第二章 蒼霧の向こう

1 覇王になる男

 項羽こううは泣いていた。

 扶蘇ふそが死んだ。ありえない。あいつは始皇帝の長子だぞ。同い年なのに、俺よりずっと頭が良くて。征服者の息子のくせに人民思いの奴なんだぞ。


「なのになんでだよ。君主になるべきだったろうが」

 あまりにやりきれなくて、もう飲むしかないと、昨日の朝から居酒屋に陣取っている。鼻をぐずぐずさせながら項羽は飲み続けていた。


「ちくしょう、酔えねえぞ。黄酒でも米酒でも馬乳酒でも何でもいいから、もっと酒持って来い!」


 身の丈八尺二寸(約189㎝)は座っていても頭二つ抜きん出るし、指先までがっしりした体の厚みはまるでヒグマだ。一体何を食ったらここまで育つのか。ギョロ目の巨漢にがなられ、店主は「へい」と小さな声で、かめの底の酒をかき集める。


 扶蘇とは、生き別れの半身と思うほどだったのだ。


 七年前、始皇帝が項羽の地元の会稽かいけい郡へ巡幸で訪れた。まだ雁門がんもん郡へ左遷される前の扶蘇も同行していて、同い年の皇子にちょっといたずらをしてやろうと項羽は、宿舎の寝室に蛇を仕込んだのだ。


 すぐに見つかってひっ捕らえられたが、対面した扶蘇は、二人きりで話したいと他の者を下がらせた。そして「こういうのはおれも嫌いじゃない」と笑ったのだ。


 それからすぐに打ち解けた。共に過ごしたのは五日足らずだが、時間は関係ない。聡明で洗練された扶蘇と、単純で粗削りな項羽という全く正反対の二人ながら、なぜか気が合った。


 征服者のしん国の皇子と、滅ぼされた国の名家の末裔という立場も関係ない。議論を始めれば食事も忘れ、それぞれに欠ける部分を補いあえる間柄だった。


 その後直接会う機会には恵まれなかったが、離れてからもずっと文のやり取りは続いていたのだ。


 この上なく貴重な友だ。あんな男はもう二度と現れないだろう。その友のために泣いて、何が悪い。飲むしかないだろう。


「酒はまだか! 早く持って来い」

 小さな村の寂れた居酒屋だ。酒はとうに底をついており、店主が近隣からかき集めているようですと、見かねた家令の范増はんぞうが耳打ちしてくる。

 

「若様、虞姫ぐきからの書簡が届いております」

「後にしろ」

手の平で顔をぐじぐじしながら、項羽は盛大に鼻をすすり上げる。


「雁門郡の様子が書かれています」

「なに、もしかして扶蘇が生きていたのか⁉」


「いいえ。薨去こうきょされたのは確かです。そして将軍の蒙恬もうてんは捕らえられ、新たに派遣されたのは知れた名の者ではないようです」


李斯りしの奴、蒙恬一族の力を完全に削ごうというのだな」

 蒙恬には弟があり、こちらも有能な武将だが処刑されたと聞いた。


 一方、都の咸陽かんようでは始皇帝の葬儀が終わり、末子の胡亥こがいが二代目皇帝に即位している。


「胡亥など、己の頭で考える技量すらないだろうに。扶蘇に比べたら雲泥万里だ」

「だからこそ、趙高ちょうこうは皇帝に据えたのでしょうな」


 宦官かんがんの趙高は、胡亥の教家だった。ゆえに胡亥は、趙高の言う事なら疑うことなく何でも頷くという。


「胡亥をお飾りの皇帝にして、始皇帝が築いた土台をまんまと横取りしたわけか。李斯も趙高も、実に気に食わん」


 項羽は特に宦官が嫌いだった。男でも女でもない顔は、何を考えているのか読めない。


「それからバイカルの西の村に樹延ジュエンという男が現れたそうです。どうやら蒙恬の差し金のようだと」


「聞いたことがある名だぞ。扶蘇の教家じゃないか? 確か髭の似合わぬ、女みたいな顔をした。して、虞姫は何と?」

 ぢーんと鼻をかみ、ようやく身を前に乗り出して、項羽は続きを促した。


「お会いになるそうです。もし若様の障壁となりかねないのであれば、その時は消えてもらうと」

「早くないか? まぁ、虞姫ならやりかねんか」


「幻獣の存在に李斯と趙高が気付くのも時間の問題です。我らが祖国復興のため、秦よりも、樹延よりも先に若様が手に入れられる事が重要にございます」


「不老不死か」

 衰え老いるのは恐ろしい。志半ばで果てるなど、想像するだけで口惜しさに身を裂かれる思いだ。


 項羽の祖国の楚は、始皇帝に滅ぼされた。まだ幼かった項羽は直接恨みを持つわけではないが、親世代の無念は掃いて捨てるほど聞かされた。扶蘇にいたずらを仕掛けてやろうと思い立ったのも、無関係ではない。だがそれを一掃するほど、扶蘇はかけがえのない友だったのだ。


「やはり扶蘇ふそは、李斯と趙高に殺されたのだな」

 友の無念を晴らす。仇を討つ。この項羽が立ち上がる理由は、それだけで充分だ。


 バイカルの幻獣、蒼き狼≪エジン≫と、白い牝鹿めじか≪ブフ・ノイオン≫が睦み合うともたらされるという不老不死の力。実体はまだつかめていないし、どんな形で力が発動されるのかも不明だ。


 ただ、力を得るに相応しいかどうかを幻獣が判断するのだという。虞姫という東の村の幻獣守の協力が得られなければ、ここまでたどり着けなかった。


 虞姫も東の村長もなかなか全てを明かそうとしないが、ここで急いては信用を失うというもの。


「力ずくで女をものにするのは性に合わんからな。俺も向かうと虞姫ぐきに伝えろ」

「恐れながら、使者よりも若様の足の方が速いでしょう」

「ガハハハハハハッ! 違いねえ」


 さっきまでぐずぐず泣いていた大男の豪快な笑い声を聞き、店主がおずおずと清算を求めてきた。


 金額を耳にした范増はんぞうは目を剥いて二度聞きしたが、咳払いと共に「承りました」と懐に手をやる。


「家計が底を尽きる前に、一日も早い祖国復興をお願い申し上げます」

 国が滅亡し、没落した項家の家計は火の車なのだ。やり手家令の范増にそこを突かれると痛いのだが、大きな胸を広げて項羽はふんぞり返った。


「小さい小さい。この項羽の相手が李斯と趙高なら、秦の末路は決まったようなものよ。幻獣が選ぶのは秦でも、樹延でもない。俺だ」

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