6 森の死神

 出かける前にと、オルツィから案内されたのは湯殿だった。

 思いがけない喜びに深く頭を下げた樹延ジュエンに、オルツィは「ゆっくりしてきて」と灰を溶かした桶を渡してくれた。湯殿は三人も入れば満員になってしまうが、湯量は豊富だ。


 しんの宮廷では五日に一度沐浴すると規定されていた。それが一か月以上の間、寒さに耐えながら冷水で髪と体を拭くのみだったのだ。灰汁で一度洗ったくらいでは垢も汚れも落としきれず、湯を替えて頭のてっぺんから爪先まで何度もこすった。


 流す水がようやくきれいになり、湯に浸かると、毛穴という毛穴からあらゆる瘴気が抜けていく感じがする。間違いなくこの世の極楽だ。


 始皇帝は屋外の池に湯を張り、袋に入れた香り豊かな薬草を漬けて入浴を楽しんだと聞く。保清と健康のため入浴は励行されており、不老不死を求めた始皇帝も楽しんだようだ。


 ユルトに戻ると、伸び放題だった髭を剃り落とし、髪はまげではなく後ろで一つに束ねた。剃り残しを、オルツィが顔に手をかけ処理してくれる。


「うん、すっごく良くなったわ。もっとおじさんなのかと思ってた」

「ご期待を裏切るようですが、もう二十六なんです。若作りとよく言われますが、この顔には髭も似合わなくて」

「髭がなくても樹延さんはステキよ」


 革を柔らかくなめした外套を着せられ、オルツィの後に続いてユルトを出た。集落に点在するユルトの周りでは、走り回る子どもたちや、塩漬けした肉を天日に干す女たちの笑い声がのどかだ。こんなに穏やかな日はいつ以来だろうか。


 だがどの人も樹延の姿を認めると、物珍しそうな視線を遠慮なく向けてきた。どうやら幻獣よりも珍奇らしい。


 村の中央にあたる部分には、用水路が流れている。バイカル湖から流れ出る川から引いているのだ。しかも上水と下水が別なのに驚く。


 村を一歩出るとすぐに周りが木々になり、辺りは深い緑の匂いで満たされた。空は背の高い針葉樹に遮られる。上ばかり見て歩いていると、何もないところで前のめりに転んだ。


「えっ、大丈夫?」

「問題ありません」

 両膝が痛かったが、泥を払い、何食わぬ顔で進む。


 ここはもう幻獣の森なのだろうか。静謐せいひつな森の空気は、御廟に似ている気がする。

 すると、何かが顔に当たった。虫かと思ったが、オルツィも上を見上げ、それから地面に落ちた何かを拾い上げる。


「ヤマナラシの実ね。ほら」

 朱色の硬い実だ。どの木に実が生っているのかは、下からでは見えない。


「中に種が入ってるの。わたしたちを見つけて、種を運んでもらおうと落としてきたんだわ」

「木が人の動きを察知したのですか。どういうことなんでしょう」


 にわかには信じがたいが、樹延はその名を与えられながら、森というものをよく知らない。


「森はそれ自体が一つの生き物だわ。土と水と、植物と動物が、互いを利用しながら命を育んでいる。特に幻獣の森はワガママで、好き嫌いが激しいのよ。きっと樹延さんのことを気に入って、種を運ぶ生命体として森が受け入れたんだと思う。敵と認識したものに、大事な種を渡そうとはしないでしょう?」


「ワガママな森ですか。森にとっては人も動物のうちで、成長するのに人を利用するとは面白いです」


 帯の間かどこかに挟まった実が、樹延も気付かぬうちに別の場所へ連れて行かれる。何かの拍子で転がり落ちて、そこで新たに芽吹く。仕組んだのが植物なら、利用されてみたいと思った。


 目線を上げると、オルツィの後ろに見たこともない大きな鳥がいた。思わず後ずさると、振り返ったオルツィも同じように一歩下がった。


鴆鳥ちんちょう⁉ どうしてこんなところまで」


 干からびた人骨を思わせる細長く白い脚をしゃなり、しゃなりと繰り出し、優雅な舞いの足取りで近づいてくる。足先には鋭い鉤爪だ。羽毛は漆黒で、日光を浴びても光を吸収するがごとく深い。首がスラッと長く、首から上は真っ白だ。くちばしも白く乾き、黒い目が空洞のようで、まるで髑髏どくろだ。


 死者の魂魄を食らう死神の姿だ。子供の頃に何かの祭りで見た「見吾死哉」(我に出会えば死ぬ)と書かれた黒い山高帽に、白塗り顔の死神の記憶が甦る。目をつぶると瞼に浮かぶので、しばらくの間は一人で寝るのが怖くてたまらなかった。


「鴆鳥、この人はわたしたちの仲間よ。森を傷つけたりしないわ。安心してちょうだい」

 オルツィは語りかけるが、死神はお構いなしに近づいてくる。全長は樹延の身長よりも大きく、恐怖がじわじわ迫る。


 すぐそこまで来た死神の興味はオルツィではなく、樹延に向けられていた。リズムを踏みながら樹延へ首を伸ばしたり、喉をグルグル鳴らしている。


「動かないで樹延さん。好きにさせてあげて」

 好きにと言われても、名工が打った刀のような嘴でつつかれたらたぶん、頭蓋に穴が開く。


 死神に魂を持っていかれるなら構わないと背筋を伸ばした時、急に黒色の羽に目の前を覆われ、頭から両足までを撫でられた。


 死神の黒い目の奥に、一点だけ白い光がある。光が何かを物語るようだが、樹延には分からぬまま、鴆鳥は優雅にターンし、また林の中へ戻っていく。


 その姿が完全に見えなくなると、オルツィは樹延の両腕をつかんだ。

「大丈夫⁉ どこも痛かったり苦しくない?」

「特にはありませんが」


「本当に? 鴆鳥ちんちょうは森の死神と呼ばれていて、羽根には人を即死させるほどの猛毒があるのよ。普段はこんなに人里近くへ来るはずないのだけど」


「そうなんですか」  

「だからもう終わりだと思ったわ。……良かった」

 オルツィはつかんでいた手を離し、ほうっと大きく息をついた。


「羽根で触れられましたが、なぜ無事なんでしょうか」

「さあ。触れられた時はどうだった?」


「意外と硬質でした。あと、蜜を煮詰めたような濃厚な匂いがして。なんだか、今ならいくらでも食べられそうです」

 急に空腹を覚えて、腹がぐうと鳴った。


鴆鳥ちんちょうが猛毒を持つのは、毒虫や毒性の植物を食べるからなの。人が森の怒りに触れれば鴆鳥は毒をもって制裁を与える。でもあなたには元気を分けてくれたのよね。やっぱり森があなたを認めたんだと思うわ」

 二人で木々を見上げる。


 森が生き物を育て、育てられた生き物が森を守る。森全体が一つの生き物だというオルツィの言葉に納得がいった。


 だが同時に、毒を持つ死神なら一緒に連れて行って欲しかったとも思う。扶蘇ふそ皇子に毒を与えた。その樹延が猛毒を食らうなら、これ以上ない死に方のはずだ。


「湖まで行きましょう。お腹空いてるだろうけど、歩けるわよね?」

「はい」


 しかしここで死んではオルツィに迷惑をかけてしまう。今は考えるのをやめた。

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