7 バイカル湖

 森を進むと、鴆鳥ちんちょうの他にも幻獣に出会うことができた。額に角を持つ一角ウサギが三匹連なってぴょんぴょん跳ねていき、茂みの奥では黒妖犬が紅玉の目を光らせている。大きな緑色の栗鼠リスは、落ち葉を衣のように体に纏っていた。

 

 すると今度は、大鹿がすぐ目の前を横切った。距離をとると振り返り、樹延ジュエンをじっと見つめている。


「とても立派な牡鹿おじかですね」

「あれは幻獣ではないけどね。角で小刀や装飾品を作ったりは、しんでもする?」


「はい。あと若い角は鹿茸ろくじょうという強壮薬にもなります」

「知らなかったわ。樹延さんはお医者なの?」

疾医しつい瘍医よういは修めましたが、実際に加療したことはほとんどなくて。扶蘇ふそ皇子の教家をしていました」


「教家って師範のことよね。わたしでも習ったら字が読めるようになるかしら」

「なりますよ。そのために始皇帝は、国中の文字を統一されましたから」


 安定した国家形成には法律や勅令を平等に行き渡らせる必要がある。口伝による誤変換を生じさせてはならず、一字一句正確に伝えるために、始皇帝は各国でバラバラだった文字を統一した。秦という統一国家の壮大な計画に胸を躍らせたものだ。


蒙恬もうてんさんが持ってきた詩の本をトノウさんが読んでくれてね。書が読めたらきっと楽しいだろうなって思ったの」

「楽しいですよ。私は好きすぎて、書物になりたいと思ってましたから」


 事実、樹延は竹簡の書物に埋もれて暮らしていた。書き写し読むのはもちろんだが、書物が森になっている空間自体も幸せで、自宅は足の踏み場もない。いい歳をして蒙恬から説教される有様だったのだ。


「書物になりたいの? 竹簡で巻かれて? 面白いわね」

 オルツィは笑って、両手を上に伸ばしてクルクル回り出した。どうやら竹簡になっているらしい。


「わたしも森の木になりたいって思うから、ちょっとは分かるわ。そうだ、幻獣の森ではね、大樹は人を食べるの。だからあまり森の奥に入っては駄目よ」


 なんと反応すべきか。文字にならぬ曖昧な声を出した樹延に、オルツィはちょっと眉を上げる。


「何を言ってるんだと思ったでしょ。本当なのよ。大樹の中に取り込まれて戻ってこれなくなる人がいるんだから。書物になって文字に溶かされるのと同じよ」


「はあ」と返してオルツィを追うと、急に目の前が開けて、バイカル湖が現れる。


 あまりの大きさに、今度は声を失った。遥か彼方まで、見える範囲は全部水だ。

 水面には白っぽい透明なものがいくつも浮いて、左右にぷかぷか揺れる。溶けた氷だ。冬には一面凍るのだろう。


「この色は、一体」

 湖岸に駆け寄り、水をすくってみる。手の中の水は透明だ。だが砂利の湖岸から離れた湖面は、深い青や翡翠ひすい色が混ざり合っている。


 樹延にとって大きな水場といえば黄河だが、物心ついた時には既に黄色く濁っていた。こんなに透明で大きなものを見るのは初めてだ。


「こっちよ。舟に乗って」

 桟橋に括り付けられている縄を解き、樹延に乗るよう促す。中には魚を突くもりがあって、一瞬ぎょっとした。


 かいを両手に、オルツィは力強く漕いでいく。

「慣れているのですね」

「村の子どもはみんなできるわよ」


 みるみるうちに砂利の底面がなくなる。透明度は高いのに湖の底は見えないのだ。

 落ちたら吸い込まれそうだ。少し恐怖を感じて、小舟から身を乗り出すのをやめる。


 その様子にオルツィは「深いから落ちたら怖いわよね」とほほ笑んだ。


 オルツィが銛を引き寄せた。あれで体のどこかを突かれて湖へ突き落とされれば、もう終わりだ。村にとって面倒でしかない樹延の存在は、深く沈めてしまった方が好都合だろう。


