2 樹延、ピンチ

 樹延ジュエンの朝は水汲みから始まる。どこでも女子供の仕事だが、この家では幻獣守のオルツィが主人だ。


 近所の嫁や娘たちと挨拶を交わし、次にツェグ婆のユルトを訪ねる。いわゆる村の長老だが、それ以上にオルツィの曾祖母である。料理が苦手な曾孫の為に毎日めしの支度をしてくれているのだ。


「おはようございます。水をお持ちしました」

 ツェグ婆がかき混ぜているかめの中身は馬乳酒だ。馬乳を発酵させた弱い酒で、樹延にも馴染みがあるが、ここでは子供も飲むという。


 すっかり白髪のツェグ婆は顔中しわしわで、眼球が見えないくらい細い目でいつも微笑んでいる。

「焚き木が少ないので、後で作っておきます」

「ありがとうねぇ」

 毎日こんな調子だ。


 それから家に戻り、オルツィと共に四刻から六刻(一刻は約三十分)ほど馬で駆ける。湖へ向かうこともあれば、なだらかな丘陵を上り下りする日もあり、周辺の土地勘は大体つかんだ。


 オルツィと分かれてからは焚き木を作ったり、嫁たちと一緒に洗濯をする日もあれば、森に入ってキノコや山菜を摘んで過ごすこともある。湯殿の水を汲み湯を沸かすのは重労働だが、空と森の木々を眺めながらの沐浴は格別だ。嫁たちから背中を流してあげるとよく言われるが、毎回固辞している。


 その日は焚き木と山菜をツェグ婆に届け、オルツィのユルトにも補充し終わると、まだ日は中天に達していないのにオルツィが帰ってきた。


「おかえりなさい。どうかしたんですか」

「東の村から迎えが来てね、秦からの客人を歓待したいって」

 樹延のことだ。遊牧民にとって旅人は貴重な情報源で、客人として歓待し話をしてもらうのが慣例だ。バイカルまでの道中、樹延もそれに助けられた。


「私は客人ではありませんが」

 東の男にオルツィが襲われたこと、それを樹延が殺害したのは事故として、互いに遺恨を残さないと村長間でまとまったはずだ。それからだいぶ経つが、今更何のつもりなのか。


「これから秦がどうなっていくのか聞きたいのかしら」

「お断りできないのでしょうか」

「断る理由がないわ。危険がないとは言い切れないけど」

 オルツィはユルトに入ると、父親の行李こうりから着替えを取り出した。


「これに着替えてちょうだい」

 オルツィは出て行った。渡されたのはオルツィと同じ柄の刺繍が施されたほうだ。秦から着てきた着物を脱ぐ。


 戻ってきたオルツィは樹延の姿を見て「似合ってるわ」と満足そうに笑った。細身の樹延には少しだぶつくが、袍は麻で着心地がよく、上の衣は軽くて暖かい茶色の毛皮だ。キツネだろうか。槍や弓を持てばすっかり幻獣守だ。


「これを。ツェグ婆が作ったのだけど、役立ててちょうだい」

 見事な刺繍の掛毛氈タペストリーと、父の形見だというオルツィの短刀を渡される。


「貴重なものでしょう。よろしいんですか」

「無事に帰ってきてね。お願い」

 言いながら樹延の袍の襟元を直し、毛皮の衣をキュッとつかんだ。


「それにね、東には美人が多いらしいわ。歓待ってことはきっと、夜は女の人が、その」

 オルツィは言葉を濁したが、さすがの樹延にもわかる。


「そんなに簡単にほだされそうに見えますか」

「うん」

 迷いなくオルツィは頷いた。

 早いな。そこは否定するところじゃないのか。


「あと、ミグの本命の彼女も東にいるって……」

 ミグと一緒にするのか。ちょっとむっとして、樹延は短刀を懐に、掛毛氈タペストリーのうに入れた。


「肝に銘じておきます。留守の間、オルツィさんもお気をつけて」

 ユルトを出て、同行のトノウ、サムラと共に馬を走らせる。


 湖の中央にある浮島を横目に進んでいく。白い牝鹿めじか≪ブフ・ノイオン≫が棲むという白い森も見える。浮島はオリホン島といい、西と東のどちらにも属さない中立場所で、それぞれのシャーマンのみが暮らしているとサムラが教えてくれた。


