で指す。


「東の奴らなら、向こうのシャーマンのところに来てるぜ」

「あ、オレも舟を見た」


 嵐でこの島は閉ざされているのだ。関わっている可能性が無いとはいえない。


「だがいきなり押しかけてあれこれとは聞けないな。下手に疑われていると勘ぐられてもいかん」

 トノウは唸った。オルツィを襲った男を樹延が殺害した件が、まだ尾を引いているのだろう。


「試しの水儀だ」

 ツァギールの言葉に幻獣守たちの表情が変わる。


「ちょっと⁈ 本気で言ってるの?」

「当たり前だろ」

 オルツィに食ってかかられるが、ツァギールは引き下がろうとしない。


 試しの水儀とは、疑いのある者を神と同義の幻獣が審判する儀式だ。オリホン島の中にある小さな湖で一晩岩に括りつけられ、朝まで生き延びれば幻獣の加護を得たとして、無実が証明される。


「試しの水儀で無実なら、東も下手人捜しに協力しないわけにいかなくなるだろ」

「けど……」

 問題は誰が試しを受けるかだ。


「私が受けます」

「樹延さん、いいのよ。こんなの馬鹿げてる」


「いいえ、私には裁かれる理由があります。ツァギールさんの仰る通り、扶蘇ふそ殿下を殺害したのは私です。鴆鳥ちんちょうではありませんが、毒を含ませました。それに東の幻獣守も殺害していますから、私が試しを受けることで、東のシャーマンの納得は得られるのではないですか」

 樹延は全員を見回す。


「動機だけあるオルツィさん、毒だけ持っていて動機がないツァギールさんよりも、動機があり毒の取り扱いもできる私の方が試しを受けるのに適格です」


「何言ってるのよ! 樹延さんは殺してなんかないでしょう⁈ それにどの抽斗ひきだしに何が入っているかはツァギールじゃないと分からないって言ったじゃない」


「私は疾医しついです。薬草や毒の類は見れば分かりますし、書物を借りにユルトへ入った際に抽斗をあさるのも可能でした。ですから私が試しを受けるのが最も理にかなっています」


「どうしてよ。そんなのやめて。ねぇ、サムラもツァギールも何とか言いなさいよ!」

 オルツィの叫びもむなしく、男たちは黙るしかなかった。


「シャーマンに従おう」

「待ってよトノウさん!」

「そういう決まりだ」

 オルツィは息を震わせている。


「試しの水儀で生還した人なんて、今までいないでしょう⁈ みんな凍死か溺死した! 樹延さんになすり付けるなんてどうかしてるわ。それとも、外の人だから死んでも構わないと言いたいわけ?」


「そうじゃない。むしろ外から来たからこそ、生き延びる可能性があると俺は思う」

 トノウはオルツィの肩に手を置く。


鴆鳥ちんちょうに触られるのもごく珍しいが、更に死ななかった人間など、俺は他に知らない。森が樹延を受け入れていると思わんか」


「それは……っ」

 他でもない、オルツィが最初に言った言葉だ。


「オルツィさ——」

 樹延の声を拒否するように、オルツィは背を向けるとユルトから出ていった。

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