6 青霧の主

 翌日、西の村へ到着したのは夕刻だった。

 馬の世話をしてユルトへ戻ると、オルツィが外で待っている。髪を下ろして、いつもと衣が違うようだ。


「よかった、無事に帰ってきてくれて」

「色々と疲れました」

「危険だったの?」


 どう答えようか迷い、ちょっと間が開いてしまった。オルツィは何かを察したのか「休む? それとも食事にする?」と話題を切り替える。ユルトの中は暖かいが、何かよそよそしい。


「ツェグお婆さんの鹿鍋が食べたいです。あるでしょうか」

「あるわ。昨日獲れたばかりよ」

 早速出て行こうとするオルツィを呼び止める。


「これを。ありがとうございます、役に立ちました。ツェグお婆さんの掛毛氈タペストリーも」

 立ち上がり、短刀を手渡す。


「あと、オルツィさんに」

 手の平を広げ、青い鉱石の首飾りを見せた。


「きれい。どうしたの?」

「私が作りました。一晩かかってしまいましたが」

「これをわたしに?」

「受け取ってくれますか。感謝のしるしとして」


 男から女に贈るのだ。その意味を樹延ジュエンも分からぬではない。

 だが祖国から追われ、何一つ持たぬ今の樹延に、感謝以上の感情を伝えられるはずがなかった。


「嬉しい。大事にするわ」

 オルツィは春の日なたのように笑った。


 一歩近づき、首の後ろに手を回して革紐を結ぶ。腕に彼女の息がかかる。うまく結べなくて顔を近づけると、ほのかに花の匂いが立った。これも普段とちがう。


 結び終えると、オルツィは自分の胸元に手を当てる。

「似合う?」

「はい。オルツィさんの瞳と同じです」


 見つめ合った。言葉はなく、どちらからともなく唇と唇が触れそうになり、樹延が目を閉じかけた時だ。


「ジュエーン! 一緒に湯殿行こうぜぇ」

 陽気な声でサムラが入ってきた。


 さすが幻獣守のオルツィは反応が速く、樹延が動けなくなっている間に背を向け、二歩離れていた。背中越しに「鹿鍋の支度をしておくから行ってらっしゃい」と告げられる。


 湯殿で脱いだ衣をたたんでいると、サムラに下半身をまじまじと見られている。

「ジュエンはちゃんとついてるんだな。しんには切られた男がいるんだろ? なんて言ったっけ」


宦官かんがんですか」

「そう! なたで切り落とされるんだって? 怖えぇなー」


 湯は少し熱いが、旅の疲れにはじんと効く。

 それから昨晩の相手の女人の話になり、樹延が断ったと話すと「本当についてるんだよな?」と、もう一度確かめられた。


「ツェグお婆さんはとてもお元気そうですが、一体おいくつなんでしょうか」

 樹延が話題を変えると、サムラは「それな」と笑う。


「何歳なのか誰も知らないんだけどな。ツェグ婆はすっげー子だくさんでさ、二十人以上産んだんだって。オルツィだけじゃなくて、他にも孫曾孫は数えきれないほどいてさ。オレも含めて村中みんなツェグ婆の子孫ってことになってるんだ」

「すごいですね」


「若い頃は幻獣守だったって聞いたぜ。オルツィは小さい頃に母ちゃんを亡くして、幻獣守の父ちゃんとツェグ婆に育てられたから、自然にそうなりたいと思ったんだろうな」

 どんな子どもだったのだろうか。ツェグ婆に今度聞いてみたいと思った。


 食事を終えると、気持ちよく眠ってしまっていた。気付いたのは、オルツィに起こされてからだ。 


「樹延さん、起きて」

 ユルトの中はまだ暗い。獣脂を燃やす行灯あんどんが一つ灯っていて、オルツィに揺すられていた。


「何かあったのですか」

「青い霧が出ているの。蒼き狼≪エジン≫が来るかもしれない。わたしは湖へ行くけど、樹延さんはどうする?」

「行きます」


 外に出ると、湿った苔と土の匂いが妙に生臭い。行灯を掲げても先は見通せず、辺りが青白いことだけがわかる。一歩進むごとに匂いは濃くなり、霧を吸うと肺にチクチクした痛みを感じた。


