過去からの音

冬 時見

幻想と、アルバイト

その老人たちは、ままならない身体を引き摺りながら生きていた。筋肉がすっかり衰えて震えてしまう頼りない手足では、朽ちきった鈍重な肉体を支えることは到底できなかった。それが仮に寝室から洗面台までの僅かで平らな道のりであっても、彼らにとっては、随分と、遠い道のりだった。

老人たちはいつまでも過去に囚われている。脳は混乱の中にあり、でたらめな仕事ばかりをする。無造作に記憶を繋ぎ合わせてしまい、それは結果的に幻想を作り出すことになるのだが、当人はつじつまの合わない幻想を信じ込み、その世界へ浸かってしまう。人は、脳のした仕事を、きっかけもなしに疑わないからだ。だから彼らは日によって、自称する年齢を変えたり、記憶の中で死者を勝手に蘇らせてしまう。それが幻想であるとも知らずに。

彼らはまるで、この現実世界で夢を見ているようだった。彼らは時として、まだ若かりし十四歳の乙女なのだ。未発達のみずみずしい肌の身体をもち、艶のある黒髪を下げている。彼女は目を覚ますと、いつものように、顔を洗いに行く。寝室を出て、洗面台まで歩こうとする。途中で転んでしまうかもしれない。あるいは身動きのとりづらくなった身体の異常に気が付くかもしれない。ともあれ彼女は歩き出す。十四歳の乙女からすれば歩くことなど、意識的には造作もないことなのだ。

やがて彼女は、苦労して洗面台に一人で辿りつくことができる。そうして鏡の中に映る自分をようやく発見するのだ。それはあまりに残酷な仕打ちだろう。起床したときには、確かに持っていたはずの、あのみずみずしい身体は鏡を見た途端にすっかり朽ちてしまったのだ。


     ⒈


夕方。九月。ひどい夏の暑さも和らいできた頃に、僕は介護職のアルバイトに応募した。

面接は施設の二階にある事務所にて行われた。施設の関係者(年配の女性)からその仕事を紹介されたこともあって、結果から言えば面接はあってないようなものだった。志望動機や所属する大学、あとは個人的なことを答えると、その場で採用が決まり、あとは施設での待遇、そして業務内容を説明された。

まだ解けきらない緊張と、残暑の感覚に浸された僕は汗をかいていた。

老人たちの帰った二階は冷房がついておらず、窓が開けられているだけで、蒸し暑かった。僕は事務所でシャツと皮膚の間を流れる汗を感じながら、面接官の話が終わるのをじっと待っていた。

仕事についての話が片付き、彼と軽く世間話をしていると、これから僕の実質的な上司になる明島という男がやってきた。面接官の男が、明島さんはホームの管理人を務めているのだと僕に紹介した。

明島さんは他の職員らと同様に、「管理人」という言葉にそぐわない、随分とラフな格好をしていた。家で着るような半袖のガンダムのイラスト付きTシャツに、ジャージのズボンを履いていた。眼鏡をかけていて、髪も流しているというよりは、自然に生やしているだけ、といった印象があった。二の腕が太く、がたいも良かった。意識的に鍛えているわけではなさそうだったが、それなりに筋肉が付いていると僕は判断した。年齢は四十歳くらいだろうか。マスクをした目元だけの表情は、やけに若々しく見える。

「初めまして。ホームの管理人をしてます明島です。よろしくです」

明島さんは目元をニコニコさせながら、何度か頭を下げた。

「初めまして、伊藤と言います。これからよろしくお願いします」

僕が簡単な挨拶を済ませると、面接官の男が、明島さんに僕を詳しく紹介した。まだ大学生であること、今年で三年生になること、卒業に必要な分の単位はほとんど取り終えていることなど、主には学業の説明だった。

「まだ学生なのに、えらいねぇ」と明島さんは言った。「僕なんかが学生のときは遊んでばっかりでしたけどね。誰かの家に集まって麻雀とか、グラウンドで野球したりしてましたよ。学校行ってるんじゃなくて、野球しに行ってるようなもんでしたもん」

「それじゃあ、親御さんはがっくしきたでしょうね」と面接官が言った。

「いやいやいやいや。学生は遊ぶのも大事ですからねぇ。ねぇ伊藤さん」

「まあ、そうやと思います」と僕は言った。

「でも伊藤さん、単位も全部とってるんでしょ。凄いなぁ。僕なんかからっきしの低空飛行でしたもん。ぜんぜん遊んでないのとちゃいますか?」

「そんなこともないです。祇園の辺りに飲みに行くこともあります」と僕は正直に言った。そうだ。僕がアルバイトをする理由は、何も社会奉仕をしようというわけではないのだった。単純な理由――生活をするための金が要るのだ。金銭的に困っていたところへ、タイミングよくアルバイトを斡旋してくれたものだから、僕はそれに食いついたに過ぎない。

漫才みたいな笑いのあるやり取りが終わると、明島さんは僕にホームの見学をして帰るように勧めた。

「もし忙しくなければ、ということですが。今日せっかく、こうして来てくれているわけですからね」と。

僕は明島さんからの提案をほぼ反射的に承諾した。本当は帰りたかったのだが、帰るためのそれらしい言い訳を、咄嗟に思いつけなかったのだ。

事務所から出る頃には陽は暮れはじめていた。外のほうが閉鎖的な施設の中よりも随分と涼しかった。空気も野原の吐息ように新鮮だった。

階段の踊り場のところまで、膨らんだ風が入ってきて僕の前髪をなびかせた(僕はそれをそっと抑える)。

街を浸している西日の光はオレンジっぽさが抜けて、白く照っていた。近隣の小学校からはボールみたく弾む子供の笑い声が聞こえてくる。小鳥の声もどこか――おそらくは黒い電線の上だとか――から聞こえてくる。