「西のシャーマンはオルツィの兄貴なんだ。ツァギールっていうんだけど、面倒事はいつもあそこから始まるんだよ」

「シャーマンというのは神託を受ける聖なる人のことですよね。それなのに面倒事とは一体」


「そうなんだよ! シャーマンのくせにだぜ。だいぶ前だけどさ、東のシャーマンが代替わりしたんだ。新しく来たのがすげー美人なんだけど、ツァギールのところへ挨拶に行ったらいきなり『胸揉ませろよ』って言われたって」


 東は謝罪を求めてきたが、本人は「やらせろとは言ってねえ」と全く反省の色がなく、最終的にトノウが謝罪に出向いたのだという。


「本当にオルツィさんのきょうだいなのですか」

 あまりに印象が違いすぎて、逆に興味が湧いてしまった。


「でもツァギールの話だと、美人のところに東の男たちがよくやってきて、ユルトに出入りしてるらしい。何してんだろうな」

 その顔が何を言いたいのは樹延にも分かるが、あえて答えなかった。


 東の村は、西と同じようなユルトで暮らし、用水路も引かれていて、見た目はほとんど変わらない。だが暮らす人は西のように骨格が大きく色素の明るい感じではなく、樹延と同じ肌色に細身のしなやかな体型で、髪も黒色だ。


 ひときわ大きなユルトに案内される。炉の向こう側に座る老人が村長だろう。

「よくぞ参った。儂は村長の烈于リーウだ。樹延殿といったな」


「ご招待にあずかり感謝申し上げます」

 秦の宮廷作法で不織布フェルトに額をつけると、烈于は満足そうに頷いた。


「西の村では窮屈なこともあろう。ゆるりとくつろがれるといい。おい、酒を持て」

 樹延がオルツィの家で暮らし、質素な生活をしていることも、そして二人に男女の関係がない事も知られているのだろう。


 注がれた酒は黄酒で、久々の味にあっという間に顔が熱くなる。肴はバイカル湖で今日釣り上げられたオームリで、捌き立てを生のまま黄豆醤コウトウジャンという黄豆を発酵させた調味料で和えた珍味だ。


 生魚を口にするのは勇気がいるが、トノウもサムラも抵抗なく食べているので、樹延だけ手をつけないわけにいかない。ますのようで味は良いが、生の食感が口に気持ち悪く、酒で流し込んだ。オームリの焼き魚は、香ばしくホクホクして美味だ。


咸陽かんようでは丞相じょうしょう李斯りし趙高ちょうこうが敵対する者どもを次々に粛清しているようじゃな。君は二人を知っているかね」


「李斯は元々、呂不韋りょふいという、始皇帝の側近の食客という立場から実力でのし上がった人物です。理想とする法治国家について、官僚たちとよく熱い議論を交わしていて、指導力のある方でした。趙高はあまり接点はありませんでしたが、扶蘇ふそ殿下と胡亥こがい殿下の教家という同じ立場でお仕えしました。なんというか、李斯とは全く違う底知れない感じはありました」


「ふむ。李斯が断行した焚書坑儒ふんしょこうじゅを批判したのが元で、君と扶蘇皇子は雁門がんもん郡へ左遷されたのではなかったかね。恨みはないのか?」


「皇帝陛下の勅命に恨みなどありませんが、何より蒙恬もうてん閣下へのご恩が勝ります。私も殿下も満ち足りた日々を過ごしました」


「扶蘇皇子も蒙恬もいなくなった今でもまだ、そう言えるかね」

 胡亥が皇帝に即位したことで、実権を握ったのは李斯と趙高だ。扶蘇を死に追いやったのも。


 樹延はしばらく黙り「まだ答えられそうにありません」と正直に告げた。


 宴がお開きになると、トノウ、サムラとは別々に、一人ずつ宿舎に案内される。

 ユルトに入るとすぐに「旅の汗をお流しましょう」と、湯を張ったたらいと共に女性が現れる。盥を運んできた下男はいなくなり、若く美しい女性と二人きりにされた。


「どうぞ、着物をお脱ぎください」


 さて、どうしたものか。

 半分酔いが回った頭で、樹延は必死に考えた。

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