3 麗しの女人

 いつまでたっても樹延ジュエンが動こうとしないので、女人が衣に手をかけてきた。

「いえ、あの、結構です」

 衣を両手で押さえて一歩後ろに下がる。女人はかわいらしい唇をちょっと尖らせた。


「わたしではお気に召しませんか?」

「そうではありません。あなたはとてもお綺麗で、可愛らしい方です。その、お名前は何と仰いますか」

桃花タオファです」


「桃花さん、これから言うのは、決してあなたが魅力的でないという意味ではありませんのでご理解ください。私は自分のことは自分でやりますので、どうぞたらいだけ置いておいてください。あと人に見られているのも落ち着きませんので、どうか一人にしてください。お願いします」


 我ながら、穴があったら一生入りたいくらいに稚拙な言い回しだが、どうだろうか。傷つけずに断れただろうか。

 桃花は丸い目で樹延を見つめている。頼むから、このまま泣かないでくれ。


「このまま下がってはわたしが叱られてしまうのですけれど」

「大変申し訳ないことです。もちろん全て私のせいにしてくださって構いません。そうだ、せめてお詫びにこれを受け取ってください」


 取り出したのは、ツェグ婆の掛毛氈タペストリーだ。白い布に赤い糸で、大小さまざまな菱形を組み合わせた模様が繰り返し刺繍されている。

「まあ、きれい」

「嫌な思いをさせてしまいますね」


「ふふふ。西にいい人でもいらっしゃるの?」

「いえ、そうではありません」

 樹延はかぶりを振った。桃花はお辞儀をして、ユルトを後にする。胸につけた首飾りの茜色が、しゃらりと揺れた。


 安堵と同時にどっと疲労が押し寄せたが、湯が温かいうちに使わねばもったいない。上半身を裸になると、体を拭いた。

 顔を洗うと「失礼します」と女の声がし、濡れた顔を上げて度肝を抜かれる。


 桃花に可愛らしいと言ったのは決して世辞ではない。だが目の前の女人の造作の美しさは次元が違っていた。まだ若いだろうに、漂う色香が尋常でない。下ろした黒髪は艶が出るまでよくくしけずられている。それに着ているものが絹だ。こんな辺境にいるべき女人ではない。


 顔を拭くのも忘れて、しばらく見とれてしまっていた。


 すると女人の肩から、絹の着物が滑り落ちる。するんと体を伝い不織布フェルトの上に広がると、一糸まとわぬ裸体だった。まるで天女の誕生だ。


 我に返った樹延は瞬時に背を向ける。寝台に置いていたほうを引っかけ、痩せてみすぼらしい体を慌てて隠した。


「樹延殿、こちらを向いてください」

「いっ、いけませんそのような」

 下はみつを履いたままで本当に良かった。


「私はこのまま絶対に振り返りませんので、どうか着物をお召しになり、お引き取りください」

「わたしには名前すらも訊ねてくださらないのですか」


 姿など無くても、拗ねる声だけで甘い気持ちにさせられる。こんな人がいるものなのか。


「後宮の貴女にそのような無礼は致しかねます」

 宦官かんがんではない樹延は後宮への立ち入りを禁じられていたが、妃嬪ひひんたちを遠目に見たことはある。


「わたしは後宮の女ではありません。東の幻獣守で虞姫ぐきと申します。着物は着ました。樹延殿に差し上げたいものがありますので、どうかこちらを向いてください」


 おそるおそる斜めに見ると、前合わせの袍はきちんと帯まで締められていた。体に沿うやわらかな絹では豊満な胸が隠しきれていないが、虞姫は不織布フェルトの上に正座している。


 充分な距離を取って着座した樹延に、「そんなに警戒しなくても」と虞姫は美しい顔を崩さず華やかに笑った。

「あなたにこれを差し上げます」


 差し出されたのは巻かれた竹簡の書物だ。身を乗り出して受け取り、開いて心臓が止まりそうになった。


 編纂されたばかりの『論語』の一部だ。樹延は太学たいがくで、孔子こうしと孔門十哲と呼ばれる弟子たちの言行録をまとめようと勉学に明け暮れた。医学は息抜きで学んだだけで、儒学が本業である。樹延一人ではなく、師範や多くの学友と共に取り組んだのだが、取組半ばで始皇帝に命じられ、十六歳の時に扶蘇ふその教家に就任したのだった。