それは美しい夕暮れどきだった。僕はやはり、このまま帰ってしまいたかった。

「まだ暑いねぇ」という明島さんの言葉で僕はハッとした。適当になってしまった相槌を打ちながら置いていかれまいと細い手すりを掴んで、足場の狭い階段を急いで下りた。


新しいアルバイト先は、大学からそう遠くない立地にある。今の下宿先と大学とバイト先の三点を繋ぐと、少しいびつな二等辺三角形が出来上がるイメージだ。

施設は閑静な住宅街の中にある。付近には私立小学校と公立小学校が一校ずつ、その他にはイオンが一つあるくらいで、そのほかに目ぼしい何かがあるわけではない(僕がお世話になっている煙草屋や、美味しい鍋屋さんとか、そういう個人的におススメできる好きな場所はあるのだが)。都会というわけではないし、廃れているわけでもない。とても長閑なのだ、そこは。バスも頻繁に通っていたし、散歩に適した鴨川も近い。季節の変わり方も穏やかで。日差しを遮る高層マンションもビルもない。そういう意味で、そこは住むにはとても快適な街だった。

そんな街に、一軒のアパートが聳え立っている。目立つ色合いではなく、背丈も控えめで、うまく京都の街並みに溶け込んでいる。コンクリート造りで壁は白い。普段は清潔な印象がある建物だ。

しかし夕方から夜にかけて、アパートの表面には夥しいだけの影に集まり、清潔だった壁は雨に降られたみたいに黒ずんだ(僕がアルバイトへ行くときは、シフトの都合で決まって夕方だった)。だから、時間帯にもよるのだが、僕はそのアパートを見るとき、廃墟を見ているときのような気持ちに駆られることがしばしばあった。

ここの法人の一連の施設は、どういう経緯かそのアパートの中で経営されていた。正確に言えば二階でデイ、一階でホームが経営されていた。二階から上の階層には、どうやら一般人が住んでいるらしい。

一階といっても、そこは半地下にあった。つまり、地上よりも低い位置に一階が設けられているのだった。一階の構造はアパートのための造りではなく、一階へ下りていくにも階段ではなく、車椅子用のなだらかな坂を使う。


引き戸を開けると、目立つ鈴の音が鳴る。引き戸は、小さな子供が簡単に引いて開けられないくらい重たく作られている。

戸をくぐった途端、それまで視界にあった明かりが遮られ、急に萎んで暗くなった。立ち眩みを起こしたみたいな変わり方だった。施設の中はずいぶん薄暗い。半地下の位置にあるためか、陽の明かりを取り込みづらい構造をしているらしかった。

引き戸が完全に閉まって、外との連絡が遮断されると、僕はまた空気が塞がるのを感じた。

一階の空気は、二階と比べてみても異質なものだった。夜の、雨上がりの路面からむっと立ち昇った「あの」質感に似ていた。頬が透明な膜に触れているみたいだ。閉鎖的な空気は人に近しい温度をもち、実体のない透明な質感を備え、そしてその淀んだ感じは妙な臭いを内包していて、空間を浸し、僕の鼻孔を不快に刺激した。

(これは後からわかることなのだが、空間を浸している「臭い」の正体は、排泄物の付いた下着や衣服を清潔にする薬品の臭いのせいで、それが玄関口のほうまで漂ってきているのだった。)

「よかったら今日はこれ履いてください」

明島さんはそう言って、スリッパを出してくれた。僕は言われた通り、それに履き替える。玄関にはクロックスが一足、スニーカーが二足、僕と明島さんの脱いだ靴が一足ずつ、全部で五足の靴が踵を揃えて置かれていた。

「ありがとうございます」

僕はスリッパを出してくれたことに礼を言った。

「いえ……あの、そんなに緊張しないでいいですからね」

明島さんがにっこり笑った。マスク越しにもそれがわかった。

「はい」と僕は返事をする。

「うちはアットホームなところですから。息を抜いて適当にやってください」

「わかりました」

「それじゃあ、施設を案内する前に、まずは軽く入居者の方々に挨拶していきましょうか(僕は頷き、彼についていく)。こっちがリビングで、今みたいに入居者のみなさんは普段ここでリラックスしてることが多いです」

案内されたリビングでは、物静かな老人たちが椅子へ腰かけていた。一見すると(一部の老人を除けば)、彼らはごく一般的な老人に見えた。髪は白く、年相応に薄くなっていて、桃色の頭皮が少し見え隠れしている。腰は曲がり、皺があり、ゆったりとした時間の経過を体内に蓄えていることが外見からわかる。特に変わったところはないように思えた。「事前情報」がなければ、彼らが重度の認知症患者であるとは思いもしなかっただろう。

老人たちは椅子に座って、何もしていなかった。少々投げやりな言い方だが、そうとしか表現することが出来ない。僕の目からすれば、彼らはリラックスしているというわけでも、ぼぅっとしているわけでもないように見えた。

ただ何もしていない。そういう風に僕には思えた。

多くの老人たちはうなだれているか(寝ているのかもしれない)、あるいは虚空を静かに眺めていた。共通して彼らはじっとしていて、息遣いや身じろぎみたいなものもほとんどなかった。入居者たちは新しくやって来た僕に対して、特にこれといった関心がない様子だった。小動物が音のした方角へ目や耳の感覚器官を向けるように、数人の入居者たちは、くたびれた冷たい目で僕を一瞥し、そしてまた元通りになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

過去からの音 冬 時見 @huyutokimi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る