5 私の大事な…
断じて行えば鬼人も
第二代秦国皇帝という重責に臆する
断固たる決意で行動さえすれば、鬼とてあなたを避けていきますよ。だから大丈夫、すべてこの
「この世は鬼だらけですからね」
夜の私室で一人、灯りに竹簡を傾けながら呟く。
その時、扉で仕切られた向こうの部屋から、変声期特有のかすれた声が上がった。
「うわあああぁぁぁっ、あにうえ! 来ないでくださいっ! ごめんなさいっ、皇帝になるつもりなど!」
「どうされましたか、陛下」
ほとんど毎夜のことなので別段慌てず、趙高は扉を開けて皇帝胡亥の寝台へと向かった。まだ少年と言っていいほっそりした体が、寝台の端っこで枕を抱えて怯えている。
「いまっ! そこに
胡亥が指さす部屋の角には、もちろん誰もいない。
「落ち着きなさいませ。何もありはしません。大体、首から上がないのにどうやってこっちを見るっていうんです」
「顔がなくても
「そんなわけないでしょう。胡亥陛下を後継にご指名になったのは、他でもない父君なのですよ。扶蘇殿下は勅命に従い自決されたのです」
「何度も聞いたが本当なのか? いいや、きっと兄上は貶められたのだ。切り落とされた首を探し、首を斬った者に復讐するおつもりなのだ。この
「扶蘇殿下が殺されたと仰るんですか? まぁ、ありえなくはないですが」
「だろう!? 兄上は聡明で勇敢で、更にお優しかった。あの父上に対し物申せるのだからな。兄弟の誰もが
「扶蘇殿下の教家だった
「うむ、怪しいな。だがなぜ兄上を
「扶蘇殿下がお優しすぎたからですよ。樹延は横領か何か良からぬことを働き、扶蘇殿下に見つかったのでしょう。けれどお優しい殿下は、咎めはすれど処断はしなかった。良かれと思って温情をかけたおつもりが、樹延にとってはずっと弱味を握られ続けることになるわけです。そしてとうとうある日我慢できなくなり、殺害へと至った。勅命が書かれた
「それで兄上は首を探しておられるのか。おいたわしいことだ」
神妙な顔で
「兄上のために何かできないだろうか」
「樹延という男の行方はつかんでいて、
「仕掛けというと?」
「たわいもないネズミ捕りの罠です。さあ、もうお休みなさいませ」
「まて
「それこそたわいもない。ここは楽しいことばかりの、新しい宮殿ですよ。
「見間違いなものか!
「おっほっほっほっほ。何を仰るかと思えば。一体誰です? 皇帝陛下のお耳を汚す不敬な輩は」
「不敬ではない。臣下が何を思っているか聞くのも、皇帝の責務であろうと思い朕は……!」
「それで下々の者に惑わされてしまったわけですか。
「答えよ! お前なのか⁈」
「はい、私ですよ。申し上げたでしょう、断じて行えば鬼人も之を避くと。ご兄弟とはいえ、あの方たちは陛下が次期皇帝に指名されたことに、不満を隠そうともしませんでしたので」
「だからといって、なにも殺さぬでも……!」
「いいえ。中途半端に軟禁でもして恨みを熟成させるのが一番よくありません。もう幽鬼はいませんので、ご安心ください」
「
「皇帝陛下の為でしたら、嫌われ役も
「皇帝陛下はやめろ! あぁ、なぜ父上は朕を後継に! 他に帝位を望む兄上たちがいくらでもいるというに、なぜ最も遠い朕を選ばれたのだ」
「それはひとえに、始皇帝陛下が
「高……、不安なのだ。怖いのだ。朕が皇帝に相応しくなれるまで、そばに居てくれるか。
半べそをかく
「もちろんですフーフさま。大丈夫、すべてこの高にお任せください」
幼い頃の呼び名であやすように、胡亥が寝付くまで趙高は背中をさすってやった。
胡亥の寝室と
「趙高様」
私室に戻ると、黒い装束の男が跪いていた。常に布で顔を半分以上覆い、趙高にすら素顔を見せることはない。
代々秦王家の陰で、情報収集や暗殺など人目につかぬ仕事を請け負う一族で、
今は李斯と趙高の元で動いていた。
「バイカルで例の取引が成立しました」
「おや! 随分あっさりといきましたね。どんな手を使ったんです?」
「人は感情で動くものですので」
「よくやってくれました。李斯殿に一つ貸しが作れそうです。
「御意」
「あぁあと、宮中に幽鬼が出るそうです。見つけたら速やかに排除してください」
音を立てずに
「幽鬼宮ですか。実にくだらないですねぇ」
断じて行えば鬼人もこれを避く。
この阿房宮に、趙高の鬼となる者など存在しない。
「大人しくしていれば攻撃などしないのに。楚の
すべてを制して手に入れた。始皇帝はそういう男だった。
「ですから私たちもそうあるべきなのですよ、フーフさま。あっ、口が軽い伽の女には、早々に消えてもらわねば」
趙高は一人、にっこりと微笑えんだ。
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