 だがオルツィは漕ぐ手を止めず、静かに打ち明けた。

「わたしの父は行方不明なの」

「ミグさんが仰っていましたね」


「いなくなったのは二年近く前。わたしの十五歳の誕生日だったわ。崖は探し尽くしたけど、転落したような痕跡はないから、この湖のどこかにいるのかしらね。父も幻獣守で湖を愛していたから、戻ってこれなくなったのかもしれない」


「森の大樹の中に取り込まれるのと同じですか」

「そうね。ここは幻獣、蒼き狼≪エジン≫の棲みかなのよ」


「狼が、湖に? あの浮島ですか?」

 オルツィの向こうに見える島を指さすが、違うと首を振られる。


「湖の中に棲んでいるのよ。現れる時は一面に青い霧が発生して、湖の中からやって来るの。湖面を歩いて、ブルブルっと体を振るわせたりしてね」


 樹延の頭で理解できる範疇を超えている。だがオルツィが妄想の世界に現実逃避しているとは思えなかった。


「……獣ではないのですか」

「獣の形をして実体もあるけど、もしかすると精霊なのかもしれないわね。蒼き狼≪エジン≫と、白い牝鹿めじか≪ブフ・ノイオン≫。どっちも神様と言われていて、二体が睦み合うと不老不死の力をもたらすそうよ」


「伝承の存在なのですか」

「わたしは蒼き狼は見たことあるけど、白い牝鹿はまだ一度も」


「白い牝鹿も湖に棲むのですか」

「あの島、白い部分があるでしょう? あそこの白い森に現れるのよ」


 オルツィは浮島を指さした。湖が巨大なので、島とはいってもかなりの大きさだ。


 小舟からしばらく湖面を眺めたが、今日はよく晴れて霧が出そうな気配は全くない。かつて蒙恬も、こうして霧を待っていたのだろうか。


 既に森の死神や幻獣と出会った樹延には、不老不死をただの迷信だと受け流せそうにはなかった。

 それから、言い忘れていたとふと思い出す。


「先ほどは、私のせいでミグさんと言い争いをさせてしまい申し訳ありません」

「気にしないで。わたしがあなたを助けたいと思ってるの」


「面倒なだけでしょうに」

「森も湖もあなたを受け入れてる。それと同じよ」

 樹延には理解できない。


「湖面が沈黙しているわ。大切なもの全てが崩れ落ちて、あなたの心は深い悲しみと絶望に満ちてしまったのよね。どんな言葉も、おいしい食べものも、美しい景色も、今のあなたには何も響かないのでしょう? 湖はいつでも、人の心を写している。だからここでの生活があなたに喜びの波紋をたくさん広げて、いつか救いになってくれればいいと願うわ」


 櫂が描く波紋を見つめる。水の音は心地よいものだ。

 少し間をおき、自分も湖とオルツィに答えようと思った。


「私は、長くお仕えしてきた扶蘇ふそ殿下に、毒を含ませてしいしました」

「始皇帝が自害を命令してきたんでしょう?」


「それでも、不敬ですが弟のように思っていた方の命を、この手で奪いました」

「望んでしたことじゃないでしょう」


「命じられ仕方がなかったでは到底片付けられません。ここへ来る間にも、二人の兵が命を落としました。なのに私だけが生きのびてしまいました」

「でもおかげで、わたしは助けられたわ」


 オルツィの青い目が樹延を見つめる。湖面と同じで、きらきらと輝いている。バイカルの美しい景色も樹延の心には映らない。けれどオルツィの瞳は温かい。


蒙恬もうてんさんが、自分の代わりに生きて北へ向かえと言ったんでしょう? 従わないと、あの人怒ると怖そうよね」

「ええ。部屋を片付けろと、何度か雷を落とされました。それはもう、烈火のごとく」


 樹延は少しだけ笑った。ごく自然な感情だが、始皇帝からの勅命が届いて以来ずっと失っていたものだ。


 蒙恬の思いに答える。そう考えれば生きる意味はある気がした。親以上に家族のように接してくれた蒙恬への恩返しになるだろうか。


「この事は、誰にも言わないでいただけますか」

「言わないわ。でも話してもいい気分になった時は、また話してくれるかしら」

「オルツィさんも、私が相手でよければまた」


 頷いて、オルツィは岸へ向けて舟を漕いだ。

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