5 秦の行方

 渭水いすいは黄河の支流の一つで、流域にはいくつもの都が築かれると同時に、数々の運命的な場面を生んだ川だ。古くはいん末に北岸で釣りをしていた太公望たいこうぼうと周の文王ぶんおうが出会い、後に諸葛亮(孔明)が陣没する五丈原は渭水南岸にある。


 しんの都、咸陽かんようも渭水流域に都筑された。


 だが巨大になった秦国に咸陽城は手狭となったため、始皇帝は南にとてつもない規模の宮殿を建てた。始皇帝が崩御した今もなお建築中の宮殿は、阿房あぼう宮という。


 丞相じょうしょうという秦国では始皇帝に次ぐ身分を得て、李斯りしは阿房宮の敷地内に自身の宮殿を築城できるまでになった。だが心はちっとも晴れないまま、結われた頭を掻きむしる。


「ふざけるなよ! 樹延ジュエンが消えただと」

 扶蘇ふそ皇子の遺体を確認。蒙恬もうてんは捕縛したが、樹延の姿はない。そう報告を受けた。


 ふざけるなよ。ようやく、目障りな存在をこの世から消せると思ったのに。


「そんなにカリカリしちゃって。あぁあ、頭が散らかって、若禿ハゲが丸見えですよ」


 李斯こだわりの執務机は、漆塗りに側面に螺鈿らでんと彫刻で昇り龍の装飾が施されているものだ。目玉が飛び出るような値段の代物に、何の躊躇もなく半分尻を乗せ、上から見下ろしてくるなよなよしい男。いや、元男というのが正しいか。


「出て行け趙高ちょうこう。今はお前の相手をする気分じゃない」


 髭の無いつるりとした顔とやけに甲高い声が、宦官かんがんだと示している。遠慮がないのは、趙高の名が示すようにちょう国の王家に連なる出自なのと、丞相李斯と同等の権力を有しているからだ。


「樹延がどうだっていうんですか。たかだか郎官ろうかんの一人でしょう」


 言いながら皿に盛られた茘枝ライチの皮をむく。色白の指使いがやけになまめかしくて目を奪われるが、これは南部から始皇帝へ献上された初物だ。献上する相手はもう居ないとはいえ、こいつの胃袋に収まるのは納得いかない。


 李斯は皿ごと取り上げると、机の下に隠してしまった。


「お前と似ているからだ」

「え。私、そんなにいい男ですか」

「嬉しそうに言うな。顔のわけがないだろう」


「冗談ですよ。彼は扶蘇皇子の教家、私は胡亥こがい皇子の教家で、どっちも皇帝陛下のお気に入りでしたからね」


 そうなのだ。樹延も趙高も秀才なのは認める。最高学府の太学たいがくでの成績も抜群に良かった。樹延などわずか十六歳で課程を修め、評判は宮廷中に知れ渡っていたものだ。趙高は幼少期に母親が犯した罪のせいで腐刑に処されたが、それ以外は非の打ち所の無い経歴である。


 一方の李斯は田舎の小役人から始まり、自力でコネをつかんで這い上がってきた。こいつらとは苦労の質も量も違う。樹延には決して与えられないだろう汚れ仕事も厭わなかったから、今があるのだ。


 二人とも土台が大貴族の出で、生まれながらにコネや人脈を持っているのだから、己の才覚を頼りに地道な下積みを経て上り詰めてきた李斯には、面白くない。


「俺への嫌味か」

「やだなぁ、そんなわけないじゃないですか。焚書坑儒ふんしょこうじゅなんて李斯りし殿にしかできないですよ。あれは惚れ惚れしたなぁ」


 十五年前に始皇帝が即位し、近侍になった李斯は自らが理想とする法家思想を推し進めた。世の建前は、人の徳が政治を動かすという儒教思想であり、太学で学ぶのも儒学だ。


 だが李斯と始皇帝が選んだのは、人の本質は悪であるから、社会維持には徳ではなく法による君主の集権統治が必要という法家思想だった。全土を四十八郡に分け、その下に県を置く。地方行政の末端にまで法による統制を徹底して行き渡らせたのだ。


 そして反対する儒家たちの教書を焼き、いつまでたっても不老不死の仙薬を完成させぬという理由で、見せしめに思想家どもを四百人以上生き埋めにしたのだ。


「お前に言われても褒められている気がしない」

「でも思想統制と言いながら、李斯りし殿は本当は世界を壊したかったんですねぇ。今わかりましたよ」

 言い当てられて言葉に詰まる。


 やっとの思いでつかんだ始皇帝の近侍として一つ一つ実績を積み重ね、時に相手を騙し、脅し、非情の手段で政敵を排してきた。隙を見せれば次に刺されるのは己の番で、肩の力を抜ける日はない。