 それが出来上がっている。樹延の青春の日々が、後進たちの努力で実を結んだのだ。素直に嬉しいし、涙が出そうだ。


 加えて墨の匂いが樹延の脳を揺さぶる。文字が連ねられている。竹の中に無限の世界が広がっている。

 文字に飢えていた。自覚はなかったが、今こうして食べるよりも眠るよりも強い欲望を感じるほどに、文字を渇望していたのだ。


 興奮に胸と体を震わせる一方で、樹延は冷静に考え言葉を紡ぐ。こんな辺境に『論語』が自然に流通するはずがない。


「こちらの対価に、何をお求めでしょうか」

 虞姫は嬉しそうに目を細めた。


「わたしたちは、秦から幻獣とこのむらを守りたいのです。もちろん西の村のこともですよ」

「私は秦の人間ですが」

「今は秦に追われる立場なのではありませんか」


「確かに雁門がんもん郡を出奔した時に追手があり、私を逃がすために兵が犠牲になりました。しかしそれ以降はありません」

「秦の手先は既に、西の村に侵入していますよ」


「あなたはなぜそれを」

「それも幻獣守の仕事ですもの」

「なるほど。秦ではないとすると、あなたがたの合従がっしょう相手はどちらですか」

です」


 中華統一を推し進める秦にとって、最大の敵が楚だった。最終的に蒙恬もうてんの父が六十万もの軍勢を率いて楚の公子を捕らえたが、それまでに秦は何度も大敗させられてきた。


 地図から消された楚が、不老不死とやらの力を手に入れ、秦に反旗を翻す。あり得るどころかごく自然な流れに思えた。

 だが今は、西の村に秦の手先が侵入している方が重要だ。早く知らせなければ。トノウもサムラもいない今、もしオルツィに危険が迫って——


「オルツィさんでしたわね。綺麗な目をした可愛らしい方。この間はあなたのおかげで命拾いをしたけれど、次はどうかしら」

 虞姫のまろやかな声が樹延を貫く。やはり、そうきたか。


「彼女を狙って、東の村の男をけしかけたのはあなたですか」

「違います。けれど次はどうかしら」

「不老不死の力を楚に渡すおつもりか」


「わたしたちの父祖は秦の征服戦争を見てきた結果、秦は危険だと判断したのです。いずれ秦はここを蹂躙するだろうと」

「だから楚を後ろ盾にすると。東の村はそうでも、西の村は始皇帝との友好を取り交わしています。このままでは西と東が争うことになりませんか」


「始皇帝はもういなくなり、あなたは追われているのに、まだ秦を信用するというのですか。わたしたちが不老不死の力を得たあかつきには、楚の一部として西の村の保護と発展を約束します。ですから、西の村の協力が得られるよう働いてもらいたいのです。秦から追われるあなたの言葉には、村の者も耳を傾けるでしょう」


 聞こえは良いが、秦は扶蘇が受け継ぐはずだったのだ。ここで楚に渡すわけにはいかない。

 樹延は懐から短刀を抜いた。虞姫が一瞬警戒する。


「致しかねます」

 刃を自分の首筋に当てる。


「私の存在が西の村の足枷になるなら、今すぐこの首を掻き切りましょう。もとより扶蘇ふそ殿下へ捧げるはずだったこの命、いつでも捨てる覚悟にあります」


 目を見開いた虞姫が、飛びかかるべきか口を開くべきか迷っている。もし虞姫が少しでも動けば刃を首に入れようと、樹延は短刀を握る両手に力を込めた。


 その時、巨大な槌を振り下ろしたかのような重い足音が尻に伝わる。垂れ布が揺れて、ユルトに入ってきた男のあまりの大きさに二度見してしまった。


「待て待て待てぇぇい!」

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