「青い霧は湖から来るのですか」

「そうよ。普段と違うわよね」


 これまでも通常の白い霧は何度か発生して樹延も見ているが、今夜は明らかに違う。もっと肌に重たく、水そのものを感じるのだ。霧の一粒一粒が生命体であるかのような生々しさに、肌が粟立つ。


 湖のほとりにはトノウ、ミグ、サムラの幻獣守たちに、もう一人見たことのない男がいた。眉を上げたのはミグだ。


「おいオルツィ、なんでそいつを連れてきた。島に渡らせる気か⁉」

 オルツィは答えない。代わりに初めて見る男が口を開く。


「構わねえよ。俺が許可する」

「何を言うツァギール! こいつは部外者だ!」

「俺がいいと言ってんだろ。シャーマンの言う事が聞けねえのか」


 湖の浮島、オリホン島に一人暮らすシャーマンがいると以前サムラが話していた。オルツィの兄のツァギールだ。まっすぐな蜜色の長髪が馬のたてがみのようで、兄妹きょうだいなのにオルツィとは雰囲気も人相も全く違う。


 ミグは苛立ちを隠そうともせず、噛みつきそうな目で樹延を睨みつけた。

 トノウとサムラ、ツァギールとミグ、オルツィと樹延に分かれて小舟へ乗り込み、オリホン島へと向かう。


 湖上は一層霧が濃く、舟首に吊るした灯りを判別するのがやっとだ。だから灯りが三つだけでなく、もう一つあったことに気付くのが遅れた。

「誰⁉」


 最初に声を上げたのはオルツィだ。背負っていた槍を引き抜き、舟上で構える。

 しばしの沈黙の後、舟にかぎがかけられ、霧の中、いきなり黒いものが左から飛び移ってきた。人だ。目だけ出して、全身を黒い装束で覆っている。


 黒い男が突き出す短刀を、オルツィが連続して槍で弾く。舟が大きく揺れた。鉤の先に縄がついていて、舟ごと手繰り寄せられているのだ。


 樹延が鉤の縄を切ろうとすると、敵のいかだがすぐ目の前に現れる。直後、刃が眼前に迫り、慌てて後ろに飛びのいて、尻もちをついた。

 敵は二人。縄を手繰っていた男がこちらの舟べりに足をかけている。


 オルツィの相手の黒い足が目の前にあり、樹延は無我夢中で飛びついて足元をすくう。バランスを崩したところを、すかさずオルツィが槍で湖へと叩き落とした。


 だがもう一人が乗り移り、飛びかかってくる。

 狙いは樹延だ。横に転がり、足で蹴る。かわされ、刃が迫る。

 黒い背中にオルツィが槍を突き立てた。

「立って! 樹延さん!」


 だが黒い男は痛みをものともせず、鋭い回し蹴りであっという間にオルツィを湖に落とした。

 一呼吸にも満たない間の素早い身のこなし。武芸は門外漢の樹延にも、相当の手練れと分かる。秦の手先は既に侵入していると虞姫ぐきが言ったのは、これか。


 だがオルツィも負けていない。水中から槍を投げつけ、再び男の背に突き刺したのだ。ぞっとする暗い目で男は振り返り、忌々しげに槍を引き抜き捨てた。


 猛然と泳いで舟へ戻るオルツィだが、突然水中に消える。先に水へ落とされた男が、オルツィの体を押し込んでいるのだ。


「オルツィさんッ!」

 飛び込もうとしたところを、舟上の男に思い切り踏みつけられる。膝で背中の中心を抑え込まれ、舟が大きく傾いだ。首を持ち上げると、水面からオルツィの白い腕が伸びて弧を描いている。再び上から押さえつけられ、沈むのが見えた。それきりだ。


 ——やめろ。やめてくれ。なぜ死神は、心優しい正しき人ばかりを選ぶのか。なぜ私を迎えに来ない。


 踏みつけられた樹延の腹の内から、暗くどろどろしたものが広がる。臓腑を焼くような熱さで、体に信じられぬ力が巡った。


 両腕で舟の底面を押す。踏みつける男の足が動揺するのが分かる。そのわずかな隙と舟の振れを利用し、一気に体を捻転させ、全力で蹴りつけた。そして間髪を入れずに体を起こし、右肘と肩で相手の懐へ突っ込む。勢いは十分だ。共に湖へ転落した樹延の目の前に、オルツィの槍が浮いている。


「ウオオオオオオォォォッ!」

 手にした槍を、渾身の力で黒い男に突き立てた。向こうから泳いできたサムラがもう一人と戦っているが、オルツィの姿はやはりない。


 大きく息を吸い、樹延は頭から水中へ潜った。下へ下へと水をかくが、腕には何も触れない。水の中は暗く、何も見えない。それでも左右に進み、手足を動かし必死に探した。


 バイカルの神よ、蒼き狼よ。命を欲するならどうか、彼女ではなく私の命を。


 樹延の息も苦しくなるが、浮上する時間すらも惜しい。オルツィはまだ水中にいるのだ。諦めてたまるものか。

 その時、ずっと下の方で水底が胎動する。樹延の周りで、水が塊として動いた。


『示せ』


 突如、激しい水流に抗う術もなく体を持っていかれ、手足があらぬ方向へ引き延ばされる。水の動きに翻弄され、右も左も上も下も分からない。息はもうもたない。吐き出してしまうと吸うものがなく、喉を掻きむしる。


 苦しさに目を剥くと、いきなり陸地が見え、反射的に身を固くする。水の塊と一緒に叩きつけられた。


「ぐううっ!」

 体は痛いが、なんとか動かせる。息も吸える。引いていく水に体を持っていかれないよう、地面に爪を立てた。


 四つん這いのまま顔を上げる。なぶられた髪を分けると、バイカルの青や翡翠色の湖面を写した毛並みの獣が、目の前にいた。


「蒼き狼……」

 トノウの声だ。見ると、サムラ、ミグ、ツァギールも同じようにずぶ濡れでうち上げられている。


 湖面は嘘のように静かになっている。湖には霧がたなびいているのに、この陸地の上だけは霧が晴れている。だから月光を受けた蒼き狼≪エジン≫の姿がよく見えた。


 狼というにはあまりに大きく、四つ足で立つ姿は樹延の身長よりも高い。青い霧を従え、全身に水滴がたくさんついているが、毛はふわふわして見える。


「っ、オルツィさん!」

 狼の牙の間から、濡れそぼった蜜色の髪と白い腕が見えたのだ。駆け寄った樹延の腕へ、蒼き狼は咥えていたオルツィの体を受け渡した。

 息をしていない。


 すぐに地面に寝かせ、両手で胸骨を押して圧迫する。次に迷わず、オルツィの口を覆って息を吹き込んだ。


「オルツィ、しっかりしろ。戻ってこい」

 トノウの声も緊迫している。樹延は何度も何度も繰り返した。


「どけっ、俺がやる!」

 ミグが樹延を除けようとした時、オルツィの体が跳ね、大量の水を吐き出した。今度は樹延がミグを除け、オルツィの体を横向きにする。口の中に手を入れ、掻きだした。


「オルツィさん!」

 浅い呼吸とともに、うっすらとオルツィの瞳が開く。


「じゅえ……」

「オルツィ、俺が分かるか?」

 トノウに向けて頷いた。意識もしっかりしている。


 気を抜いた隙に再びミグが樹延を除け、オルツィを抱き上げていた。

「すぐに温めてやった方がいい。ツァギールのユルトを貸してくれ」

「いいぜ、来な」

 

 ツァギールのユルトということは、ここはオリホン島なのだろう。

 樹延は辺りを見回したが、蒼き狼≪エジン≫の姿は既に消えていた。

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