冒険開始
牛乳せっけんの芳香が、鼻腔をくすぐった。
午前二時。
無風と、厳しかった気温が少し和らいだおかげだろうか。
身を縮めなくとも、手をこすり合わせずとも、寒さに耐えられる夜空の下、ぼくと君は大きな公園にいた。
もう中に入れなくなった蒸気機関車の前にいた。
昼間。
どこかの団体によってお別れ会が行われた時、集まった町内市内県内はたまた県外の人たちが掃除したので、あと七時間後に撤去を迎える蒸気機関車の外観は、とてもきれいになっていた。
トントントトトントントトン。
君は三段の金属製の階段を上がって、人差し指の第二関節で扉をノックした。
トントントトトントントトン。
トトトトトトトントトントン。
リズムのよいノック。
私が来たから開けてという合図。
君がノックしたからこそ、蒸気機関車の扉だからこそ、奏でられた音だった。
少しだけ重厚感のある、それでいて、金属音独特の響きもある音。
もう、聞けない音になる。
ぼくたち、これからどうなるのかな。
秘密基地がなくなったら、会わなくなるのかもしれない。
いつだって会うのは、蒸気機関車の中だったから。
撤去されていなくなる蒸気機関車のように。
ぼくたちの関係もなくなってしまうのだろうか。
もう、会えなくなってしまうのだろうか。
今度は違う場所で会おうって、約束を交わせばいいだけなのに。
言葉が出てこない。
こんなにもろくあやうい関係だったのか。と、思い知る。
秘密基地がなくなるだけで、会えなくなるんじゃないかって、こんなにも怯えることになるなんて。
牛乳せっけんの芳香が、鼻腔をくすぐる。
全身をくすぐる。
心もくすぐる。
クリスマスは終わった。
クリスマスケーキ製造の短期アルバイトも終わった。
君からスポンジケーキの芳香がしなくなった。ら。
あっという間に、今年が終わり、新しい年が始まる。
今年もよろしく。
毎年毎年言えていたのに、
もう、言えなくなるのかな。
「新しい秘密基地、探さないとね」
三段の金属製の階段を下りて地に足をつけた君は言った。
蒸気機関車がなくなっても、ぼくたちはまた会うのだと、さも当然に。
「私とあなたの、二人だけの、秘密基地」
ワクワクドキドキが止まらないと冒険を始める旅人のように、満面の笑みを浮かべて。
ぼくは笑った。
たぶんとっても、情けない笑顔だった。
そして、フライングしてしまった。
来年もよろしくって言ってしまったのだ。
君は噴き出さずに、目を細めて言ってくれた。
来年もよろしくって。
うんよろしく。
ぼくは涙声交じりに返した。
今までありがとうございました。
蒸気機関車に深く頭を下げて感謝を伝えて、一緒に歩いたぼくと君は公園の出入り口で、いったん足を止めて、手を上げて、別れた。
またねと言い合って。
(2023.12.27)
スポンジケーキ 藤泉都理 @fujitori
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