 樹延は、そんな李斯とはすべてが正反対だった。いつも肩で風を切っている。しかも吹くのは宮廷の淀んだ風ではなく、あそこだけ初夏の竹林なのだ。


 風を切るにはあまりに肩の位置が低く、まだ若いにも関わらずなびかせる髪はまばらな李斯とは、悲惨なくらい違いすぎる。


 唾棄すると同時に、このままでは決してあの男との差は埋まらないと、延髄で理解した。

 事あるごとにその思いは湧いて戻り、李斯の体内を引っかき回す。落ち着いて物事を考えるどころではなくなり、叫んでも、壁に墨壺を投げつけても晴れることはない。


 だから、わずか十六歳で太学を修めたあの男が信じていた価値観と世界を破壊してやったのだ。

 李斯りしの大義は始皇帝の正義である。即ち秦という大国の正義であり、ようやく心に平安が訪れるはずだった。が、なぜかずっと晴れない。


 そんな時だ。

 『ちょっといい思いつきがあるんですが聞いてくれます?』と、今日のように執務室へ無理矢理押しかけて来たのが、趙高ちょうこうだった。


『自分が仕える皇子を次期皇帝にしたいと思うのは、ごく自然なことですよね』


 言うに憚からず、扶蘇皇子を廃したい趙高と、樹延を蹴落としたい李斯の利害は重なった。焚書坑儒を批判されたのを口実に、扶蘇ふそを宮廷から遠く離れた雁門がんもん郡へ追い出すことに成功したのだ。


 だが、蒙恬もうてんに預けるならと扶蘇の左遷に応じた始皇帝は、どうやら長子を見捨てたわけではなかったようだ。己の死を悟った始皇帝が、咸陽で葬儀の準備を整えるよう璽書じしょをしたためた相手こそ、扶蘇だった。事実上の後継指名である。


 趙高は囁く。

樹延ジュエンに負けたくないでしょう? 私の胡亥こがい皇子を皇帝にすれば、扶蘇皇子共々あの男を完全に屈服させられるでしょうね』


 こうして李斯の手により勅命は書き換えられ、二代目皇帝には胡亥が即位した。『受命于天既壽永昌』が刻まれた始皇帝の璽印は今、趙高の手にあるのだ。


 扶蘇皇子と共に亡き者となるはずだった樹延が生き延びているのだけが誤算だった。


「彼のために世界まで壊したのですから。李斯殿はまるで、殿方に恋する乙女のようですね」

「俺が穏やかなうちに出ていけ」


「いいですよ、教えてあげても。樹延の行き先」

「なんだと。お前に分かるのか」


 にっこり笑う趙高は、手のひらをくるりと返して差し出してきた。少しだけ迷ったが、心が晴れない李斯は三つばかり茘枝ライチを盛ってやる。


「美味ですねぇ、これ。まさに皇帝の味」

 その目の奥に、指を近づけただけで切断されそうな狂気じみた光を見て、ぞっとする。


 男性器の切断という腐刑の想像を絶する恐怖、痛み、苦しみを幼少期に経験したからだろうか。受刑者には衝撃で口がきけなくなったり、悪夢や夜驚に苛まれて自殺する者も少なくない。人格崩壊することなく立ち直った趙高は、もはや天をも恐れはしないのか。


「この間、始皇帝の書簡を見ていたんです」

「書簡を勝手にか?」


「当然です。もう始皇帝はいないんですから、これからは知らなかったでは命取りになりますよ。李斯殿も留意されるべきです。その中に蒙恬もうてんとの書簡がありましてね」


「蒙恬が皇帝と直接書簡を交わしていたのか」

「ええ。陛下はずっと不老不死を求めていらしたでしょう。どうやら豊海バイカルに幻獣守を自称する風変わりな氏族がいて、そこに棲む幻獣とやらが不老不死の力を持っていると書かれていたんですよ」


「幻獣? 麒麟きりんのような伝説上の生物か?」

「具体的にはまだのようです。蒙恬は今後も氏族と交流を続け調査を行うと書いてましたので、樹延を行かせた可能性はあるんじゃないですか」


 不老不死など李斯は信じていないが、自分の知らぬ情報を樹延だけに入手されるのは鼻持ちならない。


豊海バイカルか」

「あ、嬉しそうな顔になった。いいなぁ、私も誰かを恋慕してみたいものです」

 茘枝ライチを食べ終え「ではまた」と趙高は出て行った。


 ふつふつと、体の中で湯が湧いたように李斯の腹の底が熱くなる。

「樹延。今度こそ俺の眼前で這いつくばらせて、命乞いをさせてやるからな」

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