4 獣医ミグ

 樹延ジュエンの腹痛がようやく治まった頃、ユルトに男が入ってきた。

「ミグ? 何の用」

「うまそうな匂いだな。ツェグ婆の鍋か」


 布団代わりの毛皮の隙間からのぞくと、さっきトノウの両隣にいた二人のうち、年長の方だ。黒髪に背が高く、凛々しい顔立ちをしている。だが、何の用と言ったオルツィの声は、ぎょっとするほどトゲトゲしい。


「俺にもくれよ」

「よそへ行ってちょうだい」


 ミグが隣に座り込んできたので、オルツィはサッと立ち上がる。食べた器を隅にある桶で洗った。

 ミグの鋭い目が樹延の寝台を向く。


「寝てるのか」

「ええ。さっきので疲れたみたい」

 オルツィの言う通りに、ここは寝たふりを決め込んだ方がいいだろう。樹延は呼吸を小さくして懸命に気配を消した。


「なぜそんなに親切にしてやる必要がある。そこは親父さんの寝台だろう」

「見ず知らずのわたしを助けてくれたわ。恩を返すのは当然でしょう。それに父はもう、戻らないわよ」


「オルツィが信じなくてどうするんだ」

「ずっと待つのもつらいの。いないと思って先へ進まないと」


「俺たちも探してる」

「いなくなって二年近くになるのよ。わたしはもういいって、何度も断ってるでしょう。何が言いたいのよ。用がないなら出て行ってくれない?」


 明らかに苛立っているオルツィだが、なおもミグは居座る。逆効果ではないかと思った時、話題が樹延に向いた。


「あいつの処遇を、今トノウさんが東と話し合ってる。東の奴を殺しちまってるからな。引き渡して死刑だろうな」


「どうしてよ⁉︎ 無断で侵入して襲ってきたのは東でしょう。殺されても文句は言えないはずよ!」

「ムキになるなよ」


「わたしは何度も警告したわ。なのにあの男、異様にギラギラしたおかしな目をしてた。もし樹延さんが助けてくれなかったら、どうなっていたか」

 追われた恐怖を思い出し、オルツィは両腕をさすった。


「そうかもしれんが、樹延が面倒ごとを持ち込んだのも事実だ」

蒙恬もうてんさんがわたしたちを裏切るはずがない。このままじゃ良くない事が起こると判断したから、樹延さんを寄越したんじゃないの」


「ならば蒙恬本人が来るべきだろう。こんな弱そうな奴、信用なるか」

「そうね。もしうちじゃないところに泊まらせたら、あんたみたいな人がどんな危害を加えるか分からないわね」


「なあオルツィ、親父さんが突然行方不明になって、一人で不安なのは分かる。けど得体の知れない男をいきなり信用するのはどうかな」


「あんたよりはよっぽど信用できるわ」

「だから、それは悪かったって」

「いいかげんにして。もう出て行ってよ! これ以上話したくない!」


 ガシャンと大きな音がしたので、思わず起き上がってしまった。ミグが腕で顔を庇っていて、足元には金属製の小箱と石が散らばっている。

 樹延と目が合い、ミグは小さく舌打ちしてユルトから出て行った。


 オルツィは泣いている。


 寝台から抜け出し、不織布フェルトに散らばった石を金属の小箱に拾い集めていく。驚くことに、小箱は銀製だった。


 涙を手で拭い「ごめんなさい、ミグがひどい事を言って」と、オルツィも拾い始める。


「ミグさんと何かあったのですか」

 ただ沈黙を回避しようとしただけで、返答は期待していなかった。オルツィの命を助けたとはいえ、会って話したのは今日が初めてだし、樹延は客人でも友人でもない。オルツィが自身のことを明かす義理はない——


「浮気したのはあいつの方なのよ!」

 返答が早かった。しかも痴話喧嘩だ。


「というかわたしの方が浮気相手。あいつにはちゃんと本命の彼女がいて、わたしとは最初から遊びのつもりだったの。なのに優しい言葉をかけてきて。好きだなんて言って、ほんと腹立つ」

 言いながら、オルツィの頬にまた涙が伝う。


「もう顔も見たくないけど、ここは小さな村だし、同じ幻獣守同士だからそうはいかなくて。あいつは獣医だから貴重なのよ。だからって彼女とは別れるからやり直そうなんて、自分に都合の良い事ばっかり言ってきて。振り回された人の気も知らないで。順番を間違えて悪かったって、今更謝ってきても意味ないんだから」

 こぼれてくる涙を手の甲で拭う。


 以前、同僚の女官から同じような愚痴を聞かされた時に「他に男などいくらでもいるでしょう」と言ったところ、全く慰めになっていないと激怒されてしまったことがある。


 背が高く、引き締まった端正な顔立ちのミグだ。女受けするだろう。傷ついた家畜や幻獣を前に自分ではどうにもできない時、獣医として助けに入ってくれたらどんなに心強いか。そんなミグにオルツィが恋心を抱いたのは、容易に想像できる。


 たとえミグがどんな男だとしても、愛していたのだ。その気持ちを否定してはならないと過去に学んだが、だからといって樹延には、気の利いた言葉はかけられそうにない。黙々と拾い続けるしかなかった。


「ごめんなさい。こんな村だと誰にも話せなくて、つい」

 すべてを銀箱に戻し終えると、オルツィは樹延と目をあわせた。


「誰にも言わないでいてくれる?」

「言いません」


 石は鉱石なのだろう。一部分が研磨され紫がかったものや、灰緑色のもの、黒く輝くものもあった。


「きれいな石ですね」

「湖の近くでたまに採れるのを集めているの」

 まるで、誰にも明かせないオルツィの胸の内のようだと思った。


「一つ、お聞きしてもいいでしょうか」

「なに?」

「幻獣のことです。この地域独自の生命体と聞きましたが、どんな生物なのでしょうか」

 オルツィはきょとんとした。


「あなた、蒙恬もうてんさんから何も聞いてないの?」

「とにかく北へ向かえだけで。道案内をしてくれた兵も話そうとしてくれませんでした」


 それに加え、樹延の知識では遊牧民たちは文字を持たないはずだ。だがトノウは蒙恬が布に書いた内容を難なく理解していたように見える。文字を学んでいることからも、しんとの交流はかなり以前からだろう。始皇帝には明確な目的があったのだ。


「もしかして幻獣は、始皇帝が求める不老不死の力をもつ生き物なのではありませんか」

「そうよ。ただ、どの幻獣でもいいってわけじゃないの」

「一体だけではないのですか?」


 泣き顔を笑い顔に変えて、オルツィはとっておきを思いついたように目をきらきらさせた。

「じゃあ行ってみる? 会えるかどうかは運次第だけど